敵国から来た弁護人(9/ 完 )

 東京裁判で元内大臣木戸幸一の弁護を担当したローガンの苦闘する姿を描いたドキュメンタリー物語

 

これまでのあらすじ

1946年5月3日に始まった裁判は、2年余りに及ぶ審理を経て判決の言い渡しを待つばかりになった。ローガンはすべての審理が終わった直後に、判決を待たずに帰国することにしたが、木戸との別れは辛かった。1948年11月4日に、ようやく裁判長による判決文の朗読が始まったが、各被告に対する刑の言い渡しは最後に回されたため、被告たちはその間緊張して自分の運命を知る時を待たなければならなかった。  

 

5.4 各被告に対する刑の言い渡し
 休憩後再開した法廷で、被告たちはアルファベット順で1人ずつ法廷に呼び入れられ、個別に裁判長から刑が告げられた。

 最初の荒木貞夫に終身禁固刑が言い渡された後、木戸の直前までに9人に刑が告げられた。そのうち3人が死刑(絞首刑)、6人が終身禁固刑だった。予想以上の厳しさだった。

 さあ、次は木戸だ。彼は足早に法廷に入り、裁判官席に向かって軽く一礼した。表情は普段より少し硬いように見えた。そのとき、裁判長が木戸に告げた。

木戸幸一・・・終身禁固刑」

 木戸はその瞬間も表情を変えることなく丁重にお辞儀をして退廷した。

 さらに刑の言い渡しが続いた。木村兵太郎松井石根武藤章東条英機に絞首刑が言い渡された。

 結局、この日まで生き残った25人の被告に対して、死刑(絞首刑)が7名、終身禁固刑が16名、有期禁錮刑が2名だった。なぜか絞首刑になった7名は、外交官出身の元首相の広田を除き、全員が陸軍関係者だった。予想されたとおり、起訴された被告全員が有罪だった。無罪とされた者がいたドイツの戦争犯罪人に対するニュルンベルグ裁判の判決と比べて、厳しいものだった。

 木戸に対する判事の評決は、死刑とする者が5名、終身禁固刑又は無罪とする者が6名というきわどさだったと伝えられている。木戸はわずかな差で死刑を免れたことになる。

 この日の木戸の日記には次のように書かれている。  

1948年11月12日(土)晴曇り
 とうとう最後の判決の日が来た。例の如く午前8時過ぎ出発、市ヶ谷法廷に赴く。開廷前孝彦と面談す。9時半開廷。栽判長により俘虜関係の判決文が朗読されたる後、午前11時より午後1時半まで休廷。此の間判事は最後の会議をなすとのことであった。1時半開廷。栽判長より訴因に関する判決が読まれ、3時半休憩、約15分の後、被告は1人宛法廷に呼び出されて刑の宣告を受けた。A・B・C順だ。余は終身禁固を言渡された。死刑の宣告を受けたるは土肥原、広田、板垣、木村、松井、武藤、東条の7人だった。東郷の20年、重光の7年を除き、後は全部終身刑だった。訴因第1の共同謀議を特に重視して居ることが判る。暫く控室に居り、ケンウォージー中佐の好意でコーヒーの御馳走になり、巣鴨に帰ったのは7時15分だった。今度は第3号棟の独房に2人宛入ることとなり、余、畑勲と同室第29号室に入った。総ての戦は終わったというような気持で朗らかな気持ちだった。

 いつもの木戸らしい感情を抑えた日記だ。その後の12月7日の日記には、ローガンから判決について手紙が来たことを次のように記している。

1948年12月7日(火)晴
 11月29日付鶴子よりの手紙を受取る。ローガン氏よりの手紙が同封されてあった。11月15日付で判決について遺憾の意を述べられた誠に丁重な手紙だ。

 ローガンがこの手紙の中でどのように「遺憾の意」を述べているかは、残念だが、今では知ることができない。

 

 5.5 多数判決と少数意見
 法廷で朗読された裁判所の公式判決は、イギリス代表(パトリック)、アメリカ(ヒギンス)、カナダ(マクドゥガル)、ニュージーランド(ノ―スクロフト)、ソ連(ザリヤノフ)、中国(梅汝璈)、フィリピン(ハラニーリャ)の7人の多数派判事によるものだった。

 法廷で朗読されなかった4人の判事の少数意見は、その後弁護団に配布された。これらの少数派判事の意見のうち最も注目されたのはインド代表パル判事の反対意見であった。先に述べたように、パルは遅れて来日したにもかかわらず、来日直後から被告全員を無罪とすべきだと主張し、早くからその考えに基づく独自の判決文を1人で書き始め、最終的に彼の意見書は多数派判事による裁判所の公式判決よりも長文になった。その骨子は、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」を定めた裁判所憲章は事後法であり、被告を処罰する根拠になりえないという。「通例の戦争犯罪」についても、残虐行為があったことは認めながらも、被告個人にその責任を負わせることはできないとして、全員を無罪にすべきだとしている。そして、パルは、多数派の判決が戦いの勝者が敗者の首謀を殺害するのは当然だとする古くからの考えから抜けられないでいると批判し、人類はまだ処罰の対象になる「侵略戦争」(悪い戦争)を的確に定義するだけの英知を持つに至っていないと断じて、自身が加わって行った裁判そのものを全否定している。

 全員無罪とすべきとした判事がもう一人いた。フランス代表のベルナールだ。彼は独自の自然法理論に基づき侵略戦争は既存の国際法が存在しなくても裁くことができるとの立場に立ちながらも、有罪とすべき十分な証拠がないとしている。また、天皇の戦争責任を問わない栽判はそれだけで欠陥であり、天皇免訴された以上、被告たちの責任を問うことはできないとしている。

 オランダのレ―リンク判事は、先に述べたように、当初は多数派の意見に同調していたが、次第にインド代表のパル判事の意見の影響を受けるなど、裁判の過程で考えが大きく揺れた。最終的に「平和に対する罪」の効力を認めたが、この「裁判所の管轄は太平洋戦争に限るべきである」と述べている。さらに注目すべきは、木戸被告を無罪としている点である。その根拠は、天皇の実際上の権力は大幅に制限されていたとし、天皇の助言者である内大臣の職責も限られており、木戸に対して「平和に対する罪」を認定する十分な証拠がなく、他の容疑についても証拠が不十分だと述べている。これは大枠においてローガンの主張に沿うものと考えられる。なお、レ―リンクは木戸以外に、広田、重光、東郷及び畑も無罪だとしている。

 ウエッブ栽判長も、結論において多数派の意見に同調しながらも、別途の意見を述べている。その1つは、天皇に責任があったとし、天皇を訴追しなかったことを被告たちの減刑の理由にすべきだと指摘している。興味深いのは、「平和に対する罪」による処罰を有効としながら、その罪だけで死刑を宣告することは不適当だとしていることである。ニュルンベルグ判決でそのような見解が述べられていたことから、その点でもその先例に従うべきだというのだろう。さらに、「平和に対する罪」を犯した者には、瞬時に命を奪う死刑より、終身刑とし日本国外に島流しする方が良いだろうというユニークな見解を述べている。

 フィリピンのハラニーリャ判事は、多数意見に加わっているものの、刑が寛大すぎ、もっと厳しいものにすべきだという。

 国際政治の荒波に揉みくちゃになりながら、判事団は多数決によって辛うじて一つの公式判決をまとめて面目を保った。判事全員が日本と戦った国の代表者で構成されていたにもかかわらず、彼らは決して一枚岩ではなかったのだ。世間では多数派の公式判決だけが大きく取り上げられているが、そこに至る過程で判事団内部において多数派工作を巡る熾烈な争いが繰り広げられ、きわどい評決で決着した事実を、我々は見落としてはならない。

 

5.6 米国最高裁への訴願
 東京裁判の判決が出たあとも、ローガンをはじめとする何人かのアメリカ人弁護人はまだ諦めていなかった。彼らはアメリカの連邦最高裁判所に対して東京裁判判決の無効宣言を求める訴願を提出することを被告たちに提案し、「やれることはすべてやるべきだ」という考えで説得を続けた。死刑判決を受けた広田と土肥原の2人がそれに同意したので、その2人を代理して、10月2日、アメリカに帰国していたローガンとスミスの2人の弁護人が米国連邦最高裁判所に申立てを行った。木戸、岡、島田、佐藤、東郷もそれに参加した。

 訴願の論拠は、マッカーサーが米国議会の承認なしに東京裁判を行ったことは米国憲法に違反して無効であるというものだった。受理される確率は極めて低いとの多くの予想に反して、米国最高裁判所は7日9人の判事の5対4の評決で訴願を受理する決定をした。米国最高裁判所が訴願を受理することを決定したとのニュースは、日本だけでなく世界の人々を驚かした。世界の国々からは、11の連合国による国際裁判の判決がアメリカの国内の裁判所によって再審査されることに批判の声があがった。日本国内では、訴願の成り行きを見守るため、死刑の宣告を受けた被告たちに対する刑の執行が延期された。

 訴願を受理した米国最高裁判所は、12月16日、ローガン出席のもとで意見の聴聞を開始した。そのことは日本でも新聞報道され、行方が注目されたが、20日に米国最高裁判所は訴願を却下した。却下の理由は「本件判決を下した裁判所は連合国の代表者であるマッカーサーにより設立されたもので、アメリカのいかなる裁判所もその判決を無効とする権限を有しない」というものであった。

 その結果、東京裁判の判決は最終的に確定した。延期されていた死刑宣告を受けた7人に対する処刑が12月23日午前零時1分から順次執行された。

 

 

第6章 判決後の出来事など

 

6.1 天皇退位を巡る動き
 東京裁判の判決で、天皇の側近であった内大臣が有罪とされたことに加えて、裁判所の少数意見の中に天皇が起訴されなかったことに対する批判が強く述べられていたことに、天皇は大きな衝撃を受け、退位の意思を表明するかもしれないとの噂が一時広がった。万一天皇が退位すれば、日本国民の動揺ははかり知れず、マッカーサーが進めている占領政策にも支障が生ずることを危惧したマッカーサーが働きかけ、それを受けて、天皇は退位の意思を否定するメッセージをマッカーサーに提出した。それによってこの騒ぎは収まったが、木戸にとって心が痛むできごとだった。

 最近の新聞報道によれば、昭和天皇はその後も晩年に至るまで「天皇の戦争責任問題」に悩み続け、苦しい胸のうちを周囲の者に漏らしていたと報じられている(朝日新聞2018年8月24日付朝刊)。

 

6.2 後続裁判の取り止め
 東京裁判の審理が終結した時点で、日本にはまだ拘束中の多数の戦争犯罪容疑者が残っていた。その中には、「平和に対する罪」の容疑者(いわゆるA級戦犯容疑者)も含まれていた。そして、それらの者に対しては、東京裁判に続いて同様の裁判(第2次東京裁判)が行われることが予定されていた。

 しかし、東京裁判が当初の予想を大きく超える長期裁判になり、その方式による国際裁判の実施が関係国にとって大きな負担になったため、継続裁判の実施について疑問が提起されるにいたった。この背景に、東京裁判に参加したアメリカ人弁護士の激しい抵抗によって裁判の進行が当初の予想を超えて著しく遅れたことがあった。

 結局、1部の容疑者を除き、拘束されていた未決の容疑者は釈放され、それらの者に対する訴追は行われないことになった。東京裁判におけるアメリカ人弁護士の活動が間接的に多くの他の容疑者を救うことになったわけである。

 

6.3 木戸の仮出所
 1951年に締結され翌年に発効したサンフランシスコ講和条約により日本の主権が回復したのに伴い、既決の戦争犯罪人の管理が日本政府に移された。そして、1955年12月、木戸は仮釈放された。彼は、その後大磯で隠居暮らしを続け、1977年4月、87歳で病死するまで表立った行動や発言をすることもなく、ひっそりと過ごした。

 その間、インタビューに応じて、木戸が東京裁判について語った次の言葉が「木戸幸一日記―東京裁判期」に掲載されている。

 裁判は初めに予想されたよりも非常に長い時日を要したが、これは全く弁護人に米人がいたから出来たのだと思っている。(中略)とにかく米人弁護人は実によくやってくれた。日本人弁護人ではおそらくどうにもならなかったであろう。
 私の担当の日本人弁護人は穂積重威氏と私の次男の孝彦の2人であった。しかし穂積氏は間もなく浮き上った存在となったため、実質的弁護は殆どローガン弁護人と私の次男とでやった。ローガン弁護人の努力は大変なもので、ある時の如きは次男と逗子の私の別邸に1ヵ月以上泊まり込みで研究し、私のあの膨大な日記を殆ど覚えてしまっていた程である。

また、木戸の次男の孝彦も、東京裁判終了後に、前記「東京裁判木戸幸一」に次の1文を寄せている。  

 父に対する米国弁護人の選任は、裁判開始の1946年5月3日現在では行われておらず、弁護人は穂積重威氏1人であったが、5月25日に新たに米国より来日した弁護士の中より、穂積氏の推薦によるウィリアム・ローガン氏を父の専任米国弁護人として依頼することとした。
 同氏が極めて優秀であって多数参加した米国弁護人の中でも出色な弁護士であったばかりでなく、個人的にも父のために熱心に弁護してくれたことは、我々にとってなにものにも代えがたい幸せであった。同氏を弁護人に得たことにより、弁護方策は全て同氏を中心に行うことになったのである。(中略)
 ローガン氏はその驚くべき努力と理解力により短時日の間に複雑な日本の政情と父の立場を十分解明されたので、父の弁護の方針としても当初予定していた数多くの証人の証言を中心とすることをやめ、木戸の口述書を日記を中心として作成することとし、証人はその口述書の補強証拠として使用することにした。

 

6.4 アメリカ人弁護人たちのその後
 東京裁判弁護団に参加したアメリカ人弁護人の中には、東京裁判終了も日本に留まり、日本で活動を続けた者がいた。

 原爆を投下したアメリカ人が罪の意識もなく暮らしていながら、真珠湾攻撃をした日本人を殺人罪で裁判にかけることの不当性を鋭く突いたブレィクニ―と、重光被告を最短の有期刑で救ったファーネスは、東京裁判終結後に別の軍事裁判にかけられた豊田副武元海軍大将の弁護を共同で引き受けた。豊田は連合艦隊司令長官軍令部総長などの要職を務めた海軍の大物だったが、東京裁判の被告にならないまま第二次A級戦犯栽判の候補として継続して拘束されていた。豊田は、第二次栽判を行わないことになって他の候補者が解放される中で、彼の責任の重さを考慮して別の軍事裁判にかけらることになり、東京裁判終結後、ブレィクニ―とファーネスは豊田の弁護を引き受けた。そして、見事に無罪を獲得した。

 その後、ブレィクニ―は東京に自分の法律事務所を開設し、国際法務を中心に弁護士としての仕事を行った。そのかたわら、東京大学法学部講師に就任し、学生にアメリカ法を教えた。飛行機の操縦が趣味であったが、1963年3月仕事のため愛機を操縦中に事故に遭遇して不慮の死をとげた。

 ファーネスも日本に留まり、東京に法律事務所を開設した。強靭な精神を飄々とした風貌で覆い隠したこの男は、日本で弁護士として活躍する一方、俳優としても活躍し、「私は貝になりたい」、「海の野郎ども」、「落日燃ゆ」など、いくつもの映画やテレビドラマに出演して渋い演技を見せた。なんと、テレビドラマ「落日燃ゆ」で、彼はウエッブ裁判長を演じている。

 さて、本書の主人公のローガンはどうしたか。彼が東京裁判での自分の出番が終わったあと、判決前にアメリカに帰国したことは先に述べた。だが、もといたニューヨークの法律事務所に復帰したものの、日本への想いを断ちがたく、同僚のジョージ・ヤマオカと共に、その法律事務所のオフィスを東京に開いて日本に戻ってきた。その後、ローガンは自分の法律事務所を東京に開設し、高齢のため引退するまで東京で弁護士として執務した。

 ブレィクニ―もファーネスもローガンも、日本ではまだ弁護士がほとんど関与することがなかった国際ビジネスに係る法務に従事し、日本に国際ビジネス法務の基礎を確立するうえで大きな貢献をした。それらの仕事を通して、弁護士のあるべき姿を日本人に広く示すとともに、日本の弁護士制度、ひいては日本の司法制度の活性化に大きな影響を与えた。

 

あとがき

 私事で恐縮だが、筆者は1965年4月、東京大手町の「ローガン・バーナード・岡本法律事務所」に入所し、弁護士としてスタートした。お察しのとおり、事務所名の冒頭の「ローガン」は本稿の主人公の姓である。

 そのとき、東京裁判終結からすでに17年の歳月が過ぎ、ローガンは63歳になっていた。当時とすれば定年を超える高齢にもかかわらず、事務所の経営責任に加えて、内外の顧客から依頼された仕事の処理に日々追われていた。

 筆者の知る限り、ローガンは事務所内で自分から東京裁判のことを話すことはまったくなかった。たまに仕事が終わったあとに、事務所近くのホテルのバーなどで一緒に息抜きをしているときなどに、こちらから東京裁判のことを話題にしても、重い口を開いていくつかのエピソードを話してくれたことがあったが、多くを語らなかった。今にして思えば、天皇のために無罪獲得を目指す木戸の強い願いを託されながら、それを果たし得なかった悔しさとむなしさが、ローガンの心の中でまだ疼いていたのかもしれない。

 最後に、本稿の冒頭に述べたように、東京裁判が勝者による復讐劇であったことは言うまでもないが、もともと裁判は被害者救済を目的の一つとして行われるものであるから被害者の復讐感情は裁判に付きものであって、東京裁判が特に異例であったとは言えない。重要なことは、裁判が適切なルールに基づいて公平に行われたかである。その点で、東京裁判の仕組みに大きな構造的欠陥があったため、公平さを欠いていたことは明らかである。

 敵国から来た弁護人は、この欠陥に苦しみながらも、可能なあらゆる手段を使って勝者の巨大な権力に果敢に挑んだが、むなしく敗れた。だが彼らは、敗戦で茫然自失の日本国民に代わって「本土決戦」を引き受け、東京裁判の法廷に敗者の声を臆することなく轟かした。それによって、日本人に計り知れないほどの勇気を与え、復興への確かな道へ導いたと言えよう。   

         

           晩年のローガン

f:id:warmcold:20200909095816p:plain

                               ー 【完】 ー