敵国から来た弁護人(8)

東京裁判で元内大臣木戸幸一の弁護を担当したローガンの苦闘する姿を描いたドキュメンタリー物語

 

これまでのあらすじ

1946年5月3日に始まった裁判は、半年で終わるだろうとの当初の予想をはるかに超えてすでに2年を経過していた。検察側の立証に対する弁護側の反証の締めくくりとして、被告ごとに弁護人が最終弁論を行う時期が来た。

 

4.3 ローガン、木戸のために最終弁論

    法廷は被告ごとの最終弁論に進み、木戸のための最終弁論が1948年4月2日及び5日の2日間にわたりローガンによって行われた。これまでの審理のすべてを踏まえて、木戸の罪状について総括して意見を述べるもので、ローガンが来日以来2年余の仕事の集大成となるものであった。

 この最終弁論を仕上げるために、ローガンは木戸の次男孝彦と一緒に箱根強羅の宿に泊まり込んで作業を行った。これまでの審理で提出された木戸に対する検察側の主張と証拠のすべてを洗い直し、反論を必要とする事項を一つずつ漏れなく拾い上げることから始めた。特に力を入れたのは、木戸に対するコミンズ・カー検事の最終論告で指摘された事項への対応だった。このようにしてまとめられた最終弁論は実に295頁に達した。
その冒頭で、木戸の宣誓口述書における木戸日記からの引用の仕方が不正確だというコミンズ・カーの主張に対して、ローガンは次のように反論した。

    木戸日記は他の人々の日記と同様に、公表することを予定しておらず、短時間で書かれたものであるから、日記の内容が本人しかわからないことが多いのは当然であり、本人だけがその意味を正確に説明できる。日記を公開し、他人に理解してもらうためには、本人による説明や補足が必要になるのは当たり前のことである。さらに、木戸日記を正しく理解するにはその背景事情を含めてその時々の政治・社会情勢を踏まえて読む必要があるが、検察側の解釈は日記中の言葉尻を断片的に捉えたものが多く、日記の記事の真意を歪める結果になっている。
 また、検察は木戸日記を英語に翻訳させて利用しているが、訳文による理解には限界があり、木戸自身の説明に優ることはできない。しかも、検察の翻訳には誤りが多く、訂正すべき個所が少なくない。

 ローガンは続けた。この裁判では木戸に対する関心の多くが天皇との関係に集中しているが、当裁判所が判断すべき問題はただ一つ。木戸自身が侵略戦争の企画と遂行に加担したか否かである。木戸が内大臣として「平和に対する罪」を犯すほどの権限や影響力を持っていたかどうかだけが問われるべきだと述べ、内大臣の権限について次のように主張した。

 内大臣は政府組織内の役職ではなく、宮廷内における天皇の側役にすぎない。日本では政府と宮廷は法令上も明確に区別されており、政治上の決定権限は政府に帰属し、宮廷には権限はない。検察側は木戸を「天皇の主席秘書兼補佐官」であると主張しているが、もしもそれが国の内外の政策決定のうち天皇の裁可を要する事項について内大臣が最終的な助言をする権限と責任を有していたことを意味しているならば、それは誤りである。大日本帝国憲法第56条は「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ズ」と規定していることから明らかなように、国政について天皇を補佐する権限と責任は国務大臣にある。内大臣にはそのような権限も責任もない。 

 このあとローガンは、木戸が有罪とされた場合の減刑を求め、その裏付けとして、米内光政(元内閣総理大臣)、岡田啓介(元内閣総理大臣)、広瀬久忠(元国務大臣兼内閣書記官長)、細川護貞(元細川侯爵家当主)、石渡荘太郎(元大蔵大臣)らの口述書を提出した。この点については、無罪を主張しながら減刑を求めるのはおかしいとか、被告全員が一貫して無罪を主張して来たにもかかわらず、一人だけ減刑を求めるのは抜け駆け的で身勝手だとする批判的意見や不快感を示す被告や弁護人がいた。しかし、ローガンはあらゆる判決の可能性を考慮して万全を尽くすのは当然のことだとして揺るがなかった。

 続いて他の弁護人らの最終弁論があった後、1948年4月16日、ウエッブ裁判長は審理の終結を宣言し、判決の言い渡しを保留したうえで、その日は追って定めると述べて閉廷した。1946年5月3日に開幕した東京栽判はようやく判決を待つばかりになったが、ここまでの審理に約2年を要したことになる。

 

 4.4 ローガン帰国へ
 ローガンは、法廷の審理がすべて終わったこの時期に、判決の言い渡しを待たずに帰国することにした。判決の言い渡しはかなり先になると予想されたので、ローガンはそれを日本で待つ余裕はなかった。2年前に慌ただしくニューヨークを飛び出してからこれまでただの1度も帰国することなく、夢中で木戸の弁護に打ち込んできたが、これが限界だった。

 判決までに審理が再開される可能性がまったくないとは言えないし、判決の内容によっては何らかの法的手続きをとる必要があるかもしれなかったが、その場合には、弁護人仲間のヤマオカとブラナンがローガンの代役を引き受けてくれたので、思い切って帰国を決断したのだった。今回は木戸もローガンの帰国を快く許してくれた。

 ローガンは帰国の前に家族を呼び寄せ、日本での最後の日々を共に過ごしたうえで、全員で一緒に帰国することにした。木戸の家族はローガン一家を逗子の別邸に招き、ローガンの献身的な仕事ぶりに対して深い謝意を表した。

 帰国を前にしてローガンにとって気掛かりなのは、言うまでもなく判決の行方だった。栽判手続きが終盤にさしかかるころから穂積弁護人や木戸孝彦と判決の見通しについて何回か話し合うことはあったが、自信を持ってそれを口にする者はいなかった。

 日本を去るにあたって、ローガンは依頼人のために全力を尽くしたという自負はあったが、無罪の獲得を目指す依頼人の期待に応えることができたという自信はなかった。これまでの法廷での裁判長の発言や指揮振りからみて、どの被告にも無罪判決が出る可能性は極めて少ないとローガンはみていた。

 「戦争を裁く」という人類史上例のないこの裁判は、振り返ってみれば、矛盾だらけだった。栽判長も主席検事もこの裁判の目的が「正義」の実現にあると法廷で何回も口にしたが、それは勝者にとって都合のいい正義にすぎなかった。人類の長い歴史において、縄張りや領土や利権を巡る争いと殺りくは絶えることがなかった。力のある者が争いに勝ち、敗者の首領とその一族を殺し、敗者の領土を奪い取ることが当然のように行われてきた。東京裁判はその歴史に終止符を打ち、勝ち負けにかかわらず真の正義が実現することが期待されたが、それが実現できたと考える者はほとんどいなかった。

 帰国を前にして、ローガンは2年に及んだ日本での苦闘から解放されて帰国できる喜びを感じながらも、むなしさも少なくなかった。

 帰国するローガンとの別れについて、木戸は日記に次のように書いている。

1948年4月14日(水)晴
  昼一同食事に就いたところへ、ローガン氏が数日中に帰国することについて一同に挨拶に来られ、挨拶の言葉を述べたる後、各人と握手を交わし、一同を感激させた。平沼氏が一同を代表して礼を述べた。

 この時ローガンが被告たちに述べた挨拶の言葉は次のとおりであった。

私は最初に東京に着いた時には、これはとんでもない事件を引き受けたものだと、後悔しないでもなかった。しかるに、その後種々調査、研究をしているうちに、私どもがアメリカで考えていたこととは全然逆であって、日本には20年間一貫した世界侵略の共同謀議なんて断じてなかったことに確信を持つにいたった。したがって起訴事実は全部無罪である。しかしこれは弁護人である私が2年を費やし、あらゆる検討を加えてようやくここに到達し得た結論である。したがって裁判官や検事はまだなかなかこの段階に到達していないだろうと想像される。これが判決を聞かずして帰国する私の心残りである。

 「起訴事実は全部無罪である」とローガンが言ったのは、被告たちへのリップ・サービスではなく、プロの弁護士としてのローガンの素直な見解だった。残念なのは、この裁判の根本的な仕組みに構造的な欠陥があったため、公平な判決を期待できないことだった。

 すべての審理が終わった4月16日、ローガンは最後の別れの挨拶に再び木戸に会いに行った。ローガンも木戸も、互いに相手の目を見つめたまま手を握り合った。どちらも多くを語らなかった。言葉を必要としなかった。木戸のその日の日記を引用しよう。  

1948年4月16日(金)雨
 午前10時45分の休憩の折に、ローガン君が帰国するにつき別れの挨拶に来られた。今迄の尽力について深謝し、固い握手を交わして別れたが、別れが惜しまれた。

 

第5章 判 決


 5.1 判決を待つ日々
 法廷での審理がすべて終わった直後に、裁判長は「法廷はその判決を留保し、追って発表するまで休廷する」と宣告したが、判決の言い渡し日を明らかにしなかった。あとで述べるように、その時点では判事団内部でまだ判決内容について意見の調整が難航していた。栽判長自身も、判決をいつ言い渡しできるか見当もつかない状態だったのだ。

 この間、法廷記者たちによる刑の予想が飛び交った。被告1人1人について、有罪か無罪か、有罪の場合に言い渡される刑罰の中身(死刑か無期か有期か)まで細かく予想する者もいた。被告全員が有罪になるだろうという点ではほぼ一致していたが、被告ごとに刑の予測は分かれた。ただ、東条英機だけは死刑の予想が圧倒的に多かった。本人自身が「死刑だ」と公言していたせいもあったようだ

 最も予想が割れたのは、ほかならぬ木戸だった。訴追されていた訴因数が最多だったことから、「足し算」すると死刑に届くというもっともらしい予想屋もいた。逆に「文官」を死刑にすることはないという身分を重んずる者までさまざまだったが、死刑を予想する悲観論がどちらかというと優勢だった。

 被告の多くは、表面上どのような刑でも動じないという素振りを装っていた。しかし、判決の言い渡しを待つ身の辛さを嘆く被告は少なくなかった。

 

5.2 判事団の内部対立と混迷
 被告たちが判決を待つことの辛さを嘆いているのをよそに、判事団内部では熱い闘いが繰り広げられていた。法廷での審理が終わりに近づくにつれて、判事団の内部対立が深刻さを増していったが、いよいよ判決を取りまとめなければならない時が来ても、対立は解消される気配がなかった。裁判の冒頭で弁護人から「管轄不存在の動議」が出された時に、すでにその対応について意見の対立の芽が生まれていた。その時点では理由を先送りして動議を却下することで一時的に対立の激化を先送りしたものの、却下の理由については意見の調整ができないままだった。

 その後、遅れて来日したインド代表のパル判事が加わって、意見の対立は一層激しさを増した。パル判事は前記動議の却下の決定に加わっていなかったことから、却下の決定そのものに反対であるとし、「平和に対する罪」については全員無罪とすべきだと主張して、一人で自室に閉じ籠って無罪判決の草案を書き始める始末だった。パルは法廷を無断欠席することも少なくなかった。

 オランダ代表のレ―リンク判事も次第にパルの意見に同調する考えを示しはじめ、判事団の内部対立は鮮明になっていった。

 そのような中で、イギリス代表のパトリック判事を中心とするグループは、ウエッブ裁判長のリーダーシップに疑問を持ち、ニュルンベルグ判決を先例として「平和に対する罪」の有効性を認めるべきだとする立場で多数派工作を進めた。もしも東京裁判が「平和に対する罪」を事後法として被告全員を無罪にすれば、ニュルンベルグ裁判の判決と真っ向から対立し、2つの裁判のどちらが正しいかという問題を生じさせることになり、そのような事態は絶対に避けるべきだと、彼らは主張して譲らなかった。

 判事たちには、それぞれの出身国からの政治的圧力もあり、栽判の独立性との狭間で悩む判事が増えた。
このような時期に、ウエッブ裁判長は母国オーストラリア政府から一時帰国せよとの命令を受けて、1947年11月10日に帰国した。ウエッブ解任の噂が流れたが、約1ヵ月後に東京に戻り、マッカーサーの指令でウエッブが再び裁判長席に着くことになったが、判事団を統率する力を失っていた。

 裁判所憲章第4条は「有罪の認定及び刑の量定その他本裁判所の為す一切の決定並びに判決は、出席裁判官の投票の過半数をもって決す」と規定していたので、多数派工作に成功したパトリック判事グループが判決文の起草を行うことを一方的に宣告し、その作業を開始した。このようにして、裁判所としての公式判決は、多数派グループが作成したものが採用され、これに同意できない判事は独自の少数意見を書くことになった。多数派から外されたウエッブ裁判長も補足意見を書いてメンツを保った。

 

5.3 ついに判決下る
 1948年4月16日に審理が終了してから半年余りが経過した11月4日、ようやく判決言い渡しのために法廷が再開された。

 判決文は3部10章で構成される長文だった。各被告に対する刑の言い渡しは判決の最後に回されていたので、判決本文の朗読が終わるまで刑の言い渡しがなされることはなかった。その間、被告たちは自分の運命を決する瞬間が訪れるまで、さらに緊張に耐えねばならなかった。

 ウエッブ裁判長は、冒頭で、この裁判がなぜこれほど長期化したかを説明した。起訴内容に関する検察側と弁護側の見解が真っ向から対立し、双方から独自の主張を裏付けるための膨大な証拠の提出の申出があったことを挙げた。特に、弁護側から提出された証拠の中に起訴事実と無関係か関連性が薄いものが大量に含まれていたため、その多くを却下したが、それでもそのために審理が異常に長期化することになったと述べ、裁判長期化の責任の大半が弁護人側にあると述べた。

 裁判長のこの言い訳は、事実として、その通りだった。この裁判を通して、弁護人は主張できるあらゆる論点を主張し、検察側の反論にも屈することなく反撃し、裁判長の介入に対してもひるむことなく論戦を挑むなどして抵抗を続けた。当初半年程度で終わるだろうとみられていた裁判が2年半に及んだのは、ひとえに弁護人たちの闘志溢れる闘い方にあった。刑事裁判では、このような裁判の遅れを厭わない闘い方は被告弁護人の常套手段と言えるのだが、この裁判においては、裁判長が度々無用の口出しをして法廷の議論を混乱させたことも裁判の長期化のもう一つの大きな原因だったことは明らかだった。

 それはさておき、続いて裁判長は、裁判開始直後に弁護人が提起した管轄不存在の動議を却下した理由について、「ニュルンベルグ裁判所の意見とその意見に到達するにあたっての推論に、本裁判所は完全に同意する」と述べた。これは、裁判開始直後に理由も告げずに動議を却下した理由を2年半後のこの時期に初めて述べたものだが、なんとニュルンベルグ裁判の判決文に述べられたものをそのまま借用したものだった。判事たちが自身でくだした決定の理由を自らの言葉で語らなかったことに、弁護人たちは唖然とした。

 その後6日間にわたって、栽判長による判決文の朗読が続いた。その内容は検察側の主張の大部分をほぼそのまま容認したものだった。

 ローガンが冒頭陳述と最終陳述の中で強く訴えた「自衛戦争論」や「日本は挑発されて自衛のために決起した」という主張については、裁判所は、判決文の「B部第7章(太平洋戦争)」の「結論」の項において、次のように述べてそれらを一蹴している。 

 日本のフランスに対する侵略行為、オランダに対する攻撃、イギリスとアメリカに対する攻撃は、正当な自衛の措置であったという、被告のために申し立てられた主張を検討することが残っている。これらの諸国が日本の経済を制限する措置をとったために、戦争する以外に、日本はその国民の権利と繁栄を守る道がなかったと主張されている。これらの諸国が日本の貿易を制限する措置を講じたのは、日本が久しい以前に着手し、かつその継続を決意していた侵略の道から、日本を離れさせようとして講じられたもので、まったく正当な試みであった。(中略)

 さらに、本裁判所の意見では、日本が1941年12月7日に開始したイギリス、アメリカ合衆国及びオランダに対する攻撃は、侵略戦争であった。これらは、挑発を受けない攻撃であり、その動機はこれらの諸国の領土を占領しようとするする欲望であった。「侵略戦争」の完全な定義を述べることがいかに難しいものであるにせよ、右の動機で行われた攻撃は、侵略戦争と名づけないわけにはいかない。(以下略) 

 11月12日、ついに被告に対する刑の言い渡しのときが来た。前夜まで、木戸の次男孝彦は父の刑についてできるかぎり情報を得ようと走り回った。だが、得られた情報は悪いものが多かった。その朝、法廷に到着した父にそのことを伝えると、父は「覚悟しているよ」とひとこと言っただけだった。

 その日、法廷に現れた裁判長は、判決文の残りの第8章「残虐行為」の項の朗読を行ったあと、いよいよ第9章「訴因の認定」に進んだ。そこでは各被告に対する訴因に関する「事実認定」が述べられ、各被告の起訴事実について裁判所の認定が告げられた。そして、各被告に対する認定の朗読が進み、木戸の番が来た。その内容は次のとおり最終論告における検察の主張を概ね踏襲するものだった。

 1937年に木戸は文部大臣として第1次近衛内閣に加わり、また一時期厚生大臣でもあった。1939年に平沼が総理大臣になると、木戸は総務大臣に任命され、1939年9月まで、引き続いて閣僚であった。1937年から1939年までのこの期間に、木戸は共同謀議者の見解を採用し、かれらの政策のために一意専心努力した。中国における戦争はその第2の段階に入っていた。木戸はこの戦争の遂行に熱意をもち、中国と妥協することによって戦争を早く終わらせようとする参謀本部の努力に対して、反抗さえしたほどであった。彼は中国に対する完全な政治的・軍事的支配の獲得に懸命であった。このようにして、木戸は、中国における共同謀議者の計画を支持したばかりでなく、文部大臣として、日本における強い好戦的精神の高揚に力を尽くした。(中略)
 内大臣として木戸は、共同謀議を進めるのに特に有利な地位にあった。彼のおもな任務は、天皇に進言することであった。彼は政治上の出来事に密接な接触を保っており、これに最も関係の深い人々と政治的にも個人的にも親密な間柄にあった。彼の地位は非常に勢力のあるものであった。彼はこの勢力を天皇に対して用いたばかりでなく、政治的策略によって共同謀議の目的を促進するためにも用いた。中国及び全東アジアとともに、南方の諸地域の支配を含むところの、これらの目的に彼も共鳴していた。 
 西洋諸国に対する戦争開始が近づくにつれて、完全な成功について海軍部内で懸念が抱かれていたために、木戸はある程度の躊躇を示した。このように気おくれしている状態でも木戸は中国に対する侵略戦争の遂行を決意していたし、イギリスとオランダに対して、また必要となればアメリカ合衆国に対して企てられていた戦争に力を尽くした。海軍の疑念が除かれると、木戸の疑念も除かれた。彼は再び共同謀議の全目的の達成をはかり始めた。そのときまで、西洋諸国と直ちに戦争することをあくまで主張していた東条を総理大臣の地位に就かせることに彼は貢献した。その他の方法でも、彼はその地位を利用して、戦争を支持し、またはそれを阻止するおそれのある行動を故意に避けた。特に、天皇に対して戦争に反対の態度をとるように進言することをしなかった。
 検察側は、訴因第33、第35と第36に記載されている戦争に対して、木戸の有罪を示す証拠を提出していない。
 戦争犯罪に関しては、南京において残虐行為が行われた際に、木戸は閣僚であった。しかし、それを防止しなかったことに対する責任を彼に負わせるには証拠が十分でない。1941年の西洋諸国に対する戦争中とその後についても、木戸の地位は残虐行為に対して彼に責任があるとすることはできないようなものであった。 

  結局、木戸が有罪とされたのは、訴因第1(1928年から1945年までの期間における戦争の共同謀議)、訴因第27(対中国戦争の遂行)、訴因第29(対米国戦争の遂行)、訴因第31(対英国戦争の遂行)及び訴因第32(対オランダ戦争の遂行)であり、他の訴因については無罪とされた。全体的に言って、木戸に対する起訴事実の認定は、わずかな点を除き、検察の主張をほぼ全面的に認めるものだった。

 被告全員に対する認定の告知が終わった後、裁判長は、インド代表判事の反対意見、フランスとオランダ代表判事の一部反対意見、フィリッピン代表判事の賛成意見、栽判長自身の意見が提出されているが、裁判長はそれらを朗読しないと告げた。そこで、裁判長はいったん休憩を宣告して、判事団と全被告が退席した。

 

 - 次の投稿(9)に続く ー