敵国から来た弁護人(4)

東京裁判で元内大臣木戸幸一の弁護を担当した米国人弁護士ローガンの苦闘する姿を描いたドキュメンタリー物語

 

これまでのあらすじ

 東京裁判は、ローガンらが来日する前の2020年5月3日に始まり、法廷で序幕に相当する行事が行われていた。そして、弁護側から裁判長に対する忌避や裁判管轄権不存在に関する動議などきわめて重要な申し立てがなされたが、裁判所はそれらのすべて却下したうえで、「その理由は将来告げる」と述べただけ序幕を閉じた。

 6月4日から、遅れて来日したローガンらも出席して再開された法廷で、本格的な審理と検察側の立証作業が始まった。最初に検察は壮大な立証計画を示し、日本が軍国主義化を進めるとともに、満州から中国への侵略を行っていった様子を多数の証人の証言と書証の提出によって証明する作業を開始した。 

 

 2.3 「満州侵略」部門で見せた検察の手の込んだ作戦
 検察側の立証は第2部(満州侵略)に進んだ。ここで注目を引いたのは、1946年7月5日に出廷した元陸軍少将田中隆吉だった。いつもは予め作成された宣誓口述書を朗読することによって主尋問に替えるのだが、このときばかりはサケット検事がわざわざ直接本人に尋問した。それは、証人本人の口から直接証言させた方が裁判官に強い印象を与えることができるとの検察側の読みがあってのことだった。案の定、田中証人は見事に検察の期待に応えた。

 田中は1928年の張作霖の殺害が河本大佐によって計画され実行されたこと、1931年の満州事変が橋本被告、板垣被告、大川被告らを首謀とする人々によって行われたことなどを証言した。その際、法廷内にいるそれらの被告をその都度指で指し示した。このような田中の証言と所作は、事前に検察による綿密な演技指導を受けたものであることは誰の目にも明らかだった。

 どこよりも厳しい序列が支配していた陸軍において、後輩に派手に裏切られた先輩被告たちは、怒りを抑えきれず、証言台の田中を罵倒する声を発する者もいた。田中によって犯人と名指しされた被告を担当する日本人弁護人は入れ替わり立ち替わり反対尋問に立ちあがり、田中が不起訴の保障と引き換えに検察への協力を誓ったのではないかと疑う質問を繰り返したが、有効な反撃とはならなかった。

 その間、裁判長はたびたび弁護人の反対尋問に対して「関連性がない」とか、「被告に有利な質問とは考えられない」と述べて弁護人の質問を中止させるなどした。栽判の進行を急ぐためか、裁判長は回りくどい日本人弁護人の反対尋問にいらだちを隠さなかった。

 検察側立証の第2部のハイライトは、清朝の最後の皇帝でし国の皇帝であった溥儀(フギ)の証言だった。溥儀は1945年8月にソ連満州を占領したときに捕らえられ、ソ連ハバロフスク近郊に捕虜として抑留中であった。その彼が東京裁判の検察側証人としてソ連から護衛付きで東京に運ばれて出廷し、彼の証言に世界中の注目が集まった。検察側はそれを意識してか、田中証人の場合と同様に、宣誓口述書によらないで、キーナン主席検事が直接溥儀に尋問した。

 溥儀は長期間ソ連に抑留されていたためか、かつての皇帝の面影はなく、やせ細っていたが、証言台での彼は抜け目なく、驚くほどしぶとかった。

 キーナンの主尋問に対しては、彼が満州国の領袖になったのは、当時関東軍高級参謀であった板垣被告の脅迫によるものであり、拒否したら殺されるかもしれないと思ったので、嫌々引き受けたと述べ、皇帝就任後も自分には一切自由はなく、皇帝とは名ばかりだったと証言した。彼の証言には保身のための嘘や作り話が含まれていることは誰の目にも明らかだった。名指しで非難された板垣被告をはじめ、溥儀をよく知る他の被告たちは、被告席で怒りの表情をあらわにした。

 弁護人たちは、溥儀の証言開始前には、彼と天皇の関係を考慮して反対尋問をしない方針を決めていたが、彼の証言を聞いて怒りを爆発させ、ブレィクニ―が立って反対尋問を始めた。だが、これまでの法廷で強靭な論理を駆使して鋭い反対尋問を行ったことで高い評価を得ていたブレィクニ―弁護人も、この証人にはてこずった。溥儀はどこまでもしぶとかった。「知らない」、「わからない」を連発して逃げ回った。ブレィクニ―も執拗に迫った。いらついた栽判長がたびたび尋問に介入した。その結果、ブレィクニ―の反対尋問は裁判長を交えた三つ巴戦になり、混乱は増幅した。

 溥儀の反対尋問は7人の弁護人により5日半続いたが、その間溥儀は尋問者を激怒させ、翻弄し、疲労させ、法廷内をいらつかせただけだった。

 木戸もこの様子を日記に次のように書いている。 

1946年8月19日(月)晴
 午前8時出発、法廷に行く。九時半開廷。溥儀に対する主尋問が行われた。平気で虚言をはく同氏の態度は近来にない不愉快なものであった。

 

2.4 日本国民を驚愕させた南京大虐殺
 溥儀の証言を挟んで、検察側立証の第3部「中華侵略」が行われた。そこで検察が明らかにしたことは、多くの日本国民にとって衝撃的なものだった。

 検察は、1937年7月に起きた盧溝橋事件をきっかけにして始まった支那事変は、日本による中国に対する征服と殺戮と凌辱を目的とした計画的で組織的なものだったとして激しく非難し、それを裏付ける証拠を次々と提出した。それらは弁護人の予想をはるかに超えるものだった。思いがけない展開に弁護人はなすすべなく検察の立証を見守るほかなかった。

 検察が用意した証人たちの証言が明らかにしたのは、この世のものとは思えないほど残忍なものだった。特に衝撃的だったのは、1937年12月13日、中国の首都南京を占領した日本軍が暴徒化し、一般市民に対して無差別の殺戮を行い、20万人とも、30万人とも、40万人ともいわれる中国の一般市民を殺害し、何万人もの中国人女性を強姦したというのだ。これはその後「南京事件」と呼ばれ、今でも日中間で歴史認識を巡って論争になっているものである。

 日本軍による殺戮の様子が法廷で証人によって生々しく語られた時、法廷にいた者は耳を疑い、まさかと思いつつも、遠い国で自分たちの知らないことが起こっていたことを初めて知った。この大惨事は発生当時日本国外では広く報道されていたが、日本国内では厳重な報道管制が行われたため極秘にされていた。

 最も衝撃的だったのは、南京アメリカ教会牧師ジョン・G・マギー、南京大学外科部長だったアメリカ人医師ロバート・C・ウイルソン、同大学歴史教授ベイツらの証言だった。これらの証人はその立場からみて、中立的で、証言の信憑性が高いとみられたからだった。

 彼らの証言によれば、日本軍の兵隊がある時は集団で組織的に、ある時は個別に、暴徒のようにいたる処で機関銃や小銃で南京市民を殺害し、その死体が市内のあちこちにごろごろ転がっていたというのだ。さらに、兵隊たちは女を求めて徘徊し、手当たりしだいに強姦し、抵抗すれば即座に突き殺したという。大学の構内だけでも、9歳の少女から76歳の老婆まで強姦されたというのだ。検察側が周到に用意した証人たちによってそれらの様子が語られるにつれ、法廷内は重苦しい空気に包まれていった。被告たちはうつむき、じっと恥辱に耐えるほかなかった。

 南京攻略は松井石根被告が中支那方面軍司令官であったときに彼の進言に基づき彼の指揮下で実行されたものだったので、彼がこの事件の責任者であることは明らかだった。もっとも、彼は事件が発生した12月13日から4日後の17日に南京に入ったとされており、直接現場で指揮を執れる状況にはなかったが、それは弁解にならなかった。被告席の松井は、忌まわしい事件の生々しい様子が証人の口からは話される間、下を向いてじっと耐えるほかなかった。松井の弁護人であり日本人弁護団長の鵜沢も松井担当のアメリカ人弁護人のマタイスもその他の弁護人もなすすべがなく、ただ茫然と検事と証人のやり取りを見守るばかりだった。

 そのような中で、わずかにブルックス弁護人(小磯被告担当)がマギー証人に対して果敢に反対尋問を挑んだ。多くの日本兵が無数の一般市民を殺害し、無数の婦女子を強姦し、無数の一般市民の財産を略奪したとのマギー証人の証言について、ブルックスは実際に証人が自身の目でその状況を目撃したのはそのうちの何件かと鋭く切り込んだ。すると、証人の答えは曖昧になり、結局、証人が直接目撃したのは殺人が1人、強姦が3人という証言を引き出した。それ以外の証人の話はすべて「伝聞(また聞き)」ということになり、マギー証人の証言の信憑性は著しく弱められた。

 

2.5 弁護人たちの苦闘の日々と休息のひととき
 検察側の立証が進むにつれて、法廷での弁護人の発言はアメリカ人弁護人のものが目立つようになった。

   その背景に、栽判のやり方や手続が基本的にアメリカ方式で行われていたため、日本人弁護人はそれに不慣れであったことがあげられる。アメリカでは「当事者主義」と呼ばれる方式で刑事裁判が行われ、法廷では当事者(検事と弁護士)が主役であり、裁判官は法廷のルールがきちんと守られることと、陪審員の評決が公正に行われることを見守る立場にあると考えられていた。そのためアメリカでは、ルールの枠内で、弁護士は被告のためになし得るすべてをなすことがその使命と考えられており、弁護士は裁判官や検察官と対等に対峙し、必要な場合には臆することなく異議を申し立てて闘うことを躊躇してはならなかった。

 東京裁判の速記録を読み進むと、アメリカ人弁護人が裁判官や検察官と激しくやりあう場面がいたるところで延々と続くことに気付く。ときには起訴事実の審理から外れて、大小さまざまな法技術論を巡る議論が続くことがあり、読者としてはうんざりするが、アメリカ人弁護人にとってはやるべきことをやっているだけなのであろう。

 日本人弁護人もアメリカ人弁護人に負けてはならないと、異議の申し立てや反対尋問を行う者が徐々に増えてきたが、彼らの動きはまだまだ緩慢だった。外国人の眼には日本人弁護人の態度は卑屈に見え、被告を守るために裁判官や検事と強く闘う気迫が見られないとの厳しい批評があった。戦前の日本の法廷では、「職権主義」の名のもとに裁判官が自ら職権で取り調べを行うべきものとされ、弁護人の役割は限定的だった。それに慣れていた日本人弁護士の姿勢に覇気が感じられなかったのは、ある程度やむを得ないことだった。

 さらに言えば、裁判における「正義」の考え方に、日米で少なからず違いがあった。日本では正義は歴史を超えた普遍的真理であり、それを習得した裁判官が裁きを主宰すべきであると考えられていたのに対して、アメリカでは正義はもっとダイナミックなもので、その時々の異なる立場の人々が自由に意見と証拠をぶつけ合った、末に双方の意見と証拠の力が均衡する地点に正義があると考える傾向がある。アメリカの裁判は、法の正当な手続きのもとで当事者双方が論理と証拠の力比べをし、押し勝った方に軍配が上がると言っても言いすぎでない。その意味で、裁判は得点の多さを争うスポーツに近く、アメリカ人弁護士はスポーツ選手のように日ごろから技を磨き、その技で生計を立てているのである。

 スポーツ選手のように戦闘的なアメリカ人弁護人たちにも休息は必要である。過酷な東京裁判のスケジュールのもとで、法廷での仕事の後のわずかな息抜きは、ホテルのバーで酒を飲み交わすことぐらいだった。彼らの話題の多くは、悲惨な仕事環境や目の前で展開する裁判手続きについての愚痴だった。

 ある日の夕方、ローガンがヤマオカとホテルのバーで一緒に飲んでいた時、ヤマオカが次のようなことを口にした。

「うちの法律事務所の同僚が、彼のロースクールの同期生だったチャールズ・ケーディスという男が現在東京のGHQでマッカーサーの右腕として辣腕をふるっているという話をしていたのを覚えているだろう。実は数日前、帝国ホテルで開かれたあるパーティーでそのケーディスに会ったんだ。今や日本で彼のことを知らない人はいないと言われるほどの大変な実力者らしい。われわれ東京裁判の弁護人の悲惨な状況のことが彼の耳にも届いているらしく、われわれが困っていることでGHQが手助けできることがあれば遠慮なく言ってくれと言われたんだ」

「ほー、それで君は何か彼に頼んだのか?」

「頼みたいことはいっぱいあったけど、頼むのはやめたよ」

「どうしてなんだ。聞くところによれば、検事たちはGHQの組織に入れてもらって、随分優遇されているそうじゃないか」

「それは俺も知っているけど、俺たちはそんなことは許されないだろう。同じ裁判で闘っている検事と弁護人が同じ組織に組み込まれて仲良くしていたらおかしいだろう。そもそもGHQは実質的にわれわれの依頼人を起訴した者だから、俺たちがそのGHQに助けを求めたら、依頼者に対する裏切り行為になるだろう」

「なるほど、それはそうだな」

「ただね、俺も彼に嫌味を言っておいたよ。GHQの手厚い支援を受けている検事たちに対して、われわれは『B29に対して竹やりで立ち向かっているようなものだ』とね」

「まったくそうだ。それでケーディスの奴はなんて言った?」

「ニヤッと笑っただけだった。ところで、日本ではマッカーサーは今や戦前の天皇みたいな存在らしい。そして、GHQの民生局長のコートニー・ホイットニーはさしずめ内大臣木戸幸一に当る。アポイントなしで自由にマッカーサーの部屋に出入りできるのはホイットニーだけらしい。民政局次長のケーディスはその二人から絶大な信頼を受けて、日本の占領政策の多くを彼が取り仕切っているらしいね」

「羨ましい限りだね。木戸の弁護人のポストより、GHQ民生局のポストを俺に紹介して欲しかったよ」

「贅沢なことを言うなよ」

 愚痴で始まった2人の会話は笑い話で終わったが、ヤマオカが最近会ったというケーディスという人物は、2人が所属しているニューヨークの法律事務所の同僚弁護士が、彼のロースクールでクラスメートだった人物がいまマッカーサーの懐刀として日本の占領統治に辣腕をふるっているらしいという話をしていたことから、ヤマオカがその人物に会ったことを話題にしたのだった。

 余談だが、このケーディスという人物は、その年(1946年)の2月にマッカーサーの緊急命令を受けて、わずか9日間の徹夜作業で日本の新憲法(現在の日本国憲法)の草案を作成し、日本政府にその採用を迫った中心人物であった。

 このころ、ローガンは1人の若いアメリカ人女性を紹介された。彼女はアメリカでロースクールに進学する前に、東京裁判に関する仕事を実体験したいと希望して来日したという。最初に検察側にアプローチしたが採用を断られたため、弁護人の秘書の仕事を希望しているとのことだった。足手まといになる心配があったが、有能な秘書なら欲しいと思い、会ってみたら、役に立ちそうだったので、ローガンはジョン・G・ブラナン弁護人(永野修身被告担当)とシェアする形で彼女を2人の共同秘書にすることにした。

 彼女の名はエレ―ヌ・B・フィッシェル。活発で好奇心旺盛な彼女は秘書以上の働きをしてくれた。そして東京裁判終了後、アメリカに帰国して念願だったロースクールに入学して弁護士になったフィッシェルは50年以上も経った2009年に、このときの体験をもとに「敵を弁護する」(Defending the Enemy: Justice for the WWII Criminals)を出版して話題になった。その中で彼女は、東京裁判アメリカ人弁護人が敵国日本の戦争犯罪人を法廷で弁護しただけでなく、勝者・敗者の立場の違いや国籍・人種の壁を超えて、被告とその家族や多くの日本人との間に深い絆を築いていった様子を描いている。ローガンと木戸の家族との交流の様子も写真入りで掲載されている。

 1946年の夏は厳しい暑さが続き、法廷は蒸し風呂状態の日が続いた。裁判官も検事も弁護人も全員疲労困憊だった。田中証人の証言が終わった7月15日に、裁判長は冷房が設置され稼働するまで閉廷すると宣言した。ここまでの栽判長の法廷指揮の中で、このときの決定ほど裁判関係者全員が揃って歓迎したものはなかった。
弁護人たちは思いがけず久しぶりの休息を得て一息ついた。

 ローガンは、ヤマオカ、ブレィクニ―、ファーネスらの弁護人たちと休息の時間をホテルのバーで過ごした。通りがかった他のアメリカ人弁護人たちも加わり、思いがけずにぎやかな集いになった。蓄積した疲労を酔いが溶かし、夜が更けるのを忘れさせた。話題はおのずと東京栽判のことになった。当然のことながらウエッブ裁判長が話題の中心になった。

「裁判長はおしゃべりだ」
「すぐ口を出す」
「尋問の邪魔をする」

 これらの点では弁護人たちの意見は一致した。実際に栽判長が尋問に余計な介入をしたために尋問が邪魔されて混乱し、尋問時間が長引いたことが多々あった。裁判長がキーナン主席検事と長々と言い争いをする場面も少なくなかった。2人が主導権争いをしていると思われる見苦しい場面もあった。

「裁判長は一度言い出したら、絶対に引き下がらないね」
「頑固で、プライドが高い」
「彼に対する他の判事たちの評判もあまり良くないらしい。傲慢で独裁的で、判事団の中で孤立しているという噂を聞いたことがある」
「そう言えば、ウエッブ以外の裁判官が法廷で発言することはほとんどないよね。ウエッブは他の裁判官が法廷で勝手に発言することを嫌がっているらしい」

 ここまでは、大きな異論は出なかった。

「裁判長は検察側に有利で、弁護側に不利な采配をする」
「彼はもととも反日感情が強い人間で、その気持ちが自然に訴訟指揮に現れるのだろう。特に天皇に対する反感が激しいね」

 このあたりまで来ると、栽判長に同情的なことを言う者もいた。

「ウエッブは法廷外ではなかなかの好人物だよ」
「ウエッブは夫婦で帝国ホテルに宿泊しているらしいが、ホテルでの彼の評判はいいらしいね」

 この後、一人のアメリカ人弁護人が言った。

「正直に言うと、俺はときどき弁護人席から検事席に移りたいと思うことがあるけど、君たちはそんなことはないか?」

 皆がニヤッと笑った。自分たちにも心当たりがあるという表情だった。それを見て、前年12月からフィリピンで行われた本間中将の栽判の弁護をやり、続いてこの東京裁判で重光被告の弁護を引き受けているファーネスが言った。

「俺は自分を役者だと思っている。役者は仕事なら悪役でも憎まれ役でも何でもやる。もらった役の中でどのように役作りするか、どのようにして観客の心を掴むか、それが役者の腕の見せどころだ。それがプロの役者というものだろう。弁護士も同じだと思うんだ。だから俺は、法廷の中でどっちの席に座るかに関心ないね。どんな役でも本質的に変わりないね」

 ファーネスはいつも飄々としてあまり感情を表に出さないが、このときも無表情に言った。後述するように、この男は東京裁判が終わったあとも日本に留まり、東京に自分の法律事務所を開設して国際ビジネスに関するリーガルサービスを提供するかたわら、数々の映画やテレビドラマに役者として出演し、弁護士と役者はどのような役でも引き受けるべきだという持論を実践することになる。

 このころになると、アメリカ人弁護人に対する法廷での評価が次第に固まりつつあった。大ざっぱに言うと、有能で味方につけて良かったと高い評価を受けている弁護士、検察のスパイではないかと疑われる弁護士、その中間の毒にも薬にもならない弁護士の3つのグループに色分けされた。ブレィクニ―、ファーネス、ローガン、スミス(広田被告担当)、ブルックス(小磯被告担当)、ブルーエット(東条被告担当)、カニンガム(大島被告担当)、などが第一のグループに入るとみなされたが、第三の毒にも薬にもならないグループとされたアメリカ人弁護士も決して少なくなかった。さすがに第二グループの検察のスパイと疑われた者はほとんどいなかった。

 なお、第一グループに名前をあげたスミス弁護人の硬骨漢ぶりを示すエピソードを紹介しておきたい。裁判手続きがもう少し進んで弁護側の立証に入って間もない1947年3月3日、法廷で岡本尚一弁護人(武藤章被告担当)が御手洗辰夫証人に昭和の歴代内閣の倒壊の原因について尋問を行っていたときのことだった。検察の異議を受けてウエッブ栽判長が度々尋問に介入したのに対して、スミス弁護人が立ちあがって発言した。

「広田被告を代表して証人の尋問に関して裁判所が不当に干渉をしているという理由で異議を申立てます」

 すると、栽判長が怒った。

「スミスさん、あなたはこの法廷では丁重な言葉を使ってください。あなたは法廷で『不当な干渉』というような言葉を使ってはいけません。その言葉を取り消して陳謝してください。そうでなければあなたをこの法廷から退席させなければなりません」

 スミスも後に引かなかった。

「私は20年間弁護士をしていますが、裁判長から『不当な干渉』という言葉の撤回を求められたことはありません」

「あなたは陳謝しなければなりません。もしそうしないなら、私は私の同僚裁判官に対してあなたの弁護人資格を取り消すように提案します。そして今後は被告の担当弁護人の資格を取り消すようにします。法廷に対して侮辱的な言葉を使うことは許されません」

「私は法廷を侮辱する意思は全然ありませんでした。ですから、私のただ今申しました事で、裁判所にそのような印象を与えたということがまったくわからないのです」

「侮辱的な言葉、すなわち法廷の『不当な干渉』という言葉を取り消してください」

「承服致しかねます」

 ここで裁判長は裁判官内部で審議するために15分間の休憩を宣告し、再開後に次のとおり告げた。

「スミス弁護人、裁判所はスミス弁護人に対し、今後審理より除外することにしました。スミス弁護人が法廷に対して使った言葉を取り消し、法廷に対して陳謝するまで本法廷の審理から除外することを決定しました」

「私は私の考えを変更する意思はありませんし、変更する理由も認めないので、私は永久に除外されたことになります」

 そして、スミスは自分の席に戻り、手荷物を素早くまとめて退席した。だが、この男がすごいのはその後の行動だった。何食わぬ顔をして法廷内の傍聴席に現れ、空席を見つけて座って引き続き審理を見守った。その翌日も、そしてその後も、以前と変わることなく傍聴席や記者席で審理を見守り続け、広田被告に対して法廷外で非公式にアドバイスを続けた。半年後、この状態を正常に戻すために法廷で発言を求め、他意はなかったとして復帰の許しを求めたが、裁判長に拒否され、そこで正式に辞任した。なお、広田被告の後任弁護人にはヤマオカが就任した。

 

2.6 3国同盟に対する検察の追求
 法廷に大きな衝撃をもたらした南京大虐殺の立証が終わり、検察側の立証は第4部の日本・ドイツ・イタリアの3国同盟に進んだ。
 1940年9月27日に締結された3国同盟は、起訴状では訴因第5において、世界を軍事的、政治的、経済的に支配することを目的とする3国間の「共同謀議」であると指摘されていた。

 3国同盟締結の翌年に太平洋戦争が勃発したことから、検察はこの後に行われる太平洋戦争段階の立証において、3国同盟が太平洋地域への日本の侵略を後押しする役割を果たしたとの立場で、その締結に向けた共同謀議の日本側参加者の責任を追及した。

 3国同盟は当時外相であった松岡洋右被告が強引に進めたものだったが、その松岡は東京裁判開始後間もなく病死し、法廷から姿を消していた。舞台は最大の主役が不在のため盛り上がりを欠き、淡々と進んだ。証人の出廷はなく、条約交渉や条約内容に関する書類約170件が証拠として提出されただけだった。
 続いて第5部(仏印に対する侵略)から第6部(対ソ侵略)に進んだが、大きな注目を集めることなく終わった。
 
2.7 ニュルンベルグ裁判の判決下る
 第5部の仏印侵略問題が法廷で取り上げられていた10月1日、ドイツの戦争犯罪人を裁いていたニュルンベルグ栽判の判決が下り、その内容が日本でも報道されて話題になった。

 ニュルンべルグ判決では、起訴された者24人のうち絞首刑が12人、終身刑が3人、有期刑が4人、無罪が3人、判決前に死亡した被告と免訴になった被告各1名だった。絞首刑は早々と半月後の10月16日に執行された。 

 死刑の宣告を受けた者が半数を超えていた点は厳しいという印象を与えたが、無罪とされた者があったことで、裁判手続きの中で頑張れば無罪の可能性もあるとして、東京裁判の被告の中に少しほっとした空気が生まれた。

 10月2日の木戸の日記には次の記載がある。

1946年10月2日(水)晴
 今朝ニュルンベルグの判決の報が入った。判決の理由は判らないが、無罪も3人あり、中々味のある判決の様に思われる。

 ニュルンベルグ栽判は前年の11月20日に始まっていたので、10カ月余りで判決に至ったことになる。
ところが、東京裁判は1946年5月3日に始まってからそろそろ半年になるが、こちらはまだ検察の立証が続いており、この時点での見通しでは検察立証は翌年にずれ込む可能性が高いとみられていた。その後に弁護側の反論と立証が始まるが、時間も人手も物資も極端に不足している中で、弁護人の多くは準備の遅れを嘆いていた。実際に、いつ弁護側の反証を始められるか見通しが立たない状態だった。そのため、その時点での見通しでは、東京栽判は今後順調に進んでも、裁判開始から判決までに2年はかかるだろうと見込まれていた。
このような状況を知り、マッカーサーアメリカ人弁護人が裁判の進行を妨害しているとして怒りをあらわにし、栽判の促進と早期終了を求める強い指示をキーナン主席検事とウエッブ裁判長に与えた。裁判長はニュルンベルグ栽判への対抗心もあって、栽判のスピードアップに一層熱心になった。

  検察の次の標的は太平洋戦争である。ローガンにとって、それは二重の重い責任を課すものだった。一つは、言うまでもなく、太平洋戦争が木戸が厳しく責任を追及さている出来事であることであり、もう一つは、弁護団の打ち合わせでローガンが太平洋戦争について総括的な弁論を行うことになっていたからだった。

 

     -次に投稿予定の「 敵国から来た弁護人(5)」に続く-

 

 

 

敵国から来た弁護人(3)

東京裁判で元内大臣木戸幸一の弁護を担当したローガンの苦闘する姿を描いたドキュメンタリー物語

 

これまでのあらすじ

ニューヨークの法律事務所の同僚弁護士ヤマオカの勧めで東京裁判弁護団に加わり、元内大臣木戸幸一の弁護を引き受けたローガンは、天皇のために無罪獲得を目指す木戸からそのための協力を求められた。だが、その道のりは険しく、一時は途方に暮れるばかりだったが、木戸の次男の孝彦の助けを得て、少しずつ裁判の準備作業が進んだ 

 

1.5 開廷直後の法廷で大きな波乱 

   ローガンにとって初出廷となる法廷再開の6月4日が来た。この日から、検察側の本格的な立証活動が始まる。

 しかし、まずいったん時計の針を戻して、ローガンが来日する前に開かれた裁判の序幕部分の出来事を簡単に説明しておこう。

 東京裁判は1946年(昭和21年)5月3日に開廷された。初日は午前10時開廷の予定が遅れて、11時になっても正面の裁判官席は空席のままだった。その間、28人の被告(被告全員と日米弁護人の詳細はここをクリックは緊張した面持ちで被告席で待たされた。日本と戦った11の国から1人ずつの裁判官が出席することになっていたが、やっと11時すぎに現れたのは9人だった。インド代表とフィリッピン代表の裁判官はまだ来日していなかった。開廷が宣せられたのは11時20分だった。

 中央の裁判長席に座ったのはオーストラリア代表のウィリアム・F・ウエッブだった。彼は対日強硬派の人物と知られており、天皇の訴追を求めるオーストラリア政府の意向に基づく人選とみられていた。また、マッカーサーが太平洋戦争の初期に日本軍の攻撃を受けてフィリピンを脱出して1時オーストラリアに滞在していた時にウエッブの世話になったことが、裁判長任命の隠れた理由ではないかとの噂もあった。

 11の国から派遣される裁判官は、それぞれ異なる法制度のもとで教育を受け実務経験を積んだ者たちであった。そのうえ、戦争犯罪に関する国際刑事裁判に適用される国際法は極めて未成熟であったから、それらの裁判官をひとつに束ねる確たる法規範は存在しないに等しかった。その中で裁判長を務めるウエッブには卓越した統率力が求められたが、彼の力量は当初から疑問視されていた。

 開廷直後の裁判長の第一声は「被告が日本の最高の地位にあった者たちであるが、その地位にかかわらず、彼らを特別扱いしない」ことを強調したものだったが、法廷に詰めかけた報道陣の評価は低かった。 

 

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    法廷で指揮を執るウエッブ裁判長 

 

  続いて、国際検事団を率いるアメリカ人ジョセフ・キーナン主席検察官が起立して、各国の代表検事を紹介した。キーナンは米国司法省の要職の経歴を持ち、ギャングの取り締まりに辣腕をふるったことで知られていた。巨体から発する大声と人を威圧する風貌が敵国の戦争犯罪人と対峙するのに適任と考えられたようだ。

 キーナンは早々と1945年10月6日に40人近いアメリカの検事や補助者を連れて来日し、日本の戦争犯罪人の調査に着手した。他の連合国もそれぞれ参与検察官を任命することができたので、イギリスやその他の連合国からも続々と検察官が到着し、総勢50人を超える法律家と数百人の補助スタッフがキーナンの指揮下に入り、GHQの組織に組み入れられ、その支援を受けることになった。

 国際検事団とはいえ、人数の点でも権限においても、アメリカ人検事が他を凌駕しており、検事団はマッカーサーの強い影響下に置かれていた。検事団は検事及び補助者の人数においても、利用できる設備その他の資源においても、弁護団よりはるかに恵まれていた。GHQの支援のもとに、日本人関係者の取り調べや証拠の押収も自由に行うことができた。 

    一方の弁護団は、各被告が選任する日本人弁護士のほかに、各被告に1名のアメリカ人弁護士をつけることが日米間で合意されていたが、ローガンを含むアメリカ人弁護士の多くはこの時期にはまだ来日しておらず、アメリカ人弁護人の出席者は在日米軍に所属する6人だけだった。

   日本人弁護士に加えてアメリカ人弁護士を付けることになった事情は必ずしも明らかではないが、東京裁判アメリカ式の裁判手続きに従って英語を主として使って行われることから、それに不慣れな日本人弁護士を補佐するためにアメリカ人弁護士の派遣を日本側が要請して実現したという説が有力である。先に触れたドイツの戦争犯罪人に対するニュルンベルグ裁判の弁護はドイツ人弁護士だけで行われていたが、東京裁判を「文明の裁き」と位置づけるアメリカの意向に沿い、被告の権利をより手厚く保護する姿勢を示すことによって内外にアッピールしたいとするマッカーサーが日本側の要請を受け入れたと言われている。

 だが、弁護団の人員も装備も検事団のそれとは比較にならないほど貧弱だった。彼らを補助する調査員、秘書、通訳、翻訳者、タイピスト等の人的スタッフは極めて限られていたうえ、日々の仕事に必要な紙や鉛筆などの資材も自由に手に入らないほどだった。被告たちは終戦まで裕福な暮らしをしていたが、戦後収入源と家財の大半を失って日々の暮らしにも困窮しており、弁護活動に必要は費用を負担する余裕はなかった。

 2日目の法廷では、起訴状の朗読が行われた。起訴状は事前に関係者に配布されていてその内容は知られていたので、淡々と行われた。

 5月6日に開かれた3日目の法廷で最初の波乱があった。裁判長が被告の罪状認否に入ろうとしたとき、日本人弁護団副団長の清瀬一郎(東条被告担当)が発言を求めて立ち上がった。前日にジョージ・ファーネス弁護人(重光被告担当)から秘策をアドバイスされていたのだ。清瀬は古びた背広を着て、擦り減った兵隊靴を履き、小柄な身体の背を伸ばすようにして発言した。

「裁判長、その前に動議がございます。裁判長に対する忌避の申し立てでございます。罪状認否が行われる前にお許しをお願いしたいと存じます」

 裁判長の「簡単に述べてください」の言葉を得て、清瀬は裁判長が戦後間もなくニューギニアにおける日本軍の不法行為について調査し、日本軍がラバウル攻略に際して付近の住民約150人を虐殺したとの報告書をオーストラリア政府に提出しており、そのような経験を有する者は本件の裁判官として不適当だから忌避すると述べた。

 そこまで聞くと、裁判長は清瀬弁護人のさらなる発言を抑え込んで休憩を宣告した。休憩後、ニュージーランド代表のノースロフト判事が裁判長席に座り、次のように述べて清瀬の申し立てを却下した。

「裁判所憲章第2条に基づき、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥により任命されたのであるから、どの判事も欠席させることはできない」

 しかし、この論理がまかり通れば、マッカーサーが任命した裁判官はどのような利害関係があっても忌避されないことになり、割り切れない気持ちを抱いた者が多かった。

 このあと、ウエッブが再び裁判長席に戻り、被告の罪状認否に進んだ。最初はどのように認否すべきか戸惑った被告たちも、アルファベット順にまず荒木貞夫被告が「無罪であります」と述べたのに続いて、順次被告全員が「無罪」を主張した。これは、事前にアメリカ人弁護人が被告たちを説得してやっと言わせたのだったが、国民からは責任逃れの卑劣な態度だとして被告を非難する声があった。

 5月13日に開かれた4回目の法廷で、清瀬弁護人が再び立ち上がり、当裁判所は起訴状に含まれている訴因について裁判を行う管轄権(権限)を持っていないという動議を申立てた。それは法律用語で「妨訴抗弁」と呼ばれるもので、起訴そのものが不適法であるから、起訴内容の審理を行うまでもなく、直ちにその全部又は一部を却下すべきだというものだった。その根拠として清瀬が主張したのは、日本が降伏に際して受諾したポツダム宣言の次の規定だった。

俘虜を虐待せる者を含む、いっさいの戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えられるべし(第10条)。 

  東京裁判はこの規定に基づいて行われているが、そこでいう「戦争犯罪人」とは、ポツダム宣言が発せられた時点で存在していた国際法において「戦争犯罪」とされていた罪を犯した者に限られるが、起訴状に記載されている「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は、当時の国際法のもとで「戦争犯罪」とは考えられていなかったから、当裁判所はそれらの罪について起訴を受理して裁判する権限を持っていないというのだ。そして、「平和に対する罪」も「人道に対する罪」もポツダム宣言受託後にマッカーサーがこの裁判を行うために制定した裁判所憲章において初めて戦争犯罪とされたものだから、裁判所憲章は事後法であり、事後法に基づく裁判は許されないと主張した。

 さらに、そこでいう「戦争犯罪」は日本がポツダム宣言を受諾した1945年(昭和20年)7月26日時点で日本と外国の間に存在していた「戦争」に係る犯罪を意味しているが、それに該当する戦争は太平洋戦争だけである。しかし、起訴状はそれ以前の満州事変などに関する訴因を含んでおり、当裁判所はそれらに関する訴因についても管轄権を持っていないから、それらの訴因はいずれにしても直ちに却下されるべきだと主張した。

 この動議に対して、キーナン主席検事は昼食をはさんで3時間に及ぶ反論をしたが、その骨子は1928年のパリ不戦条約等においてすでに「侵略戦争」が禁止されているから、弁護人が主張する事後法に当らないというものだった。

 しかし、不戦条約は自衛行為を禁止していないことや、国家間の取決めにすぎず、個人に刑罰を課していないことなどからキーナンの主張には問題があった。

 次いで、イギリス代表のコミンズ・カー検事が発言台に立った。彼の反論の要旨は、ポツダム宣言の規定は戦争犯罪人を裁判にかける権利を制限するものではなく、如何なる国家も戦争犯罪人を裁判に付す固有の権利を持っているというものだった。さらに、次のように述べて弁護側の主張を批判した。

「弁護側の弁論を聞いていると、日本がポツダム宣言を受諾したのは誤解によるか、裁判所憲章が『平和に対する罪』を処罰の対象に含めたのが背信行為だと言っているようである。もし日本政府に『戦争犯罪人』の意義について何か疑念があったのなら、すみやかに質問することにより、その疑いをはらすことは簡単にできた。実際に、彼らは天皇の地位につき質問し、すみやかに回答を受けたのである」

 これに対して清瀬は自身の動議の根拠をさらに続けて述べようとしたが、それをさえぎって、ウエッブ裁判長は動議の討議を打ち切り、強引にその日の法廷を閉じた。

 東京裁判の冒頭から裁判の不当性を突いて裁判長に立ち向かった清瀬弁護人は、弁護士のかたわら大学講師を務めたあと政界に進出し、衆議院副議長などの要職を歴任したが、1946年公職追放となって政界から退き、追放中にこの裁判の日本人弁護団の副団長を務めていた。この裁判終了後再び政界に復帰し、文部大臣、衆議院議長等に就任した。戦前から戦後に跨る時期において、日本の司法界を代表する人物の一人であり、硬骨漢として知られていた。

 木戸はこの日の日記に次のように書いている。  

 1946年5月13 (日)  雨曇
 8時に巣鴨プリズンを出発、市ヶ谷の法廷に行く。今日、裁判所の構成の問題につき、清瀬弁護士の弁論及びキーナン主席検事と英国のコミンズ・カー氏の演説あり。5時迄かかった。清瀬氏も今日はなかなか良くやった。

  翌14日の第5回目の法廷で、アメリカ人弁護人ジョージ・ファーネス(重光被告担当)とベン・ブルース・ブレィクニ―(梅津被告及び東郷被告担当)が発言台に立ち、前日の清瀬の動議を補足する弁論を行った。この時、ファーネスは陸軍大尉、ブレィクニ―は陸軍少佐の現役のアメリカ軍人であり、GHQの一員として日本に駐在していたことから東京裁判弁護団に加わっていた。

 まず、ファーネスが、この裁判所の裁判官が全員戦勝国であり訴追国である国々の代表者によって構成されていることはこの裁判の構造的欠陥であるとして次のように述べた。

「この裁判所の裁判官は、日本に勝利した国々の代表者であるから、法律に適合した公正な裁判は期待できません、(中略)これらの諸国は被告が有罪であると確信して裁判を受けさせるべく起訴したことは疑う余地がありません。そうでなければ、被告たちは起訴されなかったはずであり、この裁判も開始されなかったであろう。(中略)この裁判では、勝者が敗者を裁くことが当然とされているが、それは誤りであり、中立国の代表者によって裁かれるべきです」

 次いで発言台に立ったブレィクニ―弁護人は米軍の軍服を着ていた。彼は、戦争を裁くことの不条理を鋭く突いて、次のように述べた。

「戦争は犯罪ではありません。なぜなら、戦争の開始や終了にあたり何をすべきかについて法律の規定があること、また戦争中に何をすべきかを法律が定めていることは、戦争が合法的であることを意味しています。もし戦争が非合法であれば、それらの法律は無意味だからです。
 次に、戦争は国家間の争いであり、個人の行為ではないので、個人が処罰されるべきではありません。
また、国際法上、『正しい戦争』と『正しくない戦争』の区別は存在しておらず、誰も特定の戦争が正しいとか、合法的であるかについて権威をもって決定することはできません。いまだかつて、戦争が法廷において犯罪とされたことはないのです。だから、戦争における殺人は殺人罪にはなりません。合法化された殺人がどれほど不快で嫌悪すべきものであっても、個人がそれについて刑事責任を負うことはないのです。もし真珠湾攻撃が4千人の殺人罪になるとすれば、広島はどうなるのか。我々は、広島に原爆を投下した人の名前、その作戦を計画した参謀長、そしてその攻撃に責任ある国の元首をよく知っている。彼らは殺人をしたことを気に病んでいるでしょうか。そうではあるまい。それは、その行為が殺人罪にあたらないからです」

 この裁判の当時、原爆投下の是非に触れることはタブーであった。それをアメリカの軍服を着た現役の軍人であるアメリカ人弁護士が公開の法廷において公然とそれを取り上げたのである。そして、戦争における殺人が殺人罪として個人が処罰されるなら、原爆を投下して無抵抗の一般市民を大量に殺害したアメリカの関係者は太平洋戦争における最も残虐な殺人犯として処罰されるべきだが、それがなされないのは、戦争における殺人が犯罪に当らないからだというのだ。

 この発言部分はなぜか法廷で日本語に同時通訳されず、日本語版の速記録にも記載されず、「以下通訳なし」と書かれている。しかし、ブレィクニ―のこの爆弾発言は直ちに日本の内外に知れ渡り、多くの国の人々に大きな衝撃を与えた。

 アメリカ弁護士協会の機関誌「アメリカン・バー・アソシエーション」(American Bar Association)の1946年8月号は、ブレィクニ―の発言を取り上げ、依頼者の弁護のために、また法に基づいて正義を執行するために、弁護士が主張し得るすべてを主張するという弁護士の職業的伝統が見事に実践されたとして、彼の弁論を称賛している。

 この日のファーネスとブレィクニ―の発言は、それまで敵国アメリカの弁護士が日本の戦争指導者を真面目に弁護するはずがないと冷ややかな目で見ていた一部の被告や日本人弁護人を驚かせ、「彼らも案外やるじゃないか」という見方に変えさせた。

 前日とこの日に、清瀬、ファーネス、ブレィクニ―の三人の弁護人が申立てた動議は、この裁判の正当性を根幹から揺るがす重大な問題を指摘するものだった。もしこれらの動議が認められれば、このまま裁判を続けることは許されなくなるものだった。

 しかし、ウエッブ裁判長は、3日後の5月17日の第7回法廷で、あっさり弁護人の動議のすべてを却下し、「その理由は将来告げる」と述べただけであった。

 ところが、その後の裁判手続きの中でも、裁判所はこの動議の却下の理由を述べることはなかった。わずかに、審理終了後に申し渡された判決文において、次のような簡単な理由が記載されただけだった。

1946年5月に本裁判所は弁護人の申立てを却下し、裁判所憲章の効力とそれに基づく裁判所の管轄権とを確認し、この決定の理由は後で言い渡すであろうと述べたが、その後にニュルンベルグで開かれた国際軍事裁判所は1946年10月1日にその判決を下した。同裁判所は他のことと共に次の意見を表明した。「裁判所憲章は戦勝国の側で権力を恣意的に行使したものでなく、その制定の当時に存在していた国際法を表示したものである」と。当裁判所はニュルンベルグ裁判所の以上の意見と、その意見に到達するまでの推論に完全に同意する。

 東京裁判の裁判官は、日米弁護人たちが提起したこの裁判の正当性に関する重要な問題について、自ら判断することなく、ドイツの戦争指導者を裁いたニュルンベルグ裁判所の裁判官の意見に盲従することになるのだ。この裁判を振り返ってみると、裁判の前哨戦が始まった直後に裁判長がこの重要な問題を理由を告げることなく却下したことによって、その後この裁判が誤った道を突き進むことになったと言わざるを得ない。裁判長がこの時点でなすべきだったことは、弁護人の動議に十分検討すべき重要な問題が含まれていることを率直に認め、それに対する裁判所の判断をひとまず保留し、今後の審理の過程で検察・弁護の双方からこの問題に関する追加の主張と証拠の提出を許し、それらが出尽くした時点で裁判所の判断を示すべきであったと悔やまれる。このあとも、弁護人側は管轄不存在の主張を繰り返すのだが、裁判長はその問題はすでに却下済みだとして強引に弁護人の主張を封じ込め、この裁判の主要な争点をわずか2日間の論議によって葬り去ったことは惜しまれてならない。

 ちなみに、後日「平和に対する罪」と「人道に対する罪」が事後法であるとして被告全員を無罪にすべきとする強硬な意見を述べるインド代表のパル判事は、この時まだ来日しておらず、動議却下の決定に加わっていなかったことに注目すべきである。

 5月17日の法廷の最後に、裁判長は6月3日まで休廷すると宣言して終えた。これでこの裁判の序幕が降りた。

 ここまでが、遅れて来日したローガンたちアメリカ人弁護人が欠席のままで行われた法廷での出来事の要旨である。そして、6月3日から再開される法廷で、いよいよ被告に対する起訴事実について検察側と弁護側の本格的な論争と立証合戦が始まるが、それは検察側による起訴事実の立証から火ぶたが切られることになる。

 

1.6 弁護団のごたごたが続く
 本格的な法廷論争の開始を目前にして、弁護団の編成と弁護方針の確立が急がれた。5月17日にアメリカ本国からローガンたちアメリカ人弁護士が到着したことによって弁護団の顔ぶれは一応揃ったが、その後も一部のアメリカ人弁護士が待遇に不満を述べて帰国するなど、ごたごたが続いた。

 日本人弁護人からは弁護団として弁護の基本方針を確立すべきであるとの声があがり、高橋義次弁護人(嶋田繁太郎被告担当)が次の2項目を基本方針とするよう提案がなされた。
 
天皇にご迷惑をかけないこと。特に、天皇が被告としても証人としても出廷されるようなことは絶対にしないこと。

●国家弁護を第1とし、個人弁護は2の次にすること。日本国が侵略国とされることはしないこと。

 この提案に対して、軍人被告を担当する日本人弁護人から大きな異論は出なかったが、文官被告の弁護人の中には反対する者がいた。一方、アメリカ人弁護人のほとんどは個人弁護を強く主張して、日米弁護団間に弁護方針について基本的な意見の相違があらわになった。もっとも、裁判が進行するにつれて、どの弁護人も自分の依頼者の個人弁護を主とするようになり、この意見の対立は時間の経過によって自然に解決する方向に向かった。

 

第2章 検察の立証始まる

 

2.1 ローガン初出廷
  予定どおり、6月3日に法廷が再開された。この日がローガンにとって最初の出廷日となった。

 法廷は報道関係者や傍聴人で満員だった。ローガンは被告席のすぐ前の弁護人席に座って、こみあげてくる興奮を抑えるためしばらく目を閉じた。世界の注目を集める世紀のドラマに参加している実感が次第に湧いてきた。

 間もなく被告たちが列を作って入場した。28人いた被告が26人に減っていた。初日の法廷で東条英機被告の頭を叩いて精神異常が疑われた大川周明被告と、急病で療養中の元外相の松岡洋右被告の2人が欠席していた。松岡はこのあと6月27日に病死した。

 ローガンは被告席の木戸を見つけて目で合図を送った。木戸も目で答えた。被告たちはこれまでの法廷の経験から格別緊張している様子もなく、くつろいだ姿勢で裁判官の入廷を待っていた。

 ローガンは被告席の人たちを見まわした。わずか一年足らず前まで、卑劣な野蛮人としてあれほど憎んでいた日本の最高指導者たちがすぐそばにいた。いま近くで見ると、意外なほど平凡な人たちばかりだった。この人たちが母国アメリカに戦争を仕掛けた国の最高指導者だったことが嘘のように思われた。

 我に返ってローガンはいつもの平常心に戻り、この日の法廷で予定されている手続きを再確認した。栽判に臨むための準備はまだまだ不十分だったが、今日一日を乗り切るための方策を再確認しておく必要があった。
間もなく裁判官たちが入廷し、午前9時半に開廷が宣せられた。最初に、その日初めて出廷したローガンたちアメリカ人弁護人が1人ずつ紹介された。ローガンも木戸の弁護人として紹介された。

 その後、弁護人側から事前に提出していた審理手続きの延期申請について、ブレィクニ―がその理由を説明した。弁護人、特にアメリカ人弁護人にとって、裁判の準備が致命的に遅れていた。ローガンにとっても、先に述べた事情もあって時間はいくらあっても足りなかった。裁判の進行をもう少しゆとりあるものにして貰いたいというのは弁護人たちの切実な願いであった。だが、栽判の進行を急ぐ裁判長はにべもなく延期申請を却下した。

 その後、栽判手続きに関するいくつかの問題についてやり取りがあっただけで、ローガンの最初の出廷日は大きな出来事もなく終わった。

 

2.2 傲慢さに満ち溢れた主席検事の冒頭陳述
 翌6月4日から検察側の立証が始まった。

 最初にキーナン主席検事が発言台に立って冒頭陳述を行った。冒頭陳述は、裁判において検察が立証しようとする被告の犯罪事実を具体的に特定し、それを立証する方法に関する検察の計画を明らかにすることを目的として行われるのだが、約2時間50分に及んだキーナンの冒頭陳述は次のように傲慢さと思い上がりに満ちたものだった。

この裁判手続きを始めるにあたって先ずその目的を明らかにします。我々の目的は正義を実現することであり、戦争被害の防止に寄与することにあります。裁判長閣下、これは普通の裁判ではありません。被告らは文明に対して宣戦を布告し、民主主義と自由を破壊しようとしたのです。彼らの暴挙に対して、我々は今ここで世界を破滅から救うための断乎たる闘争を開始したのです。(以下略)

  被告らを文明と民主主義と自由の破壊者だと断じ、裁判によって世界を破滅から救い、正義を実現するというのだ。しかし、多くの場合、事実は逆に、勝者や征服者に見られがちなこのような思い上がりこそが、裁判を歪め、文明と民主主義を破壊する危険をはらんでいることを、我々はこの裁判を通して知ることになるのだ。

 余談だが、冒頭陳述終了後間もなく、キ―ナンはアメリカに帰国し、数週間東京を留守にした。彼の留守中に、アメリカやイギリスから来た検事たちがキーナンの解任をマッカーサーに要求するという騒動があった。キーナンは大酒飲みで、自己中心的で、感情的だというのが解任要求の理由だった。また、キーナンは法廷の主導権を巡ってウエッブ裁判長と激しくやり合うことが多かった。そのたびに法廷は苛立ち、裁判の進行が遅れた。しかし、マッカーサーはキーナンの解任に同意しなかった。

 6月13日、法廷において検察による起訴事実の立証作業が始まった。その冒頭に、検察は審理に必要または関係すると考えられる国際条約、日本の法令、日本の統治機構などに関する文献や解説書等を証拠として大量に提出した。その中の「日本の憲法と政治」と題する文書は、「内大臣の責任」について次のように述べていた。 

内大臣管制第2条の中に、内大臣の責任は常時天皇に付き従って、国家の行政に関し、天皇を補佐し進言することと定められて居る。総ての法律案は裁可を受ける為に彼(内大臣)の役所を通り、天皇に奏呈する請願は彼が之を処理する。彼は公布せられる為総ての文書に捺印せられるべき御璽と国璽を保管して居る。近年に於ける彼の最も重要な職務は、内閣総理大臣の辞職の際、天皇に後継総理大臣を奏薦することであった。(以下略)

 これが検察の主張する内大臣の職務と責任ということになる。

 続いて検察は、日本が「侵略戦争」への道に突き進んで行った背景とその経緯について、昭和期に入って国を挙げて軍国主義的体制が強まり、やがて軍が暴走が始め、まず満州を侵略し、次いで中国全土に戦火を拡大し、欧州で覇権を目指すドイツとイタリアと同盟を組んで三国共同謀議のもとにアジアの支配をもくろんで太平洋戦争に突入していったと述べ、その歴史を次の10部門に分けて、部門ごとに立証する壮大な計画を示した。

第1部 侵略戦争への道
第2部 満州侵略
第3部 中国侵略
第4部 独伊との共同謀議
第5部 仏印に対する侵略
第6部 対ソ侵略
第7部 日本の戦争準備
第8部 太平洋戦争
第9部 戦争法規違反(俘虜虐待)
第10部 個人別追加証拠提出

 この計画に基づいて、検察はこの日から翌1947年1月までの7ヶ月間、多数の証人の証言と膨大な書証その他の証拠物を提出して、被告たちが犯したとする犯罪事実をあばき出していくことになる。

 それらの事実の中には、それまで日本国民が知らなかった日本の歴史の隠された恥部が少なからず含まれていた。それらが法廷で暴露されるたびに、日本国民は大きな衝撃を受け、怒りをあらわにすることになる。その意味で、東京裁判は日本人自身が自分たちの国の歴史を正しく知る上で大きな貢献をしたとも言える。

 具体的に、この立証計画の第1部(侵略戦争への道)の中で、日本が厳しい軍事教育や言論の弾圧によって軍国主義国家に変貌して行ったことを立証するとして、検察は内外の教育関係者や言論人を証人として法廷に呼んだ。検察の狙いは、個々の被告の個別の犯罪行為の底流に、国を挙げて突き進む軍国主義への大きな流れがあったとし、その流れは被告の全部または一部の「共謀」によって創り出されたとする独自の構想を裁判の冒頭で描くことにあったと思われる。

 検察側が最初に呼んだ証人は、連合国軍総司令部民間情報教育部長ドナルド・ロス・ニュージェントだった。彼は戦前日本のいくつかの学校で講師をした経験があり、日本の学校における軍事教練の実態を証言した。

 これに対して、ローガンを含む何人ものアメリカ人弁護人が検事の質問や裁判長の訴訟指揮に対して異議を申し立てたが、それらのすべてが裁判長によって却下された。これらはゲーム開始直後の軽いジャブの応酬のようなものだった。ローガンも次第に法廷の雰囲気に慣れ、いつもの落ち着きを取り戻した。

 検事による証人の主尋問が終わったあと、証人に対して弁護人による反対尋問が許される。反対尋問は法廷技術の中でも最も難しいものの1つとされているが、それだけに尋問者の腕の見せどころである。数人の日米弁護人が短い反対尋問を行った。

 さらにローガンが立ち、証人の経験の程度や知識の正確さを試す質問を行った。その狙いは証人の証言の信憑性を弱めることにあった。ローガンは証人の答えに満足せず、質問の角度を変えながら執拗に証人に食い下がった。これに裁判長が苛立ち、裁判に無関係な質問だとして尋問の打ち切りを求める場面があったが、ローガンは簡単に引き下がらなかった。1937年から1938年まで第一次近衛内閣の文部大臣をつとめた木戸にとって、学校における軍事教練の強化に関する証言をそのまま見逃すことはできなかった。この反対尋問がどれだけ有効であったかは別として、最初の検察側証人の登場から、ローガンの心意気を感じさせる場面が続いた。

 法廷では、英語と日本語が公式言語とされ、法廷内でどちらか一方の言語による発言は常に他方の言語に同時通訳されることになっており、出席者はイヤホンで同時通訳を聞くことができた。しかし、実際には同時通訳の難しさのため、通訳されない部分や不正確な通訳の発生を避けることは難しく、通訳の正確性を巡る争いが頻発した。その結果、同時通訳を介する証人尋問は予想以上に時間がかかった。

 2番目に登場した海後東京大学助教授の証人尋問でも同時通訳を巡って同様の問題が生じたため、検察側から証人尋問の方法について新たな提案がなされた。証人を呼ぶ側が事前に証人の証言内容を英文と和文で「宣誓口述書」の形式で作成して法廷に提出し、それを尋問者又は証人自身が法廷で朗読することをもって主尋問と証人の応答がなされたものとするという提案であった。

 「宣誓口述書」とは、法廷外で証人が宣誓したうえで供述した内容を記録し、証人がその内容を確認してサインしたもので、法廷で宣誓して証言する場合と同様にその内容に誤りがあれば偽証罪として罰せられる可能性があるものをいい、法廷での口頭の尋問に基づく証言と同等の効力が認められる。この方式を採用することによって、少なくとも主尋問を法廷で同時通訳する必要がなくなり、その限度で同時通訳の正確性を巡る混乱と時間を避ける効果が期待された。ただし、宣誓口述書が用いられる場合でも、原則として証人は出廷して証人席に座り、相手方の反対尋問を受けることが必要とされる。弁護人側はこの方式の採用に反対したが、栽判長は検察の提案を採用した。その結果、このあとに登場する証人に対してはこの方式が採用されることになった。本書では、「宣誓口述書」を便宜上単に「口述書」と呼ぶことがある。

 その後、大内兵衛東京大学教授、滝川京都大学教授などが証人として登場し、大学における言論の自由の制限、軍事教練強化の状況、敵への憎悪の感情の注入教育の様子を証言した。その中で木戸に関係するものとして、大内証人が検察の主尋問で次のように証言した。

「1937年、木戸侯爵が文部大臣になった時、彼は矢内原教授を東京帝国大学の教授会より罷免することを要求した。この木戸侯爵の要求の結果、矢内原教授は同大学当局者より辞表を提出することを命じられました」

 この証言に対して、木戸を担当する穂積弁護人が立ち上がって反対尋問を行った。

Q 「友人として、あなたも辞めることを矢内原氏にアドバイスされませんでしたか」

A「それに賛成致しました」

Q「木戸文部大臣が少なくとも直接矢内原氏に辞職を強要したという事実はないのでございますね」

A「ありません」

 この反対尋問で、穂積弁護人は鮮やかな得点をあげた。だがこのあと、木戸弁護団における穂積の存在は次第に薄れていき、木戸の弁護は実質的にローガンと木戸孝彦の手に委ねられていった。

侵略戦争への道」と題する検察の立証の第1部はここで終わった。この立証によって、軍国主義が日本を覆うに至ったことが侵略戦争に日本が突入していく背景にあったことを裁判官に理解させようとする検察の狙いは、一定の成功をおさめたように見える。

 

-次に投稿予定の「 敵国から来た弁護人(4)」に続く-

 

 

 

 

 

敵国から来た弁護人(2)

東京裁判で元内大臣木戸幸一の弁護を担当したローガンの苦闘する姿を描いたドキュメンタリー物語

 

これまでのあらすじ

 ニューヨークの法律事務所で国際法務の仕事に追われていたローガンは、同僚の日系アメリカ人のヤマオカの強い勧めに従って東京裁判弁護団に加わり、元内大臣木戸幸一被告の弁護を引き受けた。

 

1.3 木戸と初対面
 5月28日、ローガンは穂積と共に初めて巣鴨プリズンに木戸を訪れた。巣鴨プリズンは東京西巣鴨(現在の東京都豊島区池袋)の東京拘置所をGHQが接収し、戦争犯罪容疑者の収容施設として使っていた。

  木戸は、前年(1945年)の12月6日に自分に対して逮捕令状が出されたことを知り、その日の日記に、「予て期したること、淡々たる気持ちを以て迎う」と書いて、指定された場所に出頭した。奇しくも、その日は彼の結婚記念日だった。それ以来半年近く、彼はそこに収容されていた。

 

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               木戸幸一

 会見場に現れた木戸は、丸い眼鏡をかけ、鼻髭をたくわえていた。小柄な体格ながら、背筋をぴんと伸ばした姿に、天皇の側近らしい威厳があった。長い収容生活からくる暗い影が見え隠れするものの、裁判を闘い抜く闘志を失っていなかった。

 木戸は多くを語らなかったが、天皇のために無罪を勝ち取りたい気持ちを力強く述べ、そのための協力をローガンに求めた。木戸が囚われの身でありながら、自分自身のことより天皇の身を案じていることに、ローガンは心を打たれた。

 ローガンはこのところずっと気になっていたことを率直に述べた。

「木戸さん、私はあなたの弁護を引き受けましたが、天皇の弁護まで引き受けたわけではありません。現に、天皇は起訴されているわけではありません。私はまだあなたと天皇の関係を十分理解していませんが、この裁判におけるあなたと天皇の間には潜在的に相反する利害があるように感じています。あなたの弁護人として、あなたの弁護に全力を尽くすのが私の使命であり、その過程で他の人と利害が対立する場面や相反する状況に遭遇した場合には、その人に不利になっても、あなたの利益を優先する義務が私にはあります。たとえその人が天皇であっても同じです。この裁判における私の役目はただ一つです。あなたを守ることです」

 すると、木戸は、きっとなって、すぐに強い口調で言った。

「私は常に陛下の御心のままに行動してきたつもりです。陛下と私の間に利害の対立などあるはずがないと思っています」

 これに対してローガンはさらに何か言おうとしたが、一瞬口ごもり、ひと呼吸おいて言った。

「それをお聞きして安心しました」

その日、木戸は日記に次のように書いている。

1946年5月28(火) 晴れ
 3時半、運動が終わった直後に呼び出しがあり。穂積氏、ローガン氏を同伴して来られた。ローガン氏はニューヨークの大きな弁護士事務所に属して居られ、過去10数年法廷における被告弁護に当られ、敏腕の評ある人なりとのことなり。年齢44歳にして、物柔き落付きたる人柄なり。

 木戸が受けた印象のとおり、ローガンは態度も話し方も穏やかであり、気配りにもたけていた。面長の顔の前頭部が年齢以上に禿げあがっていたが、それが一層理知的で柔和な印象を与えた。仕事に取り組む姿勢は緻密で、徹底していた。彼は生後間もなく、生まれ故郷のスコットランドから両親と共にアメリカに移住したアメリカ移民一世であり、苦労して弁護士資格を取得した経歴の持ち主だった。その点で、同僚のヤマオカと相通ずるものがあった。

 

1.4 苦悩するローガン
 ローガンは直ちに木戸の弁護の準備にとりかかった。

 手始めに、日本の統治の仕組みとその中における内大臣の役割を知る必要があると考え、ヤマオカから貰った大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法)の英語訳を読み始めた。読み進むにつれてローガンの驚きは増していった。ローガンが特に目を引かれたのは憲法の次の規定だった。

第1条  日本国は万世一系天皇これを統治する。
第3条  天皇神聖にして侵すべからず
第4条  天皇は国の元首にして統治権を総覧し、この憲法の条項に依り之を行う。
第5条  天皇帝国議会の協賛を以て立法権を行う。
第6条  天皇は法律を裁可しその公布及び執行を命ずる。
第11条  天皇は陸海軍を統帥する。
第13条  天皇は戦を宣し、和を議し、及び諸般の条約を締結する。
第57条  司法権天皇の名に於いて法律に依り裁判所之を行う。

 憲法のこれらの規定を文字通り解釈すると、世襲天皇が元首として日本国の立法、行政、司法の三権の全部を統括し、陸海軍を統帥し、宣戦布告から講和に至るまでの権限を一手に持っていたことになる。しかもその権限は、立法権について帝国議会の協賛を得ること以外に、なんらの制限も設けられていないのだ。加えて、欧米の先進国では、憲法は国の最高権力者の権限の濫用や横暴を防ぐために権力者の権限を縛る条項を設けているのが普通であるが、日本の明治憲法にはそのような規定がないばかりか、逆に「天皇神聖にして侵すべからず」と明記し、万能の神に等しい位置づけをしているのだ。

 戦時中、天皇のためなら死を恐れることなく突撃してくる凶暴な日本兵アメリカ人の恐怖の的だったが、その背後にこのような天皇の神格化があったことをローガンは初めて知った。天皇が神なら、木戸はさしずめ神の使徒だったのか。もしそうだとすれば、自分は神の使徒を弁護することになるのか。ローガンは唖然とした。

 実際に、「天皇は神のような存在である」という日本人は多かった。しかし、「天皇は君臨すれども統治せず」だったという日本人も少なくなかった。ではそれは具体的にどういう意味かとローガンが問うと、その返事は千差万別だった。その中で特にローガンの印象に残ったのは、ある老獪な日本人政治学者の次のような話だった。

 憲法が規定するとおりに天皇が表立って国を統治すれば、必ず天皇に不満を持ち、その失政の責任を追及する者が現れる。そして、天皇は現実政治の荒波に揉まれ、その権威が傷つき、地に落ちる危険がある。万世一系天皇を永遠に元首としていただく日本では、天皇の権威が傷つくことは絶対に避けなければならない。だから、天皇はあくまでも神の如き超世俗的な絶対的権威を持ち続ける必要がある。そのため、現実の国の統治は天皇の権威と名のもとに世俗の者たちが行うことにしている。もし国の統治に誤りがあれば、その責任はそれを行った世俗の者たちが負い、天皇に責任が及ぶことはない。これが日本の天皇制の真髄である。

 ローガンはこの老学者の説明がどこまで正しいかを判断できる知識を持っていなかったが、このことが妙に頭に残っていた。仮に老学者の説明が正しいとしても、国の最高指導者の戦争責任が問われている今、憲法上国の統治権のすべてを独占していながら、軍閥の暴走を防ぐための有効な手立てをとらなかった天皇は不作為の責任を問われないのか。では、天皇の身代わりに起訴されていると言われる側近の木戸の責任はどうなるのか。その判断の法的基準は何か・・・。その基準はどこに規定されているのか・・・。ローガンの頭の中を次々と疑問が駆け巡った。

 ローガンが不思議に思うもう1つは、戦争責任を問われて起訴されている28人の日本の元指導者たちが、今でも天皇を敬い、天皇の身代わりに裁かれることに公然と不満を述べる者がいないことだった。それだけではない。彼らはみな、天皇が被告としてはもちろん、証人としても、この裁判所の法廷に引き出されることを何より怖れ、身を挺してそれを防ぐことを堅く誓っているというのだ。なんという不思議な統治システムであるかと、ローガンはただ驚くばかりだった。

 不可解なことに、憲法のどこにも、総理大臣に関する規定も、内閣に関する規定も、内大臣に関する規定も、まったく見当たらないのだ。わずかに第55条に、「国務各大臣は天皇を輔弼(ほひつ)し其の責に任す」と規定されているだけだった。もし「天皇は君臨すれども統治せず」が事実ならば、天皇に代わって誰がどのようにして国を統治すべきかについて憲法が定めていなければならないはずだが、この最も基本的なことが憲法のどこにも規定されていないことがローガンを苛立たせた。

 次に、ローガンは起訴状を読んで木戸の容疑を確認することにした。起訴状は28人の被告全員に対してまとめて1通だけ作成されていた。そのため、起訴状は付属書を含めると膨大であり、個々の被告の容疑の全体を知るには起訴状の中から当該被告について触れられている部分を1つずつ拾い上げ、それらを統合して再構築する必要があるが、その作業は容易でなかった。

 さらに日本人の多くが驚いのは、起訴状が1928年(昭和3年)(張作霖事件勃発の年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日(降伏文書調印の日)までの17年半余りの長い期間中に被告たちが行ったとされる犯罪行為(訴因)を裁判の対象にしていたことだった。これはまるで日本の昭和史全体を裁判の俎上に載せているに等しい。日本人の多くは、真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争だけが裁判の対象にされると思っていたのだが。

 起訴状は対象とする犯罪を次の3つの類に大別したうえで、全部で55の訴因を記述している。

第1類 平和に対する罪(訴因第1から第36)
第2類 殺人(訴因第37から第52)
第3類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪(訴因第53から第55)

 これらの罪のうち、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は、東京裁判に先立ってドイツで行われているナチ関連被告に対するニュルンベルグ裁判のために制定された裁判所憲章において採用されたものを、そのまま東京裁判用の裁判所憲章に取り入れたものだった。詳しくは後で述べるが、これらの罪は戦後に制定された裁判所憲章においてはじめて処罰の対象とされたものであり、その点で裁判所憲章はいわゆる「事後法」ではないかという重大な疑義があった。加えて、「平和に対する罪」も「人道に対する罪」も、明確に定義されていないためその意味が不明瞭であり、具体的に被告のいかなる行為がそれらの罪に当たるかが極めて曖昧だった。

 さらに起訴状は、上記期間において「全被告は他の諸多の人々と共に・・・一個の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、教唆者又は共犯者として参画した」と述べているが、その内容も漠然としていて具体性に欠けていた。行動を共にしたとされている「他の諸多の人々」が誰を指しているか、「計画または共同謀議」とは具体的にどのようなものかもまったく特定されていなかった。

 17年半の長い年月の間に日本が世界中で行った戦争に対する28人の被告の責任を一網打尽に起訴して裁くためには、このような書き方をせざるをえない事情は理解できないわけではないが、被告と弁護人にとっては、いつ、どこで、誰と誰が、何をしたことが、どのような犯罪に当たるとして起訴されているかがまったく明らかにされていないのに等しく、これでは反論のしようもないと言わざるをえなかった。

 55の訴因の1つ1つが独立した犯罪を構成し、訴因ごとに当該訴因につき訴追されている被告の氏名が記載されていた。木戸は、これら55の訴因のうち54の訴因について訴追されており、訴追されていないのは訴因第18の「中華民国に対する侵略戦争の開始」のみであった。それが訴追対象から除かれたのは、その時期(1931年)に木戸は内大臣府秘書官長であり内閣の一員でなかったので、中国に対する侵略の決定に加わる立場になかったためと思われる。

 軍歴がまったくない木戸がこれほど多くの戦争犯罪について訴追されているのは不可解だが、世間で噂されているように、元首であった天皇の身代わりとして木戸が訴追されていることを疑わせた。その真偽は別として、ローガンとしては、木戸が訴追されている54の訴因の1つ1つについて、記載された事実の存否、それに対する木戸の関与の有無、関与があった場合の関与の具体的事実等を詳しく調査する必要があった。

 結局、憲法も起訴状もローガンの準備作業の有力な手がかりとなるものを与えてくれなかった。それだけでなく、ローガンの前には、数多くの難題が待ち受けていた。

 第1の難題は、木戸が全被告中最多の54の訴因について訴追されていたため、木戸の容疑が実に1928年から1945年までの17年半の長い年月における日本国内外のさまざまな政治、外交、取決め、交渉や戦闘行為に及んでいたことであった。しかし、ローガンはそれまで日本の歴史や政治に格別関心を持っていなかったので、ゼロから日本の歴史を勉強する必要があった。ところが、彼は日本語をまったく解さなかったから、英語で書かれたものに頼らざるを得なかったが、彼が利用できる英語の文献や資料は驚くほど少なかった。

 第2に、木戸は「内大臣が無罪なれば天皇も無罪、内大臣が有罪なれば天皇も有罪」との考えに基づいて、天皇のために自身の無罪を獲得することを自分の使命と考え、ローガンにすべての訴因について無罪を獲得することを求めていた。それは木戸一人の願いであるだけでなく、多くの日本人の思いでもあったから、その重圧はローガンに計り知れないストレスを与えた。ローガンが来日した翌日にヤマオカが言った「木戸の弁護人を引き受ければ天皇を無罪にする責任まで負うことになる」という意味が今になってひしひしと伝わってきた。

 第3に、そのなかでもローガンを悩ませたのは、木戸が終戦までの約5年間その任にあった「内大臣」の地位、職責、権限、責任等を的確に知るすべがなかったことだった。すでに触れたが、内大臣の任命や職責は当時の憲法にまったく規定されておらず、わずかに内大臣府管制(明治40年皇室令第4号)の第2条に「内大臣は親任とす。常侍輔弼し内大臣府を統括す」と規定されているだけだった。日本の長い宮廷史の中で生まれて変遷を経てきた宮廷組織における内大臣の役割は、日本人にとっても謎の多い存在だった。その実態は時々の天皇を取り巻く人々の勢力関係や時代環境に加えて、個々の天皇の個性など多くの要因によって変化してきたというから、外国人であるローガンにはまるで雲を掴むようなものだった。

 第4の難題は、膨大な木戸日記が検察側に提出され、検事団がそれを捜査や立証活動の重要な手引きとして活用していることだった。当然のことながら、木戸を弁護するためにはローガンもその内容を十分把握しておく必要があった。そのためには膨大な木戸日記を英語に翻訳してもらう必要があったが、その作業は困難を極めた。

 幸いなことに、このころ木戸の次男の孝彦が弁護士の資格をとって父の補佐弁護人になり、全力を挙げてローガンを助けてくれたことだった。孝彦は、木戸日記をはじめ、木戸が拘置所の中で書き綴った見解書やメモ、ローガンが要求するその他多くの資料の収集と解説、日々増え続ける膨大な量の書類の翻訳など、父とローガンのために献身的に働いてくれた。それによってローガンがどれほど助けられたことか!

 孝彦は、当時ローガンが直面していたこれらの問題について、「東京裁判木戸幸一」(「木戸幸一日記:東京裁判期」489頁以下)の中で次のように書いている。

父の容疑の中心である内大臣という職務が極めて理解しがたいものであること、天皇との関係が真に微妙であること、最も多くの訴因に対し訴追されていること、そして、「木戸日記」という大部の文書を既に検察側に提出していること、という特殊な状況下において、問題は如何にしてこれらの複雑かつ難解な状況をローガン氏に理解させるかにあった。(中略)既に述べたごとく、父の立場の特殊性と、内大臣の無罪は天皇の無罪に通じるとの米国流の法理のもとに、裁判対策としては徹底して個人弁護に終始する方針をとったため、弁護人としての私は、他の被告の弁護人の方々とは離れ、専らローガン氏に密着し同氏の理解を深めることに努力した。

 ローガンは、孝彦の助けを得ながら、日本の歴史や制度をゼロから勉強した。検事たちの虎の巻とされた木戸日記も翻訳文を繰り返し読んで、当時の木戸の日々の行動と心情と彼を取り巻くその時々の政治状況などを理解しようと努めた。木戸日記の中で理解できない部分があれば、その都度木戸に尋ねて彼の真意を確認した。木戸日記はローガンにとっても日本の昭和史を学ぶ恰好の教材になった。

 木戸自身も、内大臣の職務についてローガンの理解を助けるために次のような説明をメモに書いてローガンに渡した。
  

 内大臣の職務の解釈は我国法制の中で最も判り難いものの一つであるが、わかりやすく説明すれば、通俗的ではあるけれども、「天皇の御相談相手」ということだと思う。その起源は国家の制度機構上の必要によって設けられたものでなく、当時人事上の必要より設けられたのではないかと思う。明治18年我国において始めて近代的内閣制度が創設されるに当って、それまで永く太政大臣内閣総理大臣に該当す)だった三条実美公を据える地位に困って、内大臣の地位が設けられたと伝えられている。
 また、我国の憲法には内閣更迭の際の後継首相の奏請については規定がなく、これは一つの欠陥と言えば言えるが、明治時代より天皇が元老に御諮りになるということで支障なく行われてきたところ、漸次元老が死亡せられて遂に西園寺公1人となられ、同公は齢90になんなんとするに及んで自ら辞退する意思を表明されるに至り、ここに差当りの便法として湯浅内大臣の時代より内大臣に御下問と言う方法をとるに至った。この役割を為すに至って内大臣が国務を分担するに至ったと解するは事実に反する。

 

 このように、内大臣を務めた木戸本人がその地位と職務を説明するのに苦慮するほど、きわめて曖昧なものだった。ただし、内大臣の職責に関する木戸の説明は、内大臣としての法的責任を追及されている身として、自身の職責をできるだけ曖昧で小さく見せたいという彼の保身の気持ちの影響を受けている可能性があったから、ローガンとしては木戸の説明をそのまま受け入れることはためらわれた。

 このほかにも、木戸はローガンの多数の質問に対してその都度懇切に書面で返事を書いたうえに、裁判の過程で彼が随時気づいたことを書面にまとめてローガンと穂積弁護人に渡して彼らの弁護活動の参考に供した。
このような関係者の協力を得て、当初まるで空を掴むように思えたローガンの作業は少しずつ前進していった。

 だが、最大の障害は言葉の壁だった。ローガンと共に木戸の弁護を担当する穂積弁護人も木戸孝彦も当時の日本人としては英語の理解力は随分高かったが、彼らの助けを得ても外国人には神秘的ともいえる日本の政治システムを理解することは容易でなかった。互いに理解できないことによる苛立ちが、チーム内の人間関係を危機に追い詰めることも稀ではなかった。日本人たちは、どうせアメリカ人に日本のことがわかるわけがないという投げやりの気持ちになる一方、アメリカ人はどうして納得できるまで根気よく説明してくれないかと苛立ちがつのるのだった。

 このような状況の中でローガンを支えていたのは、弁護士としての意地とプライドだった。それは、ひとたび仕事を受任したからには依頼者のために全力を尽くさなければならないというアメリカの弁護士倫理の下で厳しく鍛えられた弁護士魂とでもいうべきものだった。依頼者が自国民であろうと、母国と戦った敵国のリーダーであろうと、やるべきことに違いはなかった。

             

-次に投稿予定の「 敵国から来た弁護人(3)」に続く- 

 

 

 

 

 

 

 

敵国から来た弁護人(1)

 東京裁判で元内大臣木戸幸一の弁護を担当した米国人弁護士ローガンの苦闘する姿を描いたドキュメンタリー物語 

 

はじめに 

 終戦の翌1946年(昭和21年)の5月3日に始まった東京裁判(正式には「極東国際軍事裁判」という)で、過去17年余りの期間に日本国が世界の各地で行った戦争に関して、28人の日本の最高指導者が殺人罪などを犯したとして個人責任を追及されて裁判にかけられた。2年半に及ぶ審理の結果、途中で死去した2人と精神病と診断された1人を除く25人の被告全員に有罪の判決がくだった。 

 この裁判は、日本と戦ったアメリカを含む11の戦勝国(「連合国」と呼ばれている)によって計画され、東京で行われた。容疑者を起訴した検事たちも、裁いた判事たちも、全員が戦勝国から送りこまれた人たちだった。栽判は連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が制定した裁判所憲章に基づいて、アメリカ式の裁判手続きによって行われた。この裁判が勝者による敗者に対する復讐のための儀式だったと評する者が少なくないのはそのためである。  

 この裁判では、各被告に日本人弁護士に加えて、1名のアメリカ人弁護士がつけられた。といっても、被告がお気に入りのアメリカ人弁護士を自由に選ぶことができたわけではない。1部は当時日本に駐留していた米軍に所属する弁護士資格を持つ軍人が当てられ、残りは米国司法省がアメリカ全土から志願者を募って東京に派遣した弁護士の中から割り当てられた。彼らの報酬や費用は米国政府が負担したから、彼らは「あてがいぶち」の弁護士だった。 

 戦争に勝ったアメリカは、「復讐」のために日本の戦争指導者を裁判にかける一方で、その者たちの弁護のためにわざわざ費用を負担してアメリカ人弁護士を提供したのだが、それはいったいなぜだったのか。復讐に加担させるためだったのか。裁判の公正を装う偽装工作だったのか。 

 一方の被告たちは、どのような想いで、敵国の見ず知らずの弁護士に、自分の生死を賭けた裁判の弁護を頼んだのだろうか。 他方、敵国の戦争指導者を法廷で弁護するという例のない特異な仕事を与えられたアメリカ人弁護士たちは、どのような想いでこの仕事を引き受け、どのようにそれに取り組んだのか。敵国に対する憎しみと弁護士としての良心の狭間で苦しむことはなかったのか。 

 このような疑問を持つ人がいても不思議ではない。これらの疑問の答えを求めて、この裁判の弁護団に加わった1人のアメリカ人弁護士を中心にその足跡を辿った。彼の名はウィリアム・ローガン・ジュニア(William Logan, Jr.)という。 

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        東京裁判の法廷で弁論するローガン

 彼が弁護を担当した被告は元内大臣木戸幸一であった。本稿はローガンが木戸の弁護人として何を考え何をしたかを中心に、東京裁判速記録(国立国会図書館所蔵)、「木戸幸一日記―東京裁判期」(東京大学出版会)、その他の関連文献や参考資料を基に、東京裁判の一つの断面を描いたものである。

 

第1章 裁判は始まっていた

1.1 遅れて到着

 太平洋戦争が終結した年の翌1946年(昭和21年)5月17日の夜、20数名のアメリカ人弁護士の一行が東京新橋の第一ホテルに到着した。2週間前に東京で始まった極東国際軍事裁判の被告として起訴された日本の戦争指導者を弁護するために、アメリカ全土から急いで呼び寄せられ、日本に送り込まれた弁護士たちだった。

 どの顔にも長旅による疲労が色濃く滲んでいた。軍用飛行機から降り立った厚木飛行場から東京都心に向かう道から見た薄暮の日本の首都の光景が廃墟のようだったことも、彼らの疲労感を一層強めていた。都市としての機能を失った荒涼としたこの焼け跡で、これから何カ月も、もしかすると何年も、家族や友人が住む豊かなアメリカの街から遠く離れて過ごさなければならないことが、彼らの気持ちを萎えさせた。ある程度覚悟はしていたが、とんでもない所に来たことを後悔する者もいた。

 第一ホテルは、GHQ(正式の名称は「連合国軍最高司令官総司令部」)の高級将校の宿舎になっていた。ロビーは軍服姿のアメリカ人たちで溢れ、たばこの煙と軍人たちの体臭でむせかえっていた。

 到着したアメリカ人弁護士一行の中に、ウィリアム・ローガン・ジュニア がいた。彼は日本へ出発する間際まで、ニューヨークの法律事務所(Hunt, Hill & Betts)で弁護士として通常の業務に追われていた。このとき44歳の働き盛りの彼は、直前まで国際取引や海上輸送に関する法務を中心に裁判事件も数多く手掛け、多忙な日々を過ごしていた。

 彼と同じ法律事務所の同僚弁護士にジョージ・ヤマオカ(山岡)がいた。ヤマオカは、その名が示すように、アメリカ国籍の日系二世であり、日系人として最初にニューヨーク州で弁護士資格を取得したことで知られていた。ヤマオカは米国ワシントンの日本大使館の法律顧問をしていた関係で、東京裁判に派遣されるアメリカ人弁護団の編成や裁判の準備を手伝っていた。

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ジョージ・ヤマオカ

 ヤマオカは仲良しのローガンに弁護団への参加を熱心に勧誘していたが、ローガンは「ヒロヒトの弁護ならやってもいいけどね」と冗談交じりの返事でかわしてやんわり断っていた。「ヒロヒト」は日本の昭和天皇のことだったが、当時アメリカでは昭和天皇をそのように呼んでいた。そのころ連合国の間では天皇を裁判にかけるべきだという意見が有力だったので、天皇にもアメリカ人弁護士がつけられることになるだろうと思って、ローガンはヒロヒトの名を口にしたのだった。

 ローガンも、敵国日本の最高指導者を裁くという人類史上類例のない超大型の国際裁判に参加できる機会に弁護士として血が騒がないわけではなかった。しかし、継続中の重要な仕事をいくつも抱えていたため、ニューヨークを長期間離れることは難しいと思っていた。

 その彼がヤマオカの熱心な説得に負けてこの裁判の弁護団に加わることを決意したのは、出発のわずか一週間ほど前のことだった。そのころ、裁判は半年ほどで終わるだろうと伝えられていたので、その程度の期間なら、世界中が注目するこの壮大な裁判に身を投じ、自分の力を試してみるのも悪くないと思ったからだった。それは弁護士の性(サガ)とでもいうべきものだった。

 家族や友人・知人たちは、ローガンのこの決断に対して、「気でも狂ったのか」と言って反対した。戦争中あれほど憎んだ敵国の戦争指導者を弁護するために、現在の恵まれた仕事環境を投げ出してわざわざ廃墟の東京に出かけようとするローガンの行動に理解を示す者はほとんどいなかった。彼自身も日本人に対する侮蔑と憎しみの感情をまだ拭いきれないでいたが、そのような私情より、弁護士としての知的好奇心と野心が上回った。弁護士のキャリアにおいて、このような機会に二度とめぐり合うことはないだろうと思った。

「おもしろそうだ。やってみよう」 

 そう決心したローガンのその後の行動は速かった。自分が担当していた仕事の留守中の処理に必要な事務所内の引継を短期間で済ませて、急いで東京に向かったのだった。

 第一ホテルに到着したローガン宛に、一足先に来日していたヤマオカから分厚い書類の束が届いていた。書類には次のようなヤマオカのメモが添えられていた。 

ビル、お疲れさま。今晩はゆっくり休んでくれ。だが、明日からめちゃくちゃ忙しくなるぞ。明朝8時にこのホテルのレストランで一緒に朝食を食べよう。できれば、それまでにこの袋の中の書類にざっと目を通しておいてもらいたい。ところで、君を木戸幸一被告の弁護人に推薦したいと考えている。君の希望はヒロヒトだったけど、木戸はヒロヒトの身代わりに起訴されたと言われているから、君の希望に一番近い人物だと思う。ぜひ引き受けてもらいたい。ジョージ 

  「ビル」はローガンの、「ジョージ」はヤマオカの愛称である。ヤマオカから届けられた袋の中の書類は、東京裁判に関するさまざまな資料、木戸幸一の人物像に関する資料、起訴状や大日本帝国憲法の英訳文などが含まれていた。

 ローガンが担当してもよい被告としてヒロヒトの名を挙げたのは軽い冗談だったが、ヤマオカはそれを逆手にとって木戸を薦めているようだった。ローガンは「ジョージの奴にうまく先手を取られたな」と気がついたが、木戸がどのような人物か、何も知らなかった。急いで起訴状の英語版に目を通してみたが、木戸の経歴も起訴容疑もよくわからなかった。そこでさらにヤマオカから届けられた書類を見たが、木戸の最後の役職が英語で「Lord Keeper of the Privy Seal」と書かれていただけだった。この英語はイギリスで伝統的に使われていた特殊な宮廷用語で、国璽(国王の御印)を管理する役職を意味していたが、その職務の具体的内容はわからなかった。長旅で疲労困憊のローガンはそれ以上木戸について詮索する気力もなく、ベッドに倒れ込むようにして日本での最初の夜を過ごした。

 翌朝8時にローガンがホテルのレストランに行くと、すでにヤマオカは食事を終えて1人で書類を読みながらローガンを待っていた。挨拶もほどほどにして、ヤマオカは裁判の現状と今後の予定の説明を始めた。

 5月3日に裁判が始まったこと、裁判長による裁判関係者の紹介、起訴状の朗読、被告の罪状認否、裁判に関する弁護側からの初期的動議や異議の申立てとそれに対する裁判長の応答など、裁判の序幕ともいえる手続きがすでに行われたこと、本格的な審理は6月4日に開始し、検察側の冒頭陳述に続いて起訴事実の立証が行われる予定であること、弁護側の反論と反証はその後に行われることなどを手短に説明したあと、ヤマオカは怒りを込めて言った。

「大変だぞ。何もかも無茶苦茶だ。裁判を始められる状態ではないのに、しゃにむに始めろというのだ。われわれ弁護人のオフイスは裁判所の建物の中に一応確保されてはいるけど、他は何もかも足りない。秘書やタイピストや通訳・翻訳者などのスタッフが極端に不足している。紙や筆記用具やその他の事務用品も足りない。必要な書籍、文献で英語で書かれたものは何もない。時間もない。おまけに、弁護団はまだ1部しか揃っていない。絶望的な状況だよ」

 日ごろ温厚で冷静なヤマオカの口から出たのは、ため息交じりの愚痴と不満だった。「国家の命運と自身の命を賭けて戦った一国の最高指導者を、こんな状態で裁くのは無茶だ」

 ローガンはニューヨーク出発前に東京の惨状をある程度聞いてはいたが、昨日見た東京の焼け跡のすさまじい風景を思い出しながら、ヤマオカの話をうなずきながら黙って聞いた。

 ヤマオカはそこで話題を変えて、彼が薦める木戸幸一被告について話し出した。

「昨日届けたメモに書いたように、今回の裁判では君に木戸の弁護を引き受けてもらいたいと思っているので、その理由を説明させてくれ。木戸について君がどれだけ知っているかわからないけど、木戸は終戦までの約5年間『内大臣』だった人物だ」

 そのとき、ヤマオカは「内大臣」を「ナイ・ダイ・ジン」と日本語読みで発音した。

「確か、英文の起訴状などでは内大臣が『Lord Keeper of the Privy Seal』と訳されていると思うが、それでは意味が通じないだろうね。そもそもアメリカには天皇や国王のような者が存在しないから、天皇内大臣に対応する英語が存在しない。だから、無理やりそれを英語に訳しても、本当の意味は伝わらない。しかも日本の政治の仕組みは非常に複雑で曖昧でわかりにくいから、直訳するとかえって誤解を招きかねない。あえて簡単に言えば、内大臣は常時天皇の側にいて天皇を補佐するアドバイザーのような者だ。木戸はヒロヒトの信頼が厚かったので、天皇の側近ナンバー・ワンとして天皇に対する影響力は大きかったらしい。今起訴されている28人の被告のなかでは、木戸は東条英機と並ぶ大物だと言われている。実際に、木戸は全被告中で最多の訴因(起訴の対象になっている犯罪行為)について起訴されているのだ」

「木戸が大物」だと言うのを聞いて、ローガンは悪い気がしなかった。

「実は・・・」と言いながらヤマオカはあたりを見回し、声をひそめて話を続けた。「今起訴されている28人の被告の中にヒロヒトが含まれていないことは君も知っていると思うが、ヒロヒトの扱いはまだ最終的に決着がついていないようだ。マッカーサーは日本の占領統治に天皇の存在が不可欠だと考えているので、天皇を裁判にかけたくないと思っている。トルーマン大統領もマッカーサーの考えを支持しているので、アメリカは天皇不起訴でほぼ固まっていると言えそうだ。しかし、連合国の中にはまだ天皇を起訴すべきだと主張している国がある。特に、オーストラリアや中国やソ連天皇の起訴を今でも強く要求しているらしい。だから、この問題はまだ流動的だ。

 他方、天皇の戦争責任問題は日本国民の関心も非常に高い。日本の外務省は天皇が栽判にかけられることはもちろん、裁判所に証人として呼び出されることも、絶対にあってはならないと考えている。だが、この問題は木戸がこの裁判でどのような態度をとるかによるだろうと外務省はみている。そういうわけで、木戸の弁護人が誰になるかに外務省は大きな関心を持っている。俺は内々に木戸の弁護人として君が適任だと外務省に伝えており、外務省も了解している、というより、君が引き受けてくれることを外務省も強く望んでいる。だから、ぜひ君に木戸を引き受けてもらいたいのだ」

 ローガンは、裁判における自分の役割についてそのような水面下の動きがあることを知らず、初めて聞いて驚き、即座に言った。

「待ってくれ、ジョージ。そういう事情があるのなら、君が木戸をやるのがベストではないか」

「いや、俺は基本的にこの裁判では裏方を務めることにしている。いろんな雑用がたくさんあって、とても特定の被告の弁護をまるごと引き受ける余裕はない。特に、木戸のような大物はとても無理だよ」

 ヤマオカはさらに続けて言った。「ところで、ビル、君は今でもヒロヒトなら引き受けてもいいと思っているのか」

「いや、あれは冗談だよ」

「いずれにしても、木戸を引き受けてくれたらヒロヒトも付いてくるだろうね」

「それはどういう意味だ?」

ヒロヒトは日本国の元首であり、絶対的な最高権力者だったのだから、彼が起訴されようとされまいと、ヒロヒト抜きで日本の戦争責任を裁くことができるはずがない。だから、この裁判がこのままヒロヒト抜きで進んでも、ヒロヒトの責任は必ず栽判でいろいろな形で問題になるだろう。その際、おそらく木戸は身を挺してヒロヒトを守ろうとするに違いない。木戸はヒロヒトを守ることが自分を守ることになると考えているらしいからね。俺が『ヒロヒトも付いてくる』と言ったのは、そういう意味で、木戸を弁護することは必然的にヒロヒトを間接的に弁護することにもなるという意味だよ」

「木戸とヒロヒトの関係は俺にはまだ良くわからないけど、おそらく2人の間には潜在的に多くのconflict(利益相反)があると思うよ。木戸の弁護人としては、ヒロヒトの身代わりに、木戸の首を差し出すことに協力することはできないね」

「それはもちろんだけど、逆に木戸を守るために責任をヒロヒトに押しつけたら、ヒロヒトが裁判にかけられることになり、そうなれば、日本国民の猛烈な怒りをかうことになるだろうね。おまけに、マッカーサーからも彼の占領政策を妨害したと激しいお叱りを受けることになるだろうね」

「そうなると、俺は日本から追放され、そのうえ生きてアメリカに帰ることもできないということか!」

「そうかもね」と言って、ヤマオカはニヤッと笑った。そして2人は顔を見合わせて大声で笑い、ローガンは言った。

「いやはや、えらいことになりそうだね」

「うん。確かに、木戸の弁護は大変だし、難しい舵取りが必要になるだろうね。しかし、君以外にこの難しい役を頼める奴はいないのだ。だから、頼むよ」

「ジョージにそこまで言われたら、断わるわけにはいかないね」

「そこでだが、木戸の日本人弁護人として穂積重威という弁護士がすでに選任されているから、まず彼に会ってもらうのがいいと思う。君に木戸を推薦することは彼にも話してあるから、彼は君からの連絡を待っているはずだ。彼は木戸からアメリカ人弁護士の選任について一任されているようだが、木戸にも会ったうえで3者全員が納得して決めた方が良いだろう。木戸たち被告全員は『巣鴨プリズン』と呼ばれている拘置所に収容されているが、弁護人は自由に収容者に会うことができる。そのあたりのことは穂積弁護士が適当にやってくれるだろう」

 ヤマオカはそこでひと息ついて、さらに続けた。

「参考までに言っておくと、穂積は日本では数少ない英米法に精通した弁護士の1人だと聞いている。英語もしゃべれるらしい。彼は木戸の遠縁にあたり、その関係もあって木戸の弁護を引き受けたらしいが、彼は木戸のほかに、東条内閣で外務大臣を務めた東郷茂徳被告の弁護も引き受けている。外務省が先輩の東郷のために指折りの弁護士を探し出して東郷に紹介したというから、穂積はなかなかのやり手らしい。ただ、2人の被告の弁護を引き受けているので、穂積弁護士は非常に多忙らしい」

「そうか。良くわかった」

 ローガンが同意すると、ヤマオカは穂積弁護士の連絡先をメモに書いてローガンに渡した。

「じゃあ、俺は昨日到着した他の弁護士連中にこれから順次会って、同じような話をしなければならないので、これで失敬するよ」

 そう言って足早に立ち去るヤマオカの後ろ姿を見送りながら、ローガンは思った。戦時中、ヤマオカが2つの母国の狭間で苦しみ悲しむ姿を何度見たことか。今、ようやく戦争が終わり、日米の掛け橋としていきいきと活躍している彼の姿を見ながら、今回は彼の言うことに快く従おうとローガンは思った。

 だが、このときローガンは、自分の前途に途方もない茨(いばら)の道が待ち受けていることにまだ気づいていなかった。

 
1.2 木戸の弁護を受任
 遅れて来日したローガンは、遅れを取り戻すために急いでやらなければならないことが山積していた。最初にやるべきは、ヤマオカの薦めに従って、木戸の弁護人である穂積重威に会うことだった。

 穂積弁護士は物静かな紳士だった。木戸幸一に代わって、木戸の弁護を引き受けてほしい旨を丁重に述べたあと、ローガンの質問に答えて、木戸の経歴、容疑、裁判への対応方針等について、ざっと次のように説明した。

木戸幸一は、1889年7月18日に侯爵木戸孝正の長男として東京で生まれた。父の孝正は、西郷隆盛大久保利通と並ぶ明治維新三傑の一人である元勲の木戸孝允桂小五郎)の妹治子の長男であったが、伯父の木戸孝允の養子になっていた。したがって、戸籍上、幸一は木戸孝允の孫にあたる。幸一の妻はその名を「ツル」といい(幸一はふだん「鶴子」と呼んでいる)、元陸軍参謀総長児玉源太郎の末娘である。幸一とツルの間には2人の男の子がおり、長男は日本銀行に勤務している。次男の孝彦は東京大学法学部を卒業し、東京裁判開始後間もなく弁護士になり、幸一の補佐弁護人として父の弁護を手伝っている。このように木戸家は終戦まで日本を代表する名家の1つであったが、終戦直前に東京赤坂の居宅が米空軍の攻撃で焼失し、戦後幸一が爵位内大臣の職を失って収入の道を断たれたうえ逮捕拘禁されるに至って、今、幸一とその家族は経済的にも精神的にも苦しい立場に追い込まれている。

●木戸は、京都帝国大学卒業後農商務省に入省し、同省に勤務したあと、1937年から文部大臣、厚生大臣及び内務大臣に就任し、内閣の1員として閣議決定に加わる立場にあった。その後1940年6月1日から終戦直後まで内大臣を務めた。軍歴は一切ない。いずれの職務においても、戦争の開始、作戦、戦闘行為等を所管する立場になかった。しかし、内閣の一員として閣議決定に加わったことや、内大臣として元首である天皇を直接補佐する立場にあったことが起訴容疑になっていると思われる。ご存じと思うが、28人の被告に対する合計55の訴因のうち、木戸は実に54の訴因について起訴されており、これは全被告のなかで最多である。このことから、木戸は天皇の身代わりとして起訴されたのではないかという噂がある。また、彼が太平洋戦争の開戦を決定した東条英機を総理大臣として天皇に推挙したことが起訴の重要な一因とされていると言われている。

●木戸は、内大臣として天皇の側近であったことから、起訴されることを早くから予知し、天皇に累が及ばないよう全責任を一身に負い、有罪はもちろん、極刑も覚悟している。ただ、内大臣が罪を被れば陛下が無罪になるというわけではなく、むしろ内大臣が無罪ならば陛下も無罪、内大臣が有罪ならば陛下も有罪とみなされる可能性が高いと理解しており、裁判では無罪を主張するつもりでいる。木戸は彼のこの気持ちを汲んで弁護してくれることを弁護人に希望している。

●木戸は、1945年12月16日に逮捕されたあと、サケット検事により合計30回に及ぶ取り調べを受けた。その間、彼は進んで彼の日記を検事に提出した。天皇の平和に対する気持を客観的に伝えるために必要と考えたからであった。日記は1930年(昭和5年)から1945年(昭和20年)まで及ぶ膨大なもので、検事の捜査活動の基本資料とされ、木戸自身に対してはもちろん、他の被告にも甚大な影響を与えることになった。特に、木戸日記は軍人被告に厳しい内容になっていたため、木戸は彼らの強い怒りをかい、拘置所と法廷を往復する被告の送迎バスの中で他の被告たちから激しく罵倒されるなど、被告の中で孤立している。この木戸日記は裁判において検事側の有力な証拠とされると思われるので、弁護人としてもそれに対する十分な備えが必要になろう。

 これらの穂積の話はローガンの心を強く突き動かした。ローガンは即座に木戸の弁護を引き受ける意思があることを穂積に伝えた。

 穂積はアメリカ人弁護人の選任について木戸から一任されていたが、この日の面談について木戸に報告し、改めて木戸の了承を得てローガン宛の木戸の委任状を作成すると述べた。このようにして作成された委任状は、5月25日、ローガンに届けられ、ローガンは正式に木戸の弁護人に就任した。

 ローガンは早速ヤマオカにこのことを伝えた。アメリカ人弁護人の編成を手伝っていたヤマオカからは、感謝と励ましの言葉が返ってきた。

         

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(本稿は長文のため、10回程度に分割して投稿させていただきます。ご不便をおかけしますが、なにとぞご辛抱の上、最後までお付き合いくださるようお願いいたします)