敵国から来た弁護人(7)

 東京裁判で元内大臣木戸幸一の弁護を担当したローガンの苦闘する姿を描いたドキュメンタリー物語

  

これまでのあらすじ

検察側の立証が終わり、弁護側の反攻が始まった。まず全被告共通事項に関する弁護人の総括的冒頭陳述が行われ、ローガンが「自衛戦争論」を披歴した。続く個人反証では、木戸は全被告最長の「宣誓口述書」を提出し、「私の生涯は軍国主義との闘に捧げられた」と主張した。これに対して、多くの軍人被告の弁護人やキーナン主席検事から鋭い反対尋問があった。 

 

3.7 しぶとかった証人席の元外相東郷被告
 木戸の個人反証に続いて数人の被告の証言があったあと、東郷被告が証人席に着いた。

   東郷は太平洋戦争開戦時の東条内閣において外相の地位にあった。彼は真珠湾攻撃開始前に宣戦布告を行うことを怠ったことや、開戦直前に来たルーズベルト大統領の天皇宛親書への対応のまずさなどを検察側から厳しく追及されていた。

 それらは外務省の所轄事項であったから、外務省は東郷の支援態勢を組んでこの裁判に臨んでいた。たとえば、東郷には辣腕として知られるブレィクニ―が当初のヤングに代わって弁護人としてついていた。外務省の出先機関である駐米日本大使館の顧問弁護士をしているヤマオカも東郷の弁護に協力していた。これらの強力チームの支援を受けて、証人席に座った東郷はどこまでもしぶとかった。

 ブレィクニ―が東郷の宣誓口述書を朗読した。その中で、開戦前に宣戦布告をしなかったという検察の主張について、東郷の口述書は次のように述べていた。

 国際法のもとでは、自衛のための戦争には宣戦布告は必要とされていない。日本は世界の列強国の包囲網に囲まれて自存・自衛のために立ち上がったのだから、戦線布告は不必要だったが、日本の誠意を示すために通告をした。通告が開戦後になったのは、ワシントンの駐米日本大使館における翻訳などの事務上の手続きに予想以上の時間がかかったためである。東京の外務省からは十分な時間的余裕をもって駐米大使館に通告文を発信している。また、日本の通告は開戦の意思を明示していなかったが、当時の日米交渉の経緯から見て戦争に突入する意図は十分理解できたはずであり、実質的に宣戦布告に相当し、国際法に適合している。それらの点について、国際法の専門家から同様の見解を得ている。なお、イギリスとオランダに通告をしなかったのは、それまでの交渉を専らアメリカと行っており、アメリカからイギリスとオランダに交渉状況は伝えられていたと理解していたので、不要と考えた。

 ところが実際には、通告が遅れた真の原因はワシントンの駐米日本大使館での事務の遅れではなく、日本国内にあった。真珠湾の奇襲攻撃計画の成功を最優先にする日本海軍が奇襲計画の漏えいを極度に怖れて、アメリカへの通告を攻撃開始後に行うことを強く求め、外務省がその要求に屈して駐米大使館への通告文の送付を遅らせたためにアメリカ側への通告が遅れたのだった。しかし、東郷は遅れの原因を駐米大使館の事務上のミスにして、自分の責任と外務省本省の責任を逃れようとしたのだった。卑劣な虚偽証言だったが、東郷はそれを押し通した。

 開戦前夜に到着したルーズベルト大統領から天皇宛の親書への対応ついては、東郷は口述書で次のように述べている。

 親書が来たことを私が最初に知ったのは、12月8日の午前零時半にグルー大使が親書を持参して私を訪問したときである。来訪したグルー大使から、天皇宛の大統領のメッセージを直接天皇に謁見して手渡したいという申出があったが、私はそれには宮内省を通して手配する必要があり、深夜なのでいつ手配できるかは言えないと答えたところ、大使は私にメッセージのコピーを渡して15分後に立ち去った。
 私は直ちにそれを翻訳するように命じ、松平宮内大臣に電話し状況を説明したうえでどのようにすべきかを尋ねた。松平氏は政治的事項なので内大臣に連絡するように示唆した。そこで木戸内大臣に電話したところ、彼は東条首相と相談することを示唆したうえで、深夜でも天皇は私の謁見を受け入れるであろうと言った。
 親書の翻訳が午前1時50分に出来上がったので、東条首相を訪問したが、東条氏はこのような内容のメッセージは何の役にも立たないと言った。
 私は自宅に帰って謁見用に着替えたうえで、2時30分に出発し、2時40分に皇居に到着した。宮中の控室で木戸内大臣に会い、謁見までの3,4分間、親書の内容を木戸に話した。
謁見は3時から3時15分までの15分間であったが、私は陛下に報告し、陛下のご返事をお聞きして退去して3時30分ごろ帰宅した。
 翌朝7時30分、グルー大使が来訪した。私は大統領のメッセージに対する陛下の返事を伝えるとともに、ワシントン大使館から米国国務省に手渡した最後通告のコピーを参考までに大使に渡した。
 その時戦争がすでに始まっていたが、大使は大統領のメッセージを自ら公式に天皇に手渡すことを要求しなかった。また、大使は戦争が始まったことについて何も話さなかったし、私も話をしなかった。 

 東郷の口述書は、東郷と外務省にとって不都合な事実を巧妙に覆い隠していた。口述書によれば、東郷が天皇に拝謁した時間は15分間であったが、その間に、東条が天皇に大統領の親書の中身をどのように説明し、それに対して天皇が東郷にどのような意見を述べ、大統領に対する返事についてどのような指示をしたか、そのあとグルーに対して天皇の返事をどのように説明したかなどは一切述べられていなかった。また、東郷が木戸に対して大統領親書の内容をどこまで説明したかも曖昧だった。

 ブレィクニ―による東郷の口述書の朗読が終わると、ローガンが反対尋問に立ち上がった。大統領親書の内容を東郷が木戸に説明したかどうかに関して木戸の証言と食い違いがあることから、その点についてローガンは東郷に一連の質問をした。もしも大統領親書が天皇に戦争回避の努力を求めていることを木戸が東郷から聞いていたなら、木戸は直ちに天皇に対して適切な進言をすべきだったにもかかわらず、それを怠ったことになり、木戸の重大な失態とされる怖れがあったからだ。だが、東郷の答えはどこまでも曖昧だった。なぜかこの日のローガンの東郷に対する反対尋問は、いつもの鋭さと粘りを欠き、肝心の点については東郷に逃げられてしまった。

 ローガンに続いて、キーナン主席検事がここでも反対尋問に立った。彼もルーズベルト大統領の親書の内容を東郷が天皇に謁見する前に木戸にどこまで話をしたかをしつこく尋ねた。しかし、その点に関するキーナンの質問と東郷の答えは噛み合わず、事実が明確にならないまま、キーナンの質問は次に進んだ。

 Q「あなたは大統領の親書を天皇に見せましたか」

 A「グルー大使から親電をタイプし直したものを受け取り、それを翻訳し、翻訳文を天皇に見せました」

 Q「それについてあなたは天皇との間でどのようなことが話し合われましたか。あなたが言ったことと、天皇が話されたことを述べてください」

 ここでも東郷の返事は曖昧で、キーナンの質問に直接答えることを巧みに避けた。そこで、キーナンは外務省が当時作成した2つの手書きの文書を証拠として提出して東郷を追及した。東郷はそれらの文書がその当時外務省の内部で作成されたものであることを認め、12月7日及び8日の日本国内の動きをほぼ正確に記述していると認めた。

 それらの文書によれば、東郷が大統領親書のコピーとその要訳を持って7日の未明に急ぎ総理官邸に行き、東条首相以下と対応を協議して腹案を大体決定し、午前2時半皇居に参内した。東郷は天皇に「委曲(詳細)を説明して午前3時半過ぎに帰宅したとされている。また、大統領親書に対する天皇の「思召」を、翌朝東郷からグルー大使に口頭で伝達したと記載されていた。しかし、天皇に対する「委曲」の説明の内容も、天皇の「思召」の内容も記載されていなかった。

 キーナンの追及もここまでで終わっており、大統領親書の中身がどこまで天皇に伝わり、天皇がそれに対してどのような意見を述べたかは、結局、裁判で明らかにされることはなかった。

 清瀬弁護人(東条被告担当)が、東京裁判終結後に書いた「秘碌東京裁判」(中公文庫)において、この大統領親書について、「内閣や軍部は、この時すでに作戦の準備を十分に整えている。今となっては気勢をそぎ作戦の準備を狂わせる恐れがあるので、極力これを陛下に捧呈することを避けんとした」と書いている。これが真相であろう。

 東京裁判終結から何年も経過し、日米両国において当時の公文書が順次公開されるにつれて、東京裁判で解明されなかった重要な新たな事実が明らかになっている。それらの中には宣戦布告や大統領親書に関する驚くべき事実があるが、本稿の範囲を超えるので、ここではこれ以上深入りしないこととする。

 

3.8 注目を浴びた元首相東条被告の証言
 12月26日、東郷被告の証言が終わり、入れ替わって東条被告が証人席に着いた。大物の登場で法廷の傍聴席は満員になった。日本を破滅に陥れた張本人が何をしゃべるかに人々の関心が集まった。

   東条を担当する清瀬弁護人が東条と毎日のように会ってまとめた東条の宣誓口述書をブルーエット弁護人が三日間で朗読した。木戸のそれに次ぐ長さだった。

 東条の口述書は、彼が第2次近衛内閣の陸軍大臣に就任した1940年7月22日から内閣総理大臣を辞任した1944年7月8日までの4年間の日本の政治、外交、軍事の動きと彼自身の行動と考えを述べていた。その中で、彼が内閣総理大臣に就任した時の様子について次のように述べている。

1941年10月17日、至急宮中に参内するよう指示を受け、同日の午後4時ごろ宮中に出向いたところ、天皇より後継内閣の組閣を命じられた。これはまったく予想外のことであったため、しばらく時間を頂戴して退席した。自分は東久邇宮稔彦王がふさわしいと思っており、近衛や木戸にもその考えを伝えていた。

 ルーズベルト大統領から天皇宛の親書については、東条は1941年12月8日未明の午前1時ごろ突然東郷外相から電話があり、アメリカのグルー大使が大統領親書を持参して来訪したが、そこにはアメリカの譲歩が書かれていないとのことだったので、今さらどうしようもないと東郷に伝えたと述べている。また、この件について自分が聞いたのはこの時が最初で、それ以前に知っていたという検察側の主張はまったく事実に反すると反論している。

 東条の口述書の最後は、東条らしい次の言葉で終わっていた。

 我々は国家の運命を賭した。しかして敗れた。しかして眼前に見るがごとき事態を惹起したのである。
 戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何の問題とは、明白に分別のできる2つの異なった問題である。
 第1の問題は外国との問題であり、かつ法律的性質の問題である。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張する。私は未だかつて我国が戦争をしたことをもって国際犯罪なりとして、勝者より訴追せられ、敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的な国際法上の犯人なり、また条約違反者なりとして糾弾せられるとは考えたこともない。
 第2の問題、すなわち敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任である。この意味における責任は、私はこれを受諾するのみならず、衷心より進んでこれを負うことを希望するものである。 

 このあと、他の数人の弁護人による補足質問があり、続いてローガンが反対尋問に立った。ローガンは東条が首相に就任したときの状況や、そのときに東条に述べた天皇の考えなどについて質問したあと、次の質問をした。

 Q「木戸内大臣天皇の希望や意向に反する行動をしたり助言をしたことを知っていますか」

 A「私が知っている限り、そのようなことはありません。さらに言えば、天皇の御意思に反することをする日本人、特に日本政府や日本の高級官吏はいません」

 東条のこの返事の後半部分はローガンの質問の範囲を超えていたが、日本人の一般的心情を補足的に述べたものと思われた。だが、キーナンをはじめとする検事団は東条のこの発言に慌てた。もし東条が言ったとおりだとすると、日本が遂行した戦争はすべて天皇の意思に沿ったものということになり、収まりかけていた天皇の戦争責任論に再び勢いをつけかねないと思ったのであろう。早速キーナンは「東条工作」に乗り出し、この発言を打ち消す証言をしてもらうように密かに仲介者を介して東条に働きかけた。それに対して東条から、天皇のためになるならキーナンの要請に応ずる用意があるとの回答があった。

 東条に対する他の弁護人の尋問が終わると、キーナンが反対尋問に立った。キーナンの狙いは、東条の口から、天皇には戦争責任がないことをはっきり言わせ、それによってくすぶり続ける天皇の責任問題にけりをつけることだった。キーナンは慎重に言葉を選び、回りくどう言い方で東条に尋ねた。

 Q「さて、1941年すなわち昭和16年12月当時において、戦争を遂行するという問題に関して、日本天皇の立場及びあなた自身の立場の問題、この2人の立場の関係の問題について、あなたはすでに法廷に対して、日本天皇は平和を愛する人であるということを、前もってあなた方に知らしめてあったと言いました。これは正しいですか」

 A「もちろん正しいです」

 Q「そうしてまたさらに2、3日前にあなたは、日本国民たる者は何人たりとも、天皇の命令に従わないと言うことを考える者はいないということを言いましたが、それも正しいですか」

 A「それは私の国民としての感情を申し上げておったのです。責任問題とは別の問題」

 Q「しかし、あなたは実際米国、英国及びオランダに対して戦争をしたのではありませんか」

 A「私の内閣において戦争を決意しました」

 Q「その戦争を行わなければならないというのは・・・行えというのは、裕仁天皇の意思でありましたか」

 A「意思と反しましたか知れませんが、とにかく私の進言・・・統帥部その他責任者の進言によってしぶしぶ御同意になったというのが事実でしょう。しかし平和の御愛好の御精神は、最後の一瞬に至るまで陛下はご希望をもっておられました。なお戦争になってからにおいてもしかりです。その御意思の明確になっておりますのは、昭和16年12月8日の御詔勅の中に、明確にその文句が付加えられております。しかもそれは陛下の御希望によって、政府の責任おいて入れた言葉です。それはまことにやむを得ざりしものなり、朕の意思にあらざるなりというふうな御意味の御言葉があります」

 この東条の返事を聞いてキーナンはほっとした。これで天皇の不起訴を押し切ることができるだろう。そしてきっとマッカーサーもこれで安心するだろうと思った。

 このあと梅津被告の個人反証があって、弁護側の立証はこれで一応終了した。この間、弁護側から提出要請がなされた証拠の多くが検察側の反対により若しくは裁判長の裁量で却下された。弁護側に厳しい裁判長の法廷指揮が目立った。

 

第4章 最終論告と最終弁論

 

4.1 木戸に厳しかった検察の最終論告
   弁護側のすべての反証が終了したあと、検察と弁護の双方に補足的な証拠の提出とそれに対する相互の反論(リバッタル)の機会が与えられた。それをもって双方の立証活動は完全に打ち切られた。その間に法廷に登場した証人は419人、提出された口述書を含む書証は5万通近くにのぼった。

 これらのすべての立証活動によって検察と弁護の双方から提出された証拠に基づいて、検察が被告の責任について最終的な意見(論告)を述べるときが来た。論告は最初に総括的な意見陳述がなされ、そのあとで被告ごとの責任に関する論告が行われた。

 総括的論告は最初にキーナン主席検事が行い、イギリス代表検事のコミンズ・カーがそれを引き継ぎ、さらに各国代表検事が入れ替わり立ち替わり行った。

 キーナンの論告は、当裁判所は歴史上最大の出来事を慎重かつ徹底的に審理してきたと前置きしたうえで、皮肉たっぷりに次の言葉で始まった。

これまでの審理において、元首相、元閣僚、元高級外交官、元将軍、元内大臣天皇の助言者)らの被告全員が自身の行為について一切責任をとる意思がないと表明し、彼らは揃って戦争を欲していなかったと主張している。

   そして最後に、「被告たちは人類の知る最も重い刑に値する」と述べて、キーナンの論告は終わった。

 その後、被告ごとの論告に進み、木戸に対する論告は、2月24日から25日にかけて、コミンズ・カー検事によって行われた。これまで木戸に対してはいつもキーナンが自ら対応していたが、この時点で鬼検事として知られるコミンズ・カーが登場したことに、ローガンは警戒を強めた。

 案の定、コミンズ・カーの論告は辛辣で容赦なかった。彼は冒頭で、木戸に対する起訴事実は、文部大臣として入閣した1937年年10月22日から内務大臣に就任した1939年8月30日までの第一の期間と、1940年6月の内大臣就任後から終戦までの第2の期間に分けられるとした。これは木戸に対する起訴が彼独自の犯罪行為によるのではなく、「共同謀議」に加わったことに基づいているため、彼が謀議に加わる立場にあったのはこれらの2つの期間に限られていたからと考えられる。

 そのうえで、コミンズ・カーは木戸の宣誓口述書について次のように述べて証拠にすべきでないと主張した。木戸の宣誓口述書は木戸日記から多くの引用がなされているが、元になっている木戸日記そのものは日々書きとめられたものであるから当時の事実を概ね正しく記載したものであることを疑うべき理由はないとしたうえで、日記から口述書への引用の仕方は不正確であり、引用の過程で多くの事実が曲げられており、木戸日記と口述書はまったく別物であると指摘した。そして裁判所は日記を優先し、口述書を無視すべきだと主張し、ローガンと木戸たちが心血を注いで書きあげた口述書をばっさり切り捨てた。

 続いて、コミンズ・カーは木戸の天皇に対する姿勢を批判して、木戸は常に天皇に忠誠を尽くしたと言っているが、実際には、内心秘かに侮蔑の目をもって天皇を見ていたと厳しく指摘した。また、木戸は「天皇に対する内大臣の輔弼は天皇から求められた時にのみ必要となる」と繰り返し、内大臣としての自己の役割を小さく見せかけているが、木戸日記では自ら進んで意見を奏上したことを何度も書いている。東条被告も「天皇に対する内大臣の常時輔弼の責務は、必要な場合は求められなくとも進言する責務を含んでいる」と証言していることを挙げ、木戸の主張は責任逃れの言い訳に過ぎないと指摘している。

 木戸が閣僚であった前記第1の期間における木戸の責任については、南京大虐殺について、木戸は終戦後に初めて耳にしたと主張しているが、反対尋問で木戸はまったく誤魔化しに終始していたとし、コミンズ・カーはさまざまな証拠を引用して木戸の主張が虚偽であると決めつけた。 文部大臣就任中、木戸はその地位を利用して軍国主義や侵略的国家主義を推進したことは明らかであり、木戸はこれを覆す証拠を提出していないとも主張している。

 内大臣就任後の第2の期間の木戸の責任については、木戸は口述書で三国同盟に反対したと言っているが、コミンズ・カーは木戸の主張はまったく根拠がないと一蹴している。また、木戸は内大臣には外交上の問題について天皇の御下問を首相及び外相に伝えること以外に、何らの権限もないと主張しているが、木戸日記には度々外交問題についても天皇に意見を具申したと書いており、彼の言動に矛盾があると指摘している。

 次に、1941年10月に第三次近衛内閣の総辞職に伴う後任首相として木戸が東条英機天皇に推挙したことについて、木戸は東条が開戦を迫る陸軍を抑えることができる人物であることを理由に挙げているが、コミンズ・カーは木戸日記にそのような彼の考えを述べた記述がないことに加えて、天皇に対して東条がそのような人物であると助言をした形跡もなく、後付けの弁解にすぎないとしている。

 開戦直前に到着した天皇宛のルーズベルト大統領の親書について、コミンズ・カーは東郷が木戸に親書の内容を説明したかどうかは両者の証言が食い違っているが、木戸の秘書官長であった松平がその日(12月8日)の朝木戸からその内容を聞いたと証言していること、木戸側がその松平を証人喚問していないことなどから、8日未明に皇居に参内したとき木戸が親書の主旨を知らなかったことはあり得ないと断定している。

 また、真珠湾攻撃が行われたことを木戸が最初に知った時期について、木戸は事前にその計画を知っておらず、攻撃が行われた後の12月8日の午前6時ごろ部下から連絡があって初めて知ったと主張しているが、コミンズ・カーはそれは多くの証拠に反し、虚偽であるとしている。

 さらに、太平洋戦争開戦後、木戸は和平に向けて尽力したと言っているが、それも事実に反するとして、東条首相辞任に伴う後継首相の選任の際に「戦争の完遂」のために軍人を選ぶことを主張したことなどを挙げている。

 最後に、コミンズ・カーは、木戸が訴追されている訴因のうち、支那事変の開始は木戸が共同謀議に参加する以前であったので、訴因第19(支那事変の開始)を木戸に対しては放棄すると表明したが、その他の訴因については起訴状記載の事実が証拠によって証明されているので、木戸は有罪であると総括した。

 木戸に対する検事側の論告は、ローガンの予想を超えて木戸に厳しいものだった。厳格な仕事ぶりで知られるコミンズ・カーは木戸の口述書の内容と木戸日記や他の証拠とを細かく照らし合わせて、口述書が木戸日記と矛盾している個所を数多く指摘し、口述書の信憑性に重大な疑問を提起した。

 ローガンは容易ならざる事態に追い込まれたことを率直に認めざるを得なかった。挽回は容易ではないが、このあとのローガン自身の最終弁論によって態勢を立て直さなければならないことは明らかだった。

 

4.2 日本人を感動させたローガンの総括最終弁論
   検察側の最終論告が終わったあと、日本人弁護団長の鵜沢が弁護団を代表して総括的な最終弁論を行った。その冒頭で、鵜沢がアメリカ人弁護人について次のように述べたことが注目された。

我々日本人弁護人に対して、学識高いアメリカ弁護人各位のまことに尊い援助を得る機会を授けられたことは、感銘に堪えざる次第である。(中略)これらの方々のご援助がなければ、先例なきこの裁判は完璧を期し難いものがあったと信ずるからである。 

  当初、アメリカ人弁護人は日本人弁護人を補佐する脇役的役割を期待されて招聘されたのであったが、裁判が進むにつれて脇役の立場をはるかに超えて実質的に主任弁護人としての活動を担うまでに至ったことは、法廷関係者の多くが認めることだった。日本人弁護団の団長の鵜沢がその事実を率直に認めて、最終弁論の機会に、アメリカ人弁護人に謝意を表明したことは法廷にいた人々に快く受け入れられた。

 続いて高柳、ローガン、ヤマオカ、ブレィクニ―、カニンガムなどがそれぞれ全被告共通事項に関する総括的最終弁論を行った。

 これらの中で、1948年3月10日に行われたローガンの最終弁論はひときわ注目を集めた。それは弁護人側反証の冒頭で彼自身が論じた「自衛戦争論」をその後に提出された証拠を踏まえて再構築したものだった。ローガンは冒頭部分を「日本は挑発されて自衛のために決起した」と題し、太平洋戦争がアメリカを含む欧米列強諸国の対日経済封鎖により挑発され存立の危険に追い込まれた日本がやむなく自衛のために決起したものだと述べ、そのような自衛のための行為は「1928年パリ不戦条約」(「ケロッグ・ブリアン条約」とも呼ばれている)に照らして「侵略戦争」に当たらないと主張し、その根拠として、次のことを指摘している。

① 上記条約の共同草案者であり当時アメリカの国務長官であったケロッグ自身が経済封鎖は戦争行為に等しいと述べていること。
② 地球上の誰も「侵略」や「自衛」を定義することができないこと。
③ 他国によって経済封鎖を受けた国は自国の主権に基づいて自衛のための対抗措置を行うことができること。

 この部分は、検察側が「平和に対する罪」の処罰を求めることが事後法に基づく制裁ではない根拠として1928年不戦条約を挙げていることに対するローガンの反論であった。

 次いでローガンは、「日本経済は戦争を目的として計画し発展したものでない」と題する章で、「日本は欧米列強が支配していた地域を奪うために列強に対して侵略戦争を仕掛けたのでしょうか、それとも日本は自国の存立に脅威を与える列強の侵害から身を守るために国際上承認せられた自衛権を行使したのでしょうか?」と自問自答する形で弁論を進め、日本は資源の乏しい小さな島国に多くの人口を有し、国民はつつましく平和に暮らしてきたと述べた。産業の振興は民生目的で行われ、自衛の範囲を超えて戦争遂行の目的で行われたことはないとし、産業分野ごとに具体的数字を挙げるなどしてその実態を詳しく説明した。

 続く「日本に対する経済封鎖」と題する章で、連合国の対日経済封鎖は1938年の航空機及び同部品に始まり、その後対象製品は順次拡大していった。日本の強い抗議にかかわらず、1940年代にはアメリカによって数多くの追加的措置がとられて日本に対する経済的圧力が一層強化された。検察側はこの間の連合国の経済封鎖は軍用品に限られていたと主張しているが、実際には食料品やその他多くの民生品に及んでいたとし、その結果、貿易依存度の高い日本は産業のみならず市民生活も苦しめられたことを具体的数字を挙げて詳細に説明している。そして1941年7月25日、アメリカは在米日本資産と資金を凍結する措置をとり、それには石油の全面禁輸は対日開戦に至る危険が大であるとして外されてはいたが、この措置が日本に戦争突入の決心をさせた一つの大きな要因になったと述べている。

 さらにローガンは、日本は自国に対する経済封鎖が戦争行為に当たると決定する権利を持っていたが、ぎりぎりまでその権利を行使しないで、日本特有の忍耐力をもって争いを平和的に解決しようと忍耐強く交渉したことは、永遠に日本の誇りとするに足るものであると賞賛している。

 さらに「日本に対する軍事行動」の題のもとに、連合国が経済封鎖に加えて対日戦争計画を作成して開戦の準備を早くから進め、軍事的にも日本を激しく挑発し、大きな脅威を与えたと述べている。

 最後に、ローガンの最終弁論は次の言葉で締めくくられていた。  

彼ら(被告たち)の決定は祖国にとって生きるか死ぬかの決定でした。そして、彼らは祖国を愛していました。彼らは愛する諸国のためにその決定をしなければならない地位にありました。我々は裁判をされる方に、彼らの立場になって考えることをお願います。その立場に立ったら、愛国者として他の決定をすることが出来なかったことがきっとわかるでしょう。決定をすべき立場にあった者が、公正な信念とそれを裏付ける十分な理由があって行った決定が犯罪にあたると言えるでしょうか。若しその決定が犯罪的意図からではなく、祖国を守るために絶対必要であるという強い信念と愛国心の動機からなされたものであれば、我々はそれを犯罪として法廷で裁くことが許されるでしょうか。

 ローガンの弁論は被告席に座る者たちの気持ちを誰よりも見事に代弁しているように思われた。木戸はこの日の日記に次のように書いている。

1948年3月10日(木)晴曇
 法廷ではカニングハム氏の弁論が開廷間もなく終わると、続いてローガン氏が経済封鎖について弁論をなした。非常によく出来て居り、日本が止むに止まれず追い込まれて戦争を為すに至りたる事情を詳細に述べ、被告等は愛国者であると結論した。米人であってよくあれまで言ってくれたと皆感激していた。(以下略)

 皮肉なことに、東京裁判の審理終結から3年ほど経過した1951年5月、マッカーサーは解任されてアメリカに帰国して米国議会で証言を行う機会が与えられ、その際に彼は、日本は膨大な人口を抱えながら養蚕を除いて頼るべき資源を持たず、石油等の資源の供給が断たれた場合には1千万人以上の失業者が出る恐れがあったことなどから「安全保障上の必要に迫られて戦争を始めた」と証言している。この証言はローガンが東京裁判で強く主張した「自衛戦争論」と相通じるものであった。

 その後アメリカおいても、日本を戦争に追い込んだのはアメリカだったとする意見が次第に広がっており、東京裁判におけるローガンの主張は日本人向けの口先だけのリップサービスではなく、歴史の新たな見方を戦後間もないこの時期に誰よりも先んじて世界に指し示した先見的な見解であったと言えよう。しかも、裁判が行われていた当時、アメリカ国民の大多数は、太平洋戦争は世界征服の野望に駆られた日本の違法な侵略行為によって始められ、アメリカはそれを阻止するための正義の闘いであったと信じこまされていたのであり、そのような環境の中で、ローガンが母国アメリカの威信を打ち砕く勇気ある発言を公開の法廷で行ったことに法廷関係者の多くが驚いたのだった。

 

 - 次の投稿(8)に続く -