敵国から来た弁護人(4)

東京裁判で元内大臣木戸幸一の弁護を担当した米国人弁護士ローガンの苦闘する姿を描いたドキュメンタリー物語

 

これまでのあらすじ

 東京裁判は、ローガンらが来日する前の2020年5月3日に始まり、法廷で序幕に相当する行事が行われていた。そして、弁護側から裁判長に対する忌避や裁判管轄権不存在に関する動議などきわめて重要な申し立てがなされたが、裁判所はそれらのすべて却下したうえで、「その理由は将来告げる」と述べただけ序幕を閉じた。

 6月4日から、遅れて来日したローガンらも出席して再開された法廷で、本格的な審理と検察側の立証作業が始まった。最初に検察は壮大な立証計画を示し、日本が軍国主義化を進めるとともに、満州から中国への侵略を行っていった様子を多数の証人の証言と書証の提出によって証明する作業を開始した。 

 

 2.3 「満州侵略」部門で見せた検察の手の込んだ作戦
 検察側の立証は第2部(満州侵略)に進んだ。ここで注目を引いたのは、1946年7月5日に出廷した元陸軍少将田中隆吉だった。いつもは予め作成された宣誓口述書を朗読することによって主尋問に替えるのだが、このときばかりはサケット検事がわざわざ直接本人に尋問した。それは、証人本人の口から直接証言させた方が裁判官に強い印象を与えることができるとの検察側の読みがあってのことだった。案の定、田中証人は見事に検察の期待に応えた。

 田中は1928年の張作霖の殺害が河本大佐によって計画され実行されたこと、1931年の満州事変が橋本被告、板垣被告、大川被告らを首謀とする人々によって行われたことなどを証言した。その際、法廷内にいるそれらの被告をその都度指で指し示した。このような田中の証言と所作は、事前に検察による綿密な演技指導を受けたものであることは誰の目にも明らかだった。

 どこよりも厳しい序列が支配していた陸軍において、後輩に派手に裏切られた先輩被告たちは、怒りを抑えきれず、証言台の田中を罵倒する声を発する者もいた。田中によって犯人と名指しされた被告を担当する日本人弁護人は入れ替わり立ち替わり反対尋問に立ちあがり、田中が不起訴の保障と引き換えに検察への協力を誓ったのではないかと疑う質問を繰り返したが、有効な反撃とはならなかった。

 その間、裁判長はたびたび弁護人の反対尋問に対して「関連性がない」とか、「被告に有利な質問とは考えられない」と述べて弁護人の質問を中止させるなどした。栽判の進行を急ぐためか、裁判長は回りくどい日本人弁護人の反対尋問にいらだちを隠さなかった。

 検察側立証の第2部のハイライトは、清朝の最後の皇帝でし国の皇帝であった溥儀(フギ)の証言だった。溥儀は1945年8月にソ連満州を占領したときに捕らえられ、ソ連ハバロフスク近郊に捕虜として抑留中であった。その彼が東京裁判の検察側証人としてソ連から護衛付きで東京に運ばれて出廷し、彼の証言に世界中の注目が集まった。検察側はそれを意識してか、田中証人の場合と同様に、宣誓口述書によらないで、キーナン主席検事が直接溥儀に尋問した。

 溥儀は長期間ソ連に抑留されていたためか、かつての皇帝の面影はなく、やせ細っていたが、証言台での彼は抜け目なく、驚くほどしぶとかった。

 キーナンの主尋問に対しては、彼が満州国の領袖になったのは、当時関東軍高級参謀であった板垣被告の脅迫によるものであり、拒否したら殺されるかもしれないと思ったので、嫌々引き受けたと述べ、皇帝就任後も自分には一切自由はなく、皇帝とは名ばかりだったと証言した。彼の証言には保身のための嘘や作り話が含まれていることは誰の目にも明らかだった。名指しで非難された板垣被告をはじめ、溥儀をよく知る他の被告たちは、被告席で怒りの表情をあらわにした。

 弁護人たちは、溥儀の証言開始前には、彼と天皇の関係を考慮して反対尋問をしない方針を決めていたが、彼の証言を聞いて怒りを爆発させ、ブレィクニ―が立って反対尋問を始めた。だが、これまでの法廷で強靭な論理を駆使して鋭い反対尋問を行ったことで高い評価を得ていたブレィクニ―弁護人も、この証人にはてこずった。溥儀はどこまでもしぶとかった。「知らない」、「わからない」を連発して逃げ回った。ブレィクニ―も執拗に迫った。いらついた栽判長がたびたび尋問に介入した。その結果、ブレィクニ―の反対尋問は裁判長を交えた三つ巴戦になり、混乱は増幅した。

 溥儀の反対尋問は7人の弁護人により5日半続いたが、その間溥儀は尋問者を激怒させ、翻弄し、疲労させ、法廷内をいらつかせただけだった。

 木戸もこの様子を日記に次のように書いている。 

1946年8月19日(月)晴
 午前8時出発、法廷に行く。九時半開廷。溥儀に対する主尋問が行われた。平気で虚言をはく同氏の態度は近来にない不愉快なものであった。

 

2.4 日本国民を驚愕させた南京大虐殺
 溥儀の証言を挟んで、検察側立証の第3部「中華侵略」が行われた。そこで検察が明らかにしたことは、多くの日本国民にとって衝撃的なものだった。

 検察は、1937年7月に起きた盧溝橋事件をきっかけにして始まった支那事変は、日本による中国に対する征服と殺戮と凌辱を目的とした計画的で組織的なものだったとして激しく非難し、それを裏付ける証拠を次々と提出した。それらは弁護人の予想をはるかに超えるものだった。思いがけない展開に弁護人はなすすべなく検察の立証を見守るほかなかった。

 検察が用意した証人たちの証言が明らかにしたのは、この世のものとは思えないほど残忍なものだった。特に衝撃的だったのは、1937年12月13日、中国の首都南京を占領した日本軍が暴徒化し、一般市民に対して無差別の殺戮を行い、20万人とも、30万人とも、40万人ともいわれる中国の一般市民を殺害し、何万人もの中国人女性を強姦したというのだ。これはその後「南京事件」と呼ばれ、今でも日中間で歴史認識を巡って論争になっているものである。

 日本軍による殺戮の様子が法廷で証人によって生々しく語られた時、法廷にいた者は耳を疑い、まさかと思いつつも、遠い国で自分たちの知らないことが起こっていたことを初めて知った。この大惨事は発生当時日本国外では広く報道されていたが、日本国内では厳重な報道管制が行われたため極秘にされていた。

 最も衝撃的だったのは、南京アメリカ教会牧師ジョン・G・マギー、南京大学外科部長だったアメリカ人医師ロバート・C・ウイルソン、同大学歴史教授ベイツらの証言だった。これらの証人はその立場からみて、中立的で、証言の信憑性が高いとみられたからだった。

 彼らの証言によれば、日本軍の兵隊がある時は集団で組織的に、ある時は個別に、暴徒のようにいたる処で機関銃や小銃で南京市民を殺害し、その死体が市内のあちこちにごろごろ転がっていたというのだ。さらに、兵隊たちは女を求めて徘徊し、手当たりしだいに強姦し、抵抗すれば即座に突き殺したという。大学の構内だけでも、9歳の少女から76歳の老婆まで強姦されたというのだ。検察側が周到に用意した証人たちによってそれらの様子が語られるにつれ、法廷内は重苦しい空気に包まれていった。被告たちはうつむき、じっと恥辱に耐えるほかなかった。

 南京攻略は松井石根被告が中支那方面軍司令官であったときに彼の進言に基づき彼の指揮下で実行されたものだったので、彼がこの事件の責任者であることは明らかだった。もっとも、彼は事件が発生した12月13日から4日後の17日に南京に入ったとされており、直接現場で指揮を執れる状況にはなかったが、それは弁解にならなかった。被告席の松井は、忌まわしい事件の生々しい様子が証人の口からは話される間、下を向いてじっと耐えるほかなかった。松井の弁護人であり日本人弁護団長の鵜沢も松井担当のアメリカ人弁護人のマタイスもその他の弁護人もなすすべがなく、ただ茫然と検事と証人のやり取りを見守るばかりだった。

 そのような中で、わずかにブルックス弁護人(小磯被告担当)がマギー証人に対して果敢に反対尋問を挑んだ。多くの日本兵が無数の一般市民を殺害し、無数の婦女子を強姦し、無数の一般市民の財産を略奪したとのマギー証人の証言について、ブルックスは実際に証人が自身の目でその状況を目撃したのはそのうちの何件かと鋭く切り込んだ。すると、証人の答えは曖昧になり、結局、証人が直接目撃したのは殺人が1人、強姦が3人という証言を引き出した。それ以外の証人の話はすべて「伝聞(また聞き)」ということになり、マギー証人の証言の信憑性は著しく弱められた。

 

2.5 弁護人たちの苦闘の日々と休息のひととき
 検察側の立証が進むにつれて、法廷での弁護人の発言はアメリカ人弁護人のものが目立つようになった。

   その背景に、栽判のやり方や手続が基本的にアメリカ方式で行われていたため、日本人弁護人はそれに不慣れであったことがあげられる。アメリカでは「当事者主義」と呼ばれる方式で刑事裁判が行われ、法廷では当事者(検事と弁護士)が主役であり、裁判官は法廷のルールがきちんと守られることと、陪審員の評決が公正に行われることを見守る立場にあると考えられていた。そのためアメリカでは、ルールの枠内で、弁護士は被告のためになし得るすべてをなすことがその使命と考えられており、弁護士は裁判官や検察官と対等に対峙し、必要な場合には臆することなく異議を申し立てて闘うことを躊躇してはならなかった。

 東京裁判の速記録を読み進むと、アメリカ人弁護人が裁判官や検察官と激しくやりあう場面がいたるところで延々と続くことに気付く。ときには起訴事実の審理から外れて、大小さまざまな法技術論を巡る議論が続くことがあり、読者としてはうんざりするが、アメリカ人弁護人にとってはやるべきことをやっているだけなのであろう。

 日本人弁護人もアメリカ人弁護人に負けてはならないと、異議の申し立てや反対尋問を行う者が徐々に増えてきたが、彼らの動きはまだまだ緩慢だった。外国人の眼には日本人弁護人の態度は卑屈に見え、被告を守るために裁判官や検事と強く闘う気迫が見られないとの厳しい批評があった。戦前の日本の法廷では、「職権主義」の名のもとに裁判官が自ら職権で取り調べを行うべきものとされ、弁護人の役割は限定的だった。それに慣れていた日本人弁護士の姿勢に覇気が感じられなかったのは、ある程度やむを得ないことだった。

 さらに言えば、裁判における「正義」の考え方に、日米で少なからず違いがあった。日本では正義は歴史を超えた普遍的真理であり、それを習得した裁判官が裁きを主宰すべきであると考えられていたのに対して、アメリカでは正義はもっとダイナミックなもので、その時々の異なる立場の人々が自由に意見と証拠をぶつけ合った、末に双方の意見と証拠の力が均衡する地点に正義があると考える傾向がある。アメリカの裁判は、法の正当な手続きのもとで当事者双方が論理と証拠の力比べをし、押し勝った方に軍配が上がると言っても言いすぎでない。その意味で、裁判は得点の多さを争うスポーツに近く、アメリカ人弁護士はスポーツ選手のように日ごろから技を磨き、その技で生計を立てているのである。

 スポーツ選手のように戦闘的なアメリカ人弁護人たちにも休息は必要である。過酷な東京裁判のスケジュールのもとで、法廷での仕事の後のわずかな息抜きは、ホテルのバーで酒を飲み交わすことぐらいだった。彼らの話題の多くは、悲惨な仕事環境や目の前で展開する裁判手続きについての愚痴だった。

 ある日の夕方、ローガンがヤマオカとホテルのバーで一緒に飲んでいた時、ヤマオカが次のようなことを口にした。

「うちの法律事務所の同僚が、彼のロースクールの同期生だったチャールズ・ケーディスという男が現在東京のGHQでマッカーサーの右腕として辣腕をふるっているという話をしていたのを覚えているだろう。実は数日前、帝国ホテルで開かれたあるパーティーでそのケーディスに会ったんだ。今や日本で彼のことを知らない人はいないと言われるほどの大変な実力者らしい。われわれ東京裁判の弁護人の悲惨な状況のことが彼の耳にも届いているらしく、われわれが困っていることでGHQが手助けできることがあれば遠慮なく言ってくれと言われたんだ」

「ほー、それで君は何か彼に頼んだのか?」

「頼みたいことはいっぱいあったけど、頼むのはやめたよ」

「どうしてなんだ。聞くところによれば、検事たちはGHQの組織に入れてもらって、随分優遇されているそうじゃないか」

「それは俺も知っているけど、俺たちはそんなことは許されないだろう。同じ裁判で闘っている検事と弁護人が同じ組織に組み込まれて仲良くしていたらおかしいだろう。そもそもGHQは実質的にわれわれの依頼人を起訴した者だから、俺たちがそのGHQに助けを求めたら、依頼者に対する裏切り行為になるだろう」

「なるほど、それはそうだな」

「ただね、俺も彼に嫌味を言っておいたよ。GHQの手厚い支援を受けている検事たちに対して、われわれは『B29に対して竹やりで立ち向かっているようなものだ』とね」

「まったくそうだ。それでケーディスの奴はなんて言った?」

「ニヤッと笑っただけだった。ところで、日本ではマッカーサーは今や戦前の天皇みたいな存在らしい。そして、GHQの民生局長のコートニー・ホイットニーはさしずめ内大臣木戸幸一に当る。アポイントなしで自由にマッカーサーの部屋に出入りできるのはホイットニーだけらしい。民政局次長のケーディスはその二人から絶大な信頼を受けて、日本の占領政策の多くを彼が取り仕切っているらしいね」

「羨ましい限りだね。木戸の弁護人のポストより、GHQ民生局のポストを俺に紹介して欲しかったよ」

「贅沢なことを言うなよ」

 愚痴で始まった2人の会話は笑い話で終わったが、ヤマオカが最近会ったというケーディスという人物は、2人が所属しているニューヨークの法律事務所の同僚弁護士が、彼のロースクールでクラスメートだった人物がいまマッカーサーの懐刀として日本の占領統治に辣腕をふるっているらしいという話をしていたことから、ヤマオカがその人物に会ったことを話題にしたのだった。

 余談だが、このケーディスという人物は、その年(1946年)の2月にマッカーサーの緊急命令を受けて、わずか9日間の徹夜作業で日本の新憲法(現在の日本国憲法)の草案を作成し、日本政府にその採用を迫った中心人物であった。

 このころ、ローガンは1人の若いアメリカ人女性を紹介された。彼女はアメリカでロースクールに進学する前に、東京裁判に関する仕事を実体験したいと希望して来日したという。最初に検察側にアプローチしたが採用を断られたため、弁護人の秘書の仕事を希望しているとのことだった。足手まといになる心配があったが、有能な秘書なら欲しいと思い、会ってみたら、役に立ちそうだったので、ローガンはジョン・G・ブラナン弁護人(永野修身被告担当)とシェアする形で彼女を2人の共同秘書にすることにした。

 彼女の名はエレ―ヌ・B・フィッシェル。活発で好奇心旺盛な彼女は秘書以上の働きをしてくれた。そして東京裁判終了後、アメリカに帰国して念願だったロースクールに入学して弁護士になったフィッシェルは50年以上も経った2009年に、このときの体験をもとに「敵を弁護する」(Defending the Enemy: Justice for the WWII Criminals)を出版して話題になった。その中で彼女は、東京裁判アメリカ人弁護人が敵国日本の戦争犯罪人を法廷で弁護しただけでなく、勝者・敗者の立場の違いや国籍・人種の壁を超えて、被告とその家族や多くの日本人との間に深い絆を築いていった様子を描いている。ローガンと木戸の家族との交流の様子も写真入りで掲載されている。

 1946年の夏は厳しい暑さが続き、法廷は蒸し風呂状態の日が続いた。裁判官も検事も弁護人も全員疲労困憊だった。田中証人の証言が終わった7月15日に、裁判長は冷房が設置され稼働するまで閉廷すると宣言した。ここまでの栽判長の法廷指揮の中で、このときの決定ほど裁判関係者全員が揃って歓迎したものはなかった。
弁護人たちは思いがけず久しぶりの休息を得て一息ついた。

 ローガンは、ヤマオカ、ブレィクニ―、ファーネスらの弁護人たちと休息の時間をホテルのバーで過ごした。通りがかった他のアメリカ人弁護人たちも加わり、思いがけずにぎやかな集いになった。蓄積した疲労を酔いが溶かし、夜が更けるのを忘れさせた。話題はおのずと東京栽判のことになった。当然のことながらウエッブ裁判長が話題の中心になった。

「裁判長はおしゃべりだ」
「すぐ口を出す」
「尋問の邪魔をする」

 これらの点では弁護人たちの意見は一致した。実際に栽判長が尋問に余計な介入をしたために尋問が邪魔されて混乱し、尋問時間が長引いたことが多々あった。裁判長がキーナン主席検事と長々と言い争いをする場面も少なくなかった。2人が主導権争いをしていると思われる見苦しい場面もあった。

「裁判長は一度言い出したら、絶対に引き下がらないね」
「頑固で、プライドが高い」
「彼に対する他の判事たちの評判もあまり良くないらしい。傲慢で独裁的で、判事団の中で孤立しているという噂を聞いたことがある」
「そう言えば、ウエッブ以外の裁判官が法廷で発言することはほとんどないよね。ウエッブは他の裁判官が法廷で勝手に発言することを嫌がっているらしい」

 ここまでは、大きな異論は出なかった。

「裁判長は検察側に有利で、弁護側に不利な采配をする」
「彼はもととも反日感情が強い人間で、その気持ちが自然に訴訟指揮に現れるのだろう。特に天皇に対する反感が激しいね」

 このあたりまで来ると、栽判長に同情的なことを言う者もいた。

「ウエッブは法廷外ではなかなかの好人物だよ」
「ウエッブは夫婦で帝国ホテルに宿泊しているらしいが、ホテルでの彼の評判はいいらしいね」

 この後、一人のアメリカ人弁護人が言った。

「正直に言うと、俺はときどき弁護人席から検事席に移りたいと思うことがあるけど、君たちはそんなことはないか?」

 皆がニヤッと笑った。自分たちにも心当たりがあるという表情だった。それを見て、前年12月からフィリピンで行われた本間中将の栽判の弁護をやり、続いてこの東京裁判で重光被告の弁護を引き受けているファーネスが言った。

「俺は自分を役者だと思っている。役者は仕事なら悪役でも憎まれ役でも何でもやる。もらった役の中でどのように役作りするか、どのようにして観客の心を掴むか、それが役者の腕の見せどころだ。それがプロの役者というものだろう。弁護士も同じだと思うんだ。だから俺は、法廷の中でどっちの席に座るかに関心ないね。どんな役でも本質的に変わりないね」

 ファーネスはいつも飄々としてあまり感情を表に出さないが、このときも無表情に言った。後述するように、この男は東京裁判が終わったあとも日本に留まり、東京に自分の法律事務所を開設して国際ビジネスに関するリーガルサービスを提供するかたわら、数々の映画やテレビドラマに役者として出演し、弁護士と役者はどのような役でも引き受けるべきだという持論を実践することになる。

 このころになると、アメリカ人弁護人に対する法廷での評価が次第に固まりつつあった。大ざっぱに言うと、有能で味方につけて良かったと高い評価を受けている弁護士、検察のスパイではないかと疑われる弁護士、その中間の毒にも薬にもならない弁護士の3つのグループに色分けされた。ブレィクニ―、ファーネス、ローガン、スミス(広田被告担当)、ブルックス(小磯被告担当)、ブルーエット(東条被告担当)、カニンガム(大島被告担当)、などが第一のグループに入るとみなされたが、第三の毒にも薬にもならないグループとされたアメリカ人弁護士も決して少なくなかった。さすがに第二グループの検察のスパイと疑われた者はほとんどいなかった。

 なお、第一グループに名前をあげたスミス弁護人の硬骨漢ぶりを示すエピソードを紹介しておきたい。裁判手続きがもう少し進んで弁護側の立証に入って間もない1947年3月3日、法廷で岡本尚一弁護人(武藤章被告担当)が御手洗辰夫証人に昭和の歴代内閣の倒壊の原因について尋問を行っていたときのことだった。検察の異議を受けてウエッブ栽判長が度々尋問に介入したのに対して、スミス弁護人が立ちあがって発言した。

「広田被告を代表して証人の尋問に関して裁判所が不当に干渉をしているという理由で異議を申立てます」

 すると、栽判長が怒った。

「スミスさん、あなたはこの法廷では丁重な言葉を使ってください。あなたは法廷で『不当な干渉』というような言葉を使ってはいけません。その言葉を取り消して陳謝してください。そうでなければあなたをこの法廷から退席させなければなりません」

 スミスも後に引かなかった。

「私は20年間弁護士をしていますが、裁判長から『不当な干渉』という言葉の撤回を求められたことはありません」

「あなたは陳謝しなければなりません。もしそうしないなら、私は私の同僚裁判官に対してあなたの弁護人資格を取り消すように提案します。そして今後は被告の担当弁護人の資格を取り消すようにします。法廷に対して侮辱的な言葉を使うことは許されません」

「私は法廷を侮辱する意思は全然ありませんでした。ですから、私のただ今申しました事で、裁判所にそのような印象を与えたということがまったくわからないのです」

「侮辱的な言葉、すなわち法廷の『不当な干渉』という言葉を取り消してください」

「承服致しかねます」

 ここで裁判長は裁判官内部で審議するために15分間の休憩を宣告し、再開後に次のとおり告げた。

「スミス弁護人、裁判所はスミス弁護人に対し、今後審理より除外することにしました。スミス弁護人が法廷に対して使った言葉を取り消し、法廷に対して陳謝するまで本法廷の審理から除外することを決定しました」

「私は私の考えを変更する意思はありませんし、変更する理由も認めないので、私は永久に除外されたことになります」

 そして、スミスは自分の席に戻り、手荷物を素早くまとめて退席した。だが、この男がすごいのはその後の行動だった。何食わぬ顔をして法廷内の傍聴席に現れ、空席を見つけて座って引き続き審理を見守った。その翌日も、そしてその後も、以前と変わることなく傍聴席や記者席で審理を見守り続け、広田被告に対して法廷外で非公式にアドバイスを続けた。半年後、この状態を正常に戻すために法廷で発言を求め、他意はなかったとして復帰の許しを求めたが、裁判長に拒否され、そこで正式に辞任した。なお、広田被告の後任弁護人にはヤマオカが就任した。

 

2.6 3国同盟に対する検察の追求
 法廷に大きな衝撃をもたらした南京大虐殺の立証が終わり、検察側の立証は第4部の日本・ドイツ・イタリアの3国同盟に進んだ。
 1940年9月27日に締結された3国同盟は、起訴状では訴因第5において、世界を軍事的、政治的、経済的に支配することを目的とする3国間の「共同謀議」であると指摘されていた。

 3国同盟締結の翌年に太平洋戦争が勃発したことから、検察はこの後に行われる太平洋戦争段階の立証において、3国同盟が太平洋地域への日本の侵略を後押しする役割を果たしたとの立場で、その締結に向けた共同謀議の日本側参加者の責任を追及した。

 3国同盟は当時外相であった松岡洋右被告が強引に進めたものだったが、その松岡は東京裁判開始後間もなく病死し、法廷から姿を消していた。舞台は最大の主役が不在のため盛り上がりを欠き、淡々と進んだ。証人の出廷はなく、条約交渉や条約内容に関する書類約170件が証拠として提出されただけだった。
 続いて第5部(仏印に対する侵略)から第6部(対ソ侵略)に進んだが、大きな注目を集めることなく終わった。
 
2.7 ニュルンベルグ裁判の判決下る
 第5部の仏印侵略問題が法廷で取り上げられていた10月1日、ドイツの戦争犯罪人を裁いていたニュルンベルグ栽判の判決が下り、その内容が日本でも報道されて話題になった。

 ニュルンべルグ判決では、起訴された者24人のうち絞首刑が12人、終身刑が3人、有期刑が4人、無罪が3人、判決前に死亡した被告と免訴になった被告各1名だった。絞首刑は早々と半月後の10月16日に執行された。 

 死刑の宣告を受けた者が半数を超えていた点は厳しいという印象を与えたが、無罪とされた者があったことで、裁判手続きの中で頑張れば無罪の可能性もあるとして、東京裁判の被告の中に少しほっとした空気が生まれた。

 10月2日の木戸の日記には次の記載がある。

1946年10月2日(水)晴
 今朝ニュルンベルグの判決の報が入った。判決の理由は判らないが、無罪も3人あり、中々味のある判決の様に思われる。

 ニュルンベルグ栽判は前年の11月20日に始まっていたので、10カ月余りで判決に至ったことになる。
ところが、東京裁判は1946年5月3日に始まってからそろそろ半年になるが、こちらはまだ検察の立証が続いており、この時点での見通しでは検察立証は翌年にずれ込む可能性が高いとみられていた。その後に弁護側の反論と立証が始まるが、時間も人手も物資も極端に不足している中で、弁護人の多くは準備の遅れを嘆いていた。実際に、いつ弁護側の反証を始められるか見通しが立たない状態だった。そのため、その時点での見通しでは、東京栽判は今後順調に進んでも、裁判開始から判決までに2年はかかるだろうと見込まれていた。
このような状況を知り、マッカーサーアメリカ人弁護人が裁判の進行を妨害しているとして怒りをあらわにし、栽判の促進と早期終了を求める強い指示をキーナン主席検事とウエッブ裁判長に与えた。裁判長はニュルンベルグ栽判への対抗心もあって、栽判のスピードアップに一層熱心になった。

  検察の次の標的は太平洋戦争である。ローガンにとって、それは二重の重い責任を課すものだった。一つは、言うまでもなく、太平洋戦争が木戸が厳しく責任を追及さている出来事であることであり、もう一つは、弁護団の打ち合わせでローガンが太平洋戦争について総括的な弁論を行うことになっていたからだった。

 

     -次に投稿予定の「 敵国から来た弁護人(5)」に続く-