敵国から来た弁護人(3)

東京裁判で元内大臣木戸幸一の弁護を担当したローガンの苦闘する姿を描いたドキュメンタリー物語

 

これまでのあらすじ

ニューヨークの法律事務所の同僚弁護士ヤマオカの勧めで東京裁判弁護団に加わり、元内大臣木戸幸一の弁護を引き受けたローガンは、天皇のために無罪獲得を目指す木戸からそのための協力を求められた。だが、その道のりは険しく、一時は途方に暮れるばかりだったが、木戸の次男の孝彦の助けを得て、少しずつ裁判の準備作業が進んだ 

 

1.5 開廷直後の法廷で大きな波乱 

   ローガンにとって初出廷となる法廷再開の6月4日が来た。この日から、検察側の本格的な立証活動が始まる。

 しかし、まずいったん時計の針を戻して、ローガンが来日する前に開かれた裁判の序幕部分の出来事を簡単に説明しておこう。

 東京裁判は1946年(昭和21年)5月3日に開廷された。初日は午前10時開廷の予定が遅れて、11時になっても正面の裁判官席は空席のままだった。その間、28人の被告(被告全員と日米弁護人の詳細はここをクリックは緊張した面持ちで被告席で待たされた。日本と戦った11の国から1人ずつの裁判官が出席することになっていたが、やっと11時すぎに現れたのは9人だった。インド代表とフィリッピン代表の裁判官はまだ来日していなかった。開廷が宣せられたのは11時20分だった。

 中央の裁判長席に座ったのはオーストラリア代表のウィリアム・F・ウエッブだった。彼は対日強硬派の人物と知られており、天皇の訴追を求めるオーストラリア政府の意向に基づく人選とみられていた。また、マッカーサーが太平洋戦争の初期に日本軍の攻撃を受けてフィリピンを脱出して1時オーストラリアに滞在していた時にウエッブの世話になったことが、裁判長任命の隠れた理由ではないかとの噂もあった。

 11の国から派遣される裁判官は、それぞれ異なる法制度のもとで教育を受け実務経験を積んだ者たちであった。そのうえ、戦争犯罪に関する国際刑事裁判に適用される国際法は極めて未成熟であったから、それらの裁判官をひとつに束ねる確たる法規範は存在しないに等しかった。その中で裁判長を務めるウエッブには卓越した統率力が求められたが、彼の力量は当初から疑問視されていた。

 開廷直後の裁判長の第一声は「被告が日本の最高の地位にあった者たちであるが、その地位にかかわらず、彼らを特別扱いしない」ことを強調したものだったが、法廷に詰めかけた報道陣の評価は低かった。 

 

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    法廷で指揮を執るウエッブ裁判長 

 

  続いて、国際検事団を率いるアメリカ人ジョセフ・キーナン主席検察官が起立して、各国の代表検事を紹介した。キーナンは米国司法省の要職の経歴を持ち、ギャングの取り締まりに辣腕をふるったことで知られていた。巨体から発する大声と人を威圧する風貌が敵国の戦争犯罪人と対峙するのに適任と考えられたようだ。

 キーナンは早々と1945年10月6日に40人近いアメリカの検事や補助者を連れて来日し、日本の戦争犯罪人の調査に着手した。他の連合国もそれぞれ参与検察官を任命することができたので、イギリスやその他の連合国からも続々と検察官が到着し、総勢50人を超える法律家と数百人の補助スタッフがキーナンの指揮下に入り、GHQの組織に組み入れられ、その支援を受けることになった。

 国際検事団とはいえ、人数の点でも権限においても、アメリカ人検事が他を凌駕しており、検事団はマッカーサーの強い影響下に置かれていた。検事団は検事及び補助者の人数においても、利用できる設備その他の資源においても、弁護団よりはるかに恵まれていた。GHQの支援のもとに、日本人関係者の取り調べや証拠の押収も自由に行うことができた。 

    一方の弁護団は、各被告が選任する日本人弁護士のほかに、各被告に1名のアメリカ人弁護士をつけることが日米間で合意されていたが、ローガンを含むアメリカ人弁護士の多くはこの時期にはまだ来日しておらず、アメリカ人弁護人の出席者は在日米軍に所属する6人だけだった。

   日本人弁護士に加えてアメリカ人弁護士を付けることになった事情は必ずしも明らかではないが、東京裁判アメリカ式の裁判手続きに従って英語を主として使って行われることから、それに不慣れな日本人弁護士を補佐するためにアメリカ人弁護士の派遣を日本側が要請して実現したという説が有力である。先に触れたドイツの戦争犯罪人に対するニュルンベルグ裁判の弁護はドイツ人弁護士だけで行われていたが、東京裁判を「文明の裁き」と位置づけるアメリカの意向に沿い、被告の権利をより手厚く保護する姿勢を示すことによって内外にアッピールしたいとするマッカーサーが日本側の要請を受け入れたと言われている。

 だが、弁護団の人員も装備も検事団のそれとは比較にならないほど貧弱だった。彼らを補助する調査員、秘書、通訳、翻訳者、タイピスト等の人的スタッフは極めて限られていたうえ、日々の仕事に必要な紙や鉛筆などの資材も自由に手に入らないほどだった。被告たちは終戦まで裕福な暮らしをしていたが、戦後収入源と家財の大半を失って日々の暮らしにも困窮しており、弁護活動に必要は費用を負担する余裕はなかった。

 2日目の法廷では、起訴状の朗読が行われた。起訴状は事前に関係者に配布されていてその内容は知られていたので、淡々と行われた。

 5月6日に開かれた3日目の法廷で最初の波乱があった。裁判長が被告の罪状認否に入ろうとしたとき、日本人弁護団副団長の清瀬一郎(東条被告担当)が発言を求めて立ち上がった。前日にジョージ・ファーネス弁護人(重光被告担当)から秘策をアドバイスされていたのだ。清瀬は古びた背広を着て、擦り減った兵隊靴を履き、小柄な身体の背を伸ばすようにして発言した。

「裁判長、その前に動議がございます。裁判長に対する忌避の申し立てでございます。罪状認否が行われる前にお許しをお願いしたいと存じます」

 裁判長の「簡単に述べてください」の言葉を得て、清瀬は裁判長が戦後間もなくニューギニアにおける日本軍の不法行為について調査し、日本軍がラバウル攻略に際して付近の住民約150人を虐殺したとの報告書をオーストラリア政府に提出しており、そのような経験を有する者は本件の裁判官として不適当だから忌避すると述べた。

 そこまで聞くと、裁判長は清瀬弁護人のさらなる発言を抑え込んで休憩を宣告した。休憩後、ニュージーランド代表のノースロフト判事が裁判長席に座り、次のように述べて清瀬の申し立てを却下した。

「裁判所憲章第2条に基づき、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥により任命されたのであるから、どの判事も欠席させることはできない」

 しかし、この論理がまかり通れば、マッカーサーが任命した裁判官はどのような利害関係があっても忌避されないことになり、割り切れない気持ちを抱いた者が多かった。

 このあと、ウエッブが再び裁判長席に戻り、被告の罪状認否に進んだ。最初はどのように認否すべきか戸惑った被告たちも、アルファベット順にまず荒木貞夫被告が「無罪であります」と述べたのに続いて、順次被告全員が「無罪」を主張した。これは、事前にアメリカ人弁護人が被告たちを説得してやっと言わせたのだったが、国民からは責任逃れの卑劣な態度だとして被告を非難する声があった。

 5月13日に開かれた4回目の法廷で、清瀬弁護人が再び立ち上がり、当裁判所は起訴状に含まれている訴因について裁判を行う管轄権(権限)を持っていないという動議を申立てた。それは法律用語で「妨訴抗弁」と呼ばれるもので、起訴そのものが不適法であるから、起訴内容の審理を行うまでもなく、直ちにその全部又は一部を却下すべきだというものだった。その根拠として清瀬が主張したのは、日本が降伏に際して受諾したポツダム宣言の次の規定だった。

俘虜を虐待せる者を含む、いっさいの戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えられるべし(第10条)。 

  東京裁判はこの規定に基づいて行われているが、そこでいう「戦争犯罪人」とは、ポツダム宣言が発せられた時点で存在していた国際法において「戦争犯罪」とされていた罪を犯した者に限られるが、起訴状に記載されている「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は、当時の国際法のもとで「戦争犯罪」とは考えられていなかったから、当裁判所はそれらの罪について起訴を受理して裁判する権限を持っていないというのだ。そして、「平和に対する罪」も「人道に対する罪」もポツダム宣言受託後にマッカーサーがこの裁判を行うために制定した裁判所憲章において初めて戦争犯罪とされたものだから、裁判所憲章は事後法であり、事後法に基づく裁判は許されないと主張した。

 さらに、そこでいう「戦争犯罪」は日本がポツダム宣言を受諾した1945年(昭和20年)7月26日時点で日本と外国の間に存在していた「戦争」に係る犯罪を意味しているが、それに該当する戦争は太平洋戦争だけである。しかし、起訴状はそれ以前の満州事変などに関する訴因を含んでおり、当裁判所はそれらに関する訴因についても管轄権を持っていないから、それらの訴因はいずれにしても直ちに却下されるべきだと主張した。

 この動議に対して、キーナン主席検事は昼食をはさんで3時間に及ぶ反論をしたが、その骨子は1928年のパリ不戦条約等においてすでに「侵略戦争」が禁止されているから、弁護人が主張する事後法に当らないというものだった。

 しかし、不戦条約は自衛行為を禁止していないことや、国家間の取決めにすぎず、個人に刑罰を課していないことなどからキーナンの主張には問題があった。

 次いで、イギリス代表のコミンズ・カー検事が発言台に立った。彼の反論の要旨は、ポツダム宣言の規定は戦争犯罪人を裁判にかける権利を制限するものではなく、如何なる国家も戦争犯罪人を裁判に付す固有の権利を持っているというものだった。さらに、次のように述べて弁護側の主張を批判した。

「弁護側の弁論を聞いていると、日本がポツダム宣言を受諾したのは誤解によるか、裁判所憲章が『平和に対する罪』を処罰の対象に含めたのが背信行為だと言っているようである。もし日本政府に『戦争犯罪人』の意義について何か疑念があったのなら、すみやかに質問することにより、その疑いをはらすことは簡単にできた。実際に、彼らは天皇の地位につき質問し、すみやかに回答を受けたのである」

 これに対して清瀬は自身の動議の根拠をさらに続けて述べようとしたが、それをさえぎって、ウエッブ裁判長は動議の討議を打ち切り、強引にその日の法廷を閉じた。

 東京裁判の冒頭から裁判の不当性を突いて裁判長に立ち向かった清瀬弁護人は、弁護士のかたわら大学講師を務めたあと政界に進出し、衆議院副議長などの要職を歴任したが、1946年公職追放となって政界から退き、追放中にこの裁判の日本人弁護団の副団長を務めていた。この裁判終了後再び政界に復帰し、文部大臣、衆議院議長等に就任した。戦前から戦後に跨る時期において、日本の司法界を代表する人物の一人であり、硬骨漢として知られていた。

 木戸はこの日の日記に次のように書いている。  

 1946年5月13 (日)  雨曇
 8時に巣鴨プリズンを出発、市ヶ谷の法廷に行く。今日、裁判所の構成の問題につき、清瀬弁護士の弁論及びキーナン主席検事と英国のコミンズ・カー氏の演説あり。5時迄かかった。清瀬氏も今日はなかなか良くやった。

  翌14日の第5回目の法廷で、アメリカ人弁護人ジョージ・ファーネス(重光被告担当)とベン・ブルース・ブレィクニ―(梅津被告及び東郷被告担当)が発言台に立ち、前日の清瀬の動議を補足する弁論を行った。この時、ファーネスは陸軍大尉、ブレィクニ―は陸軍少佐の現役のアメリカ軍人であり、GHQの一員として日本に駐在していたことから東京裁判弁護団に加わっていた。

 まず、ファーネスが、この裁判所の裁判官が全員戦勝国であり訴追国である国々の代表者によって構成されていることはこの裁判の構造的欠陥であるとして次のように述べた。

「この裁判所の裁判官は、日本に勝利した国々の代表者であるから、法律に適合した公正な裁判は期待できません、(中略)これらの諸国は被告が有罪であると確信して裁判を受けさせるべく起訴したことは疑う余地がありません。そうでなければ、被告たちは起訴されなかったはずであり、この裁判も開始されなかったであろう。(中略)この裁判では、勝者が敗者を裁くことが当然とされているが、それは誤りであり、中立国の代表者によって裁かれるべきです」

 次いで発言台に立ったブレィクニ―弁護人は米軍の軍服を着ていた。彼は、戦争を裁くことの不条理を鋭く突いて、次のように述べた。

「戦争は犯罪ではありません。なぜなら、戦争の開始や終了にあたり何をすべきかについて法律の規定があること、また戦争中に何をすべきかを法律が定めていることは、戦争が合法的であることを意味しています。もし戦争が非合法であれば、それらの法律は無意味だからです。
 次に、戦争は国家間の争いであり、個人の行為ではないので、個人が処罰されるべきではありません。
また、国際法上、『正しい戦争』と『正しくない戦争』の区別は存在しておらず、誰も特定の戦争が正しいとか、合法的であるかについて権威をもって決定することはできません。いまだかつて、戦争が法廷において犯罪とされたことはないのです。だから、戦争における殺人は殺人罪にはなりません。合法化された殺人がどれほど不快で嫌悪すべきものであっても、個人がそれについて刑事責任を負うことはないのです。もし真珠湾攻撃が4千人の殺人罪になるとすれば、広島はどうなるのか。我々は、広島に原爆を投下した人の名前、その作戦を計画した参謀長、そしてその攻撃に責任ある国の元首をよく知っている。彼らは殺人をしたことを気に病んでいるでしょうか。そうではあるまい。それは、その行為が殺人罪にあたらないからです」

 この裁判の当時、原爆投下の是非に触れることはタブーであった。それをアメリカの軍服を着た現役の軍人であるアメリカ人弁護士が公開の法廷において公然とそれを取り上げたのである。そして、戦争における殺人が殺人罪として個人が処罰されるなら、原爆を投下して無抵抗の一般市民を大量に殺害したアメリカの関係者は太平洋戦争における最も残虐な殺人犯として処罰されるべきだが、それがなされないのは、戦争における殺人が犯罪に当らないからだというのだ。

 この発言部分はなぜか法廷で日本語に同時通訳されず、日本語版の速記録にも記載されず、「以下通訳なし」と書かれている。しかし、ブレィクニ―のこの爆弾発言は直ちに日本の内外に知れ渡り、多くの国の人々に大きな衝撃を与えた。

 アメリカ弁護士協会の機関誌「アメリカン・バー・アソシエーション」(American Bar Association)の1946年8月号は、ブレィクニ―の発言を取り上げ、依頼者の弁護のために、また法に基づいて正義を執行するために、弁護士が主張し得るすべてを主張するという弁護士の職業的伝統が見事に実践されたとして、彼の弁論を称賛している。

 この日のファーネスとブレィクニ―の発言は、それまで敵国アメリカの弁護士が日本の戦争指導者を真面目に弁護するはずがないと冷ややかな目で見ていた一部の被告や日本人弁護人を驚かせ、「彼らも案外やるじゃないか」という見方に変えさせた。

 前日とこの日に、清瀬、ファーネス、ブレィクニ―の三人の弁護人が申立てた動議は、この裁判の正当性を根幹から揺るがす重大な問題を指摘するものだった。もしこれらの動議が認められれば、このまま裁判を続けることは許されなくなるものだった。

 しかし、ウエッブ裁判長は、3日後の5月17日の第7回法廷で、あっさり弁護人の動議のすべてを却下し、「その理由は将来告げる」と述べただけであった。

 ところが、その後の裁判手続きの中でも、裁判所はこの動議の却下の理由を述べることはなかった。わずかに、審理終了後に申し渡された判決文において、次のような簡単な理由が記載されただけだった。

1946年5月に本裁判所は弁護人の申立てを却下し、裁判所憲章の効力とそれに基づく裁判所の管轄権とを確認し、この決定の理由は後で言い渡すであろうと述べたが、その後にニュルンベルグで開かれた国際軍事裁判所は1946年10月1日にその判決を下した。同裁判所は他のことと共に次の意見を表明した。「裁判所憲章は戦勝国の側で権力を恣意的に行使したものでなく、その制定の当時に存在していた国際法を表示したものである」と。当裁判所はニュルンベルグ裁判所の以上の意見と、その意見に到達するまでの推論に完全に同意する。

 東京裁判の裁判官は、日米弁護人たちが提起したこの裁判の正当性に関する重要な問題について、自ら判断することなく、ドイツの戦争指導者を裁いたニュルンベルグ裁判所の裁判官の意見に盲従することになるのだ。この裁判を振り返ってみると、裁判の前哨戦が始まった直後に裁判長がこの重要な問題を理由を告げることなく却下したことによって、その後この裁判が誤った道を突き進むことになったと言わざるを得ない。裁判長がこの時点でなすべきだったことは、弁護人の動議に十分検討すべき重要な問題が含まれていることを率直に認め、それに対する裁判所の判断をひとまず保留し、今後の審理の過程で検察・弁護の双方からこの問題に関する追加の主張と証拠の提出を許し、それらが出尽くした時点で裁判所の判断を示すべきであったと悔やまれる。このあとも、弁護人側は管轄不存在の主張を繰り返すのだが、裁判長はその問題はすでに却下済みだとして強引に弁護人の主張を封じ込め、この裁判の主要な争点をわずか2日間の論議によって葬り去ったことは惜しまれてならない。

 ちなみに、後日「平和に対する罪」と「人道に対する罪」が事後法であるとして被告全員を無罪にすべきとする強硬な意見を述べるインド代表のパル判事は、この時まだ来日しておらず、動議却下の決定に加わっていなかったことに注目すべきである。

 5月17日の法廷の最後に、裁判長は6月3日まで休廷すると宣言して終えた。これでこの裁判の序幕が降りた。

 ここまでが、遅れて来日したローガンたちアメリカ人弁護人が欠席のままで行われた法廷での出来事の要旨である。そして、6月3日から再開される法廷で、いよいよ被告に対する起訴事実について検察側と弁護側の本格的な論争と立証合戦が始まるが、それは検察側による起訴事実の立証から火ぶたが切られることになる。

 

1.6 弁護団のごたごたが続く
 本格的な法廷論争の開始を目前にして、弁護団の編成と弁護方針の確立が急がれた。5月17日にアメリカ本国からローガンたちアメリカ人弁護士が到着したことによって弁護団の顔ぶれは一応揃ったが、その後も一部のアメリカ人弁護士が待遇に不満を述べて帰国するなど、ごたごたが続いた。

 日本人弁護人からは弁護団として弁護の基本方針を確立すべきであるとの声があがり、高橋義次弁護人(嶋田繁太郎被告担当)が次の2項目を基本方針とするよう提案がなされた。
 
天皇にご迷惑をかけないこと。特に、天皇が被告としても証人としても出廷されるようなことは絶対にしないこと。

●国家弁護を第1とし、個人弁護は2の次にすること。日本国が侵略国とされることはしないこと。

 この提案に対して、軍人被告を担当する日本人弁護人から大きな異論は出なかったが、文官被告の弁護人の中には反対する者がいた。一方、アメリカ人弁護人のほとんどは個人弁護を強く主張して、日米弁護団間に弁護方針について基本的な意見の相違があらわになった。もっとも、裁判が進行するにつれて、どの弁護人も自分の依頼者の個人弁護を主とするようになり、この意見の対立は時間の経過によって自然に解決する方向に向かった。

 

第2章 検察の立証始まる

 

2.1 ローガン初出廷
  予定どおり、6月3日に法廷が再開された。この日がローガンにとって最初の出廷日となった。

 法廷は報道関係者や傍聴人で満員だった。ローガンは被告席のすぐ前の弁護人席に座って、こみあげてくる興奮を抑えるためしばらく目を閉じた。世界の注目を集める世紀のドラマに参加している実感が次第に湧いてきた。

 間もなく被告たちが列を作って入場した。28人いた被告が26人に減っていた。初日の法廷で東条英機被告の頭を叩いて精神異常が疑われた大川周明被告と、急病で療養中の元外相の松岡洋右被告の2人が欠席していた。松岡はこのあと6月27日に病死した。

 ローガンは被告席の木戸を見つけて目で合図を送った。木戸も目で答えた。被告たちはこれまでの法廷の経験から格別緊張している様子もなく、くつろいだ姿勢で裁判官の入廷を待っていた。

 ローガンは被告席の人たちを見まわした。わずか一年足らず前まで、卑劣な野蛮人としてあれほど憎んでいた日本の最高指導者たちがすぐそばにいた。いま近くで見ると、意外なほど平凡な人たちばかりだった。この人たちが母国アメリカに戦争を仕掛けた国の最高指導者だったことが嘘のように思われた。

 我に返ってローガンはいつもの平常心に戻り、この日の法廷で予定されている手続きを再確認した。栽判に臨むための準備はまだまだ不十分だったが、今日一日を乗り切るための方策を再確認しておく必要があった。
間もなく裁判官たちが入廷し、午前9時半に開廷が宣せられた。最初に、その日初めて出廷したローガンたちアメリカ人弁護人が1人ずつ紹介された。ローガンも木戸の弁護人として紹介された。

 その後、弁護人側から事前に提出していた審理手続きの延期申請について、ブレィクニ―がその理由を説明した。弁護人、特にアメリカ人弁護人にとって、裁判の準備が致命的に遅れていた。ローガンにとっても、先に述べた事情もあって時間はいくらあっても足りなかった。裁判の進行をもう少しゆとりあるものにして貰いたいというのは弁護人たちの切実な願いであった。だが、栽判の進行を急ぐ裁判長はにべもなく延期申請を却下した。

 その後、栽判手続きに関するいくつかの問題についてやり取りがあっただけで、ローガンの最初の出廷日は大きな出来事もなく終わった。

 

2.2 傲慢さに満ち溢れた主席検事の冒頭陳述
 翌6月4日から検察側の立証が始まった。

 最初にキーナン主席検事が発言台に立って冒頭陳述を行った。冒頭陳述は、裁判において検察が立証しようとする被告の犯罪事実を具体的に特定し、それを立証する方法に関する検察の計画を明らかにすることを目的として行われるのだが、約2時間50分に及んだキーナンの冒頭陳述は次のように傲慢さと思い上がりに満ちたものだった。

この裁判手続きを始めるにあたって先ずその目的を明らかにします。我々の目的は正義を実現することであり、戦争被害の防止に寄与することにあります。裁判長閣下、これは普通の裁判ではありません。被告らは文明に対して宣戦を布告し、民主主義と自由を破壊しようとしたのです。彼らの暴挙に対して、我々は今ここで世界を破滅から救うための断乎たる闘争を開始したのです。(以下略)

  被告らを文明と民主主義と自由の破壊者だと断じ、裁判によって世界を破滅から救い、正義を実現するというのだ。しかし、多くの場合、事実は逆に、勝者や征服者に見られがちなこのような思い上がりこそが、裁判を歪め、文明と民主主義を破壊する危険をはらんでいることを、我々はこの裁判を通して知ることになるのだ。

 余談だが、冒頭陳述終了後間もなく、キ―ナンはアメリカに帰国し、数週間東京を留守にした。彼の留守中に、アメリカやイギリスから来た検事たちがキーナンの解任をマッカーサーに要求するという騒動があった。キーナンは大酒飲みで、自己中心的で、感情的だというのが解任要求の理由だった。また、キーナンは法廷の主導権を巡ってウエッブ裁判長と激しくやり合うことが多かった。そのたびに法廷は苛立ち、裁判の進行が遅れた。しかし、マッカーサーはキーナンの解任に同意しなかった。

 6月13日、法廷において検察による起訴事実の立証作業が始まった。その冒頭に、検察は審理に必要または関係すると考えられる国際条約、日本の法令、日本の統治機構などに関する文献や解説書等を証拠として大量に提出した。その中の「日本の憲法と政治」と題する文書は、「内大臣の責任」について次のように述べていた。 

内大臣管制第2条の中に、内大臣の責任は常時天皇に付き従って、国家の行政に関し、天皇を補佐し進言することと定められて居る。総ての法律案は裁可を受ける為に彼(内大臣)の役所を通り、天皇に奏呈する請願は彼が之を処理する。彼は公布せられる為総ての文書に捺印せられるべき御璽と国璽を保管して居る。近年に於ける彼の最も重要な職務は、内閣総理大臣の辞職の際、天皇に後継総理大臣を奏薦することであった。(以下略)

 これが検察の主張する内大臣の職務と責任ということになる。

 続いて検察は、日本が「侵略戦争」への道に突き進んで行った背景とその経緯について、昭和期に入って国を挙げて軍国主義的体制が強まり、やがて軍が暴走が始め、まず満州を侵略し、次いで中国全土に戦火を拡大し、欧州で覇権を目指すドイツとイタリアと同盟を組んで三国共同謀議のもとにアジアの支配をもくろんで太平洋戦争に突入していったと述べ、その歴史を次の10部門に分けて、部門ごとに立証する壮大な計画を示した。

第1部 侵略戦争への道
第2部 満州侵略
第3部 中国侵略
第4部 独伊との共同謀議
第5部 仏印に対する侵略
第6部 対ソ侵略
第7部 日本の戦争準備
第8部 太平洋戦争
第9部 戦争法規違反(俘虜虐待)
第10部 個人別追加証拠提出

 この計画に基づいて、検察はこの日から翌1947年1月までの7ヶ月間、多数の証人の証言と膨大な書証その他の証拠物を提出して、被告たちが犯したとする犯罪事実をあばき出していくことになる。

 それらの事実の中には、それまで日本国民が知らなかった日本の歴史の隠された恥部が少なからず含まれていた。それらが法廷で暴露されるたびに、日本国民は大きな衝撃を受け、怒りをあらわにすることになる。その意味で、東京裁判は日本人自身が自分たちの国の歴史を正しく知る上で大きな貢献をしたとも言える。

 具体的に、この立証計画の第1部(侵略戦争への道)の中で、日本が厳しい軍事教育や言論の弾圧によって軍国主義国家に変貌して行ったことを立証するとして、検察は内外の教育関係者や言論人を証人として法廷に呼んだ。検察の狙いは、個々の被告の個別の犯罪行為の底流に、国を挙げて突き進む軍国主義への大きな流れがあったとし、その流れは被告の全部または一部の「共謀」によって創り出されたとする独自の構想を裁判の冒頭で描くことにあったと思われる。

 検察側が最初に呼んだ証人は、連合国軍総司令部民間情報教育部長ドナルド・ロス・ニュージェントだった。彼は戦前日本のいくつかの学校で講師をした経験があり、日本の学校における軍事教練の実態を証言した。

 これに対して、ローガンを含む何人ものアメリカ人弁護人が検事の質問や裁判長の訴訟指揮に対して異議を申し立てたが、それらのすべてが裁判長によって却下された。これらはゲーム開始直後の軽いジャブの応酬のようなものだった。ローガンも次第に法廷の雰囲気に慣れ、いつもの落ち着きを取り戻した。

 検事による証人の主尋問が終わったあと、証人に対して弁護人による反対尋問が許される。反対尋問は法廷技術の中でも最も難しいものの1つとされているが、それだけに尋問者の腕の見せどころである。数人の日米弁護人が短い反対尋問を行った。

 さらにローガンが立ち、証人の経験の程度や知識の正確さを試す質問を行った。その狙いは証人の証言の信憑性を弱めることにあった。ローガンは証人の答えに満足せず、質問の角度を変えながら執拗に証人に食い下がった。これに裁判長が苛立ち、裁判に無関係な質問だとして尋問の打ち切りを求める場面があったが、ローガンは簡単に引き下がらなかった。1937年から1938年まで第一次近衛内閣の文部大臣をつとめた木戸にとって、学校における軍事教練の強化に関する証言をそのまま見逃すことはできなかった。この反対尋問がどれだけ有効であったかは別として、最初の検察側証人の登場から、ローガンの心意気を感じさせる場面が続いた。

 法廷では、英語と日本語が公式言語とされ、法廷内でどちらか一方の言語による発言は常に他方の言語に同時通訳されることになっており、出席者はイヤホンで同時通訳を聞くことができた。しかし、実際には同時通訳の難しさのため、通訳されない部分や不正確な通訳の発生を避けることは難しく、通訳の正確性を巡る争いが頻発した。その結果、同時通訳を介する証人尋問は予想以上に時間がかかった。

 2番目に登場した海後東京大学助教授の証人尋問でも同時通訳を巡って同様の問題が生じたため、検察側から証人尋問の方法について新たな提案がなされた。証人を呼ぶ側が事前に証人の証言内容を英文と和文で「宣誓口述書」の形式で作成して法廷に提出し、それを尋問者又は証人自身が法廷で朗読することをもって主尋問と証人の応答がなされたものとするという提案であった。

 「宣誓口述書」とは、法廷外で証人が宣誓したうえで供述した内容を記録し、証人がその内容を確認してサインしたもので、法廷で宣誓して証言する場合と同様にその内容に誤りがあれば偽証罪として罰せられる可能性があるものをいい、法廷での口頭の尋問に基づく証言と同等の効力が認められる。この方式を採用することによって、少なくとも主尋問を法廷で同時通訳する必要がなくなり、その限度で同時通訳の正確性を巡る混乱と時間を避ける効果が期待された。ただし、宣誓口述書が用いられる場合でも、原則として証人は出廷して証人席に座り、相手方の反対尋問を受けることが必要とされる。弁護人側はこの方式の採用に反対したが、栽判長は検察の提案を採用した。その結果、このあとに登場する証人に対してはこの方式が採用されることになった。本書では、「宣誓口述書」を便宜上単に「口述書」と呼ぶことがある。

 その後、大内兵衛東京大学教授、滝川京都大学教授などが証人として登場し、大学における言論の自由の制限、軍事教練強化の状況、敵への憎悪の感情の注入教育の様子を証言した。その中で木戸に関係するものとして、大内証人が検察の主尋問で次のように証言した。

「1937年、木戸侯爵が文部大臣になった時、彼は矢内原教授を東京帝国大学の教授会より罷免することを要求した。この木戸侯爵の要求の結果、矢内原教授は同大学当局者より辞表を提出することを命じられました」

 この証言に対して、木戸を担当する穂積弁護人が立ち上がって反対尋問を行った。

Q 「友人として、あなたも辞めることを矢内原氏にアドバイスされませんでしたか」

A「それに賛成致しました」

Q「木戸文部大臣が少なくとも直接矢内原氏に辞職を強要したという事実はないのでございますね」

A「ありません」

 この反対尋問で、穂積弁護人は鮮やかな得点をあげた。だがこのあと、木戸弁護団における穂積の存在は次第に薄れていき、木戸の弁護は実質的にローガンと木戸孝彦の手に委ねられていった。

侵略戦争への道」と題する検察の立証の第1部はここで終わった。この立証によって、軍国主義が日本を覆うに至ったことが侵略戦争に日本が突入していく背景にあったことを裁判官に理解させようとする検察の狙いは、一定の成功をおさめたように見える。

 

-次に投稿予定の「 敵国から来た弁護人(4)」に続く-