敵国から来た弁護人

本稿は先に分割して投稿した「敵国から来た弁護人(1)~(9)」を

一つにまとめた上で、目次を設け、文字を拡大し、加筆したものです               

 

     目次

 

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はじめに

 終戦の翌年の1946年(昭和21年)5月3日に始まった東京裁判(正式には「極東国際軍事裁判」という)で、過去17年余りの期間に日本国が世界の各地で行った戦争に関して、28人の日本の最高指導者が殺人罪などで個人責任を追及されて裁判にかけられ、途中で死去した2人と精神病と診断された1人を除く25人の被告全員に有罪の判決が言い渡された。

 この裁判は、日本と戦ったアメリカを含む11の戦勝国(「連合国」と呼ばれている。)によって計画され、東京で行われた。容疑者を起訴した検事たちも、裁いた判事たちも、全員が戦勝国から送りこまれた人たちだった。栽判は連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が制定した裁判所憲章に基づいて、アメリカ式の裁判手続きによって行われた。この裁判が勝者による敗者に対する復讐のための儀式だったと評する者が少なくないのはそのためである。

 この裁判では、各被告に日本人弁護士に加えて、1名のアメリカ人弁護士がつけられた。と言っても、被告がお気に入りのアメリカ人弁護士を自由に選ぶことができたわけではない。1部は当時日本に駐留していた米軍に所属する弁護士資格を持つ軍人が当てられ、残りは米国司法省がアメリカ全土から志願者を募って東京に派遣した弁護士の中から割り当てられた。彼らの報酬や費用は米国政府が負担したから、彼らは「あてがいぶち」の弁護士だった。

 戦争に勝ったアメリカは、「復讐」のために日本の戦争指導者を裁判にかける一方で、その者たちの弁護のためにわざわざ費用を負担してアメリカ人弁護士を提供したのだが、それはいったいなぜだったのか。復讐に加担させるためだったのか。裁判の公正を装う偽装工作だったのか。

 一方の被告たちは、どのような想いで、敵国の見ず知らずの弁護士に、自分の生死を賭けた裁判の弁護を頼んだのだろうか。

 他方、敵国の戦争指導者を法廷で弁護するという例のない特異な仕事を与えられたアメリカ人弁護士たちは、どのような想いでこの仕事を引き受け、どのようにそれに取り組んだのか。敵国に対する憎しみと弁護士としての良心の狭間で苦しむことはなかったのか。

 このような疑問を持つ人がいても不思議ではない。これらの疑問の答えを求めて、この裁判の弁護団に加わった1人のアメリカ人弁護士を中心にその足跡を辿った。彼の名はウィリアム・ローガン・ジュニア(William Logan, Jr.)という。

 

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     東京裁判の法廷で弁論するローガン

  

 彼が弁護を担当した被告は元内大臣木戸幸一であった。本稿はローガンが木戸の弁護人として何を考え、何をしたかを中心に、東京裁判速記録(国立国会図書館所蔵)、「木戸幸一日記―東京裁判期」(東京大学出版会)、その他の関連文献や参考資料を基に、東京裁判の一つの断面を描いたものである。
 

第1章 裁判は始まっていた


1.1 遅れて到着

 太平洋戦争が終結した年の翌1946年(昭和21年)5月17日の夜、20数名のアメリカ人弁護士の一行が東京新橋の第一ホテルに到着した。2週間前に東京で始まった極東国際軍事裁判の被告として起訴された日本の戦争指導者を弁護するために、アメリカ全土から急いで呼び寄せられ、日本に送り込まれた弁護士たちだった。

 どの顔にも長旅による疲労が色濃く滲んでいた。軍用飛行機から降り立った厚木飛行場から東京都心に向かう道から見た薄暮の日本の首都の光景が廃墟のようだったことも、彼らの疲労感を一層強めていた。都市としての機能を失った荒涼とした焼け跡で、これから何カ月も、もしかすると何年も、家族や友人が住む豊かなアメリカの街から遠く離れて過ごさなければならないことが、彼らの気持ちを萎えさせた。ある程度覚悟はしていたが、とんでもない所に来たことを後悔する者もいた。

 第一ホテルは、GHQ(正式の名称は「連合国軍最高司令官総司令部」)の高級将校の宿舎になっていた。ロビーは軍服姿のアメリカ人たちで溢れ、たばこの煙と軍人たちの体臭でむせかえっていた。

 到着したアメリカ人弁護士一行の中に、ウィリアム・ローガン・ジュニア がいた。彼は日本へ出発する間際まで、ニューヨークの法律事務所(Hunt, Hill & Betts)で弁護士として通常の業務に追われていた。このとき44歳の働き盛りの彼は、直前まで国際取引や海上輸送に関する法務を中心に裁判事件も数多く手掛け、多忙な日々を過ごしていた。

 彼と同じ法律事務所の同僚弁護士にジョージ・ヤマオカ(山岡)がいた。ヤマオカは、その名が示すように、アメリカ国籍の日系二世であり、日系人として最初にニューヨーク州で弁護士資格を取得したことで知られていた。ヤマオカは米国ワシントンの日本大使館の法律顧問をしていた関係で、東京裁判に派遣されるアメリカ人弁護団の編成や裁判の準備を手伝っていた。

 

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                               ジョージ・ヤマオカ

 

 ヤマオカは仲良しのローガンに弁護団への参加を熱心に勧誘していたが、ローガンは「ヒロヒトの弁護ならやってもいいけどね」と冗談交じりの返事でかわしてやんわり断っていた。「ヒロヒト」は日本の昭和天皇のことだったが、当時アメリカでは昭和天皇をそのように呼んでいた。そのころ連合国の間では天皇を裁判にかけるべきだという意見が有力だったので、天皇にもアメリカ人弁護士がつけられることになるだろうと思って、ローガンはヒロヒトの名を口にしたのだった。

 ローガンも、敵国日本の最高指導者を裁くという人類史上類例のない超大型の国際裁判に参加できる機会に弁護士として血が騒がないわけではなかった。しかし、継続中の重要な仕事をいくつも抱えていたため、ニューヨークを長期間離れることは難しいと思っていた。

 その彼がヤマオカの熱心な説得に負けてこの裁判の弁護団に加わることを決意したのは、出発のわずか一週間ほど前のことだった。そのころ、裁判は半年ほどで終わるだろうと伝えられていたので、その程度の期間なら、世界中が注目するこの壮大な裁判に身を投じ、自分の力を試してみるのも悪くないと思ったからだった。それは弁護士の性(サガ)とでもいうべきものだった。

 家族や友人・知人たちは、ローガンのこの決断に対して、「気でも狂ったのか」と言って反対した。戦争中あれほど憎んだ敵国の戦争指導者を弁護するために、現在の恵まれた仕事環境を投げ出してわざわざ廃墟の東京に出かけようとするローガンの行動に理解を示す者はほとんどいなかった。彼自身も日本人に対する侮蔑と憎しみの感情をまだ拭いきれないでいたが、そのような私情より、弁護士としての知的好奇心と野心が上回った。弁護士のキャリアにおいて、このような機会に二度とめぐり合うことはないだろうと思った。

「おもしろそうだ。やってみよう」 

 そう決心したローガンのその後の行動は速かった。自分が担当していた仕事の留守中の処理に必要な事務所内の引継を短期間で済ませて、急いで東京に向かったのだった。

 第一ホテルに到着したローガン宛に、一足先に来日していたヤマオカから分厚い書類の束が届いていた。書類には次のようなヤマオカのメモが添えられていた。 

ビル、お疲れさま。今晩はゆっくり休んでくれ。だが、明日からめちゃくちゃ忙しくなるぞ。明朝8時にこのホテルのレストランで一緒に朝食を食べよう。できれば、それまでにこの袋の中の書類にざっと目を通しておいてもらいたい。ところで、君を木戸幸一被告の弁護人に推薦したいと考えている。君の希望はヒロヒトだったけど、木戸はヒロヒトの身代わりに起訴されたと言われているから、君の希望に一番近い人物だと思う。ぜひ引き受けてもらいたい。ジョージ

 「ビル」はローガンの、「ジョージ」はヤマオカの愛称である。ヤマオカから届けられた袋の中の書類は、東京裁判に関するさまざまな資料、木戸幸一の人物像に関する資料、起訴状や大日本帝国憲法の英訳文などが含まれていた。

 ローガンが担当してもよい被告としてヒロヒトの名を挙げたのは軽い冗談だったが、ヤマオカはそれを逆手にとって木戸を薦めているようだった。ローガンは「ジョージの奴にうまく先手を取られたな」と気がついたが、木戸がどのような人物か、何も知らなかった。急いで起訴状の英語版に目を通してみたが、木戸の経歴も起訴容疑もよくわからなかった。そこでさらにヤマオカから届けられた書類を見たが、木戸の最後の役職が英語で「Lord Keeper of the Privy Seal」と書かれていただけだった。この英語はイギリスで伝統的に使われていた特殊な宮廷用語で、国璽(国王の御印)を管理する役職を意味していたが、その職務の具体的内容はわからなかった。長旅で疲労困憊のローガンはそれ以上木戸について詮索する気力もなく、ベッドに倒れ込むようにして日本での最初の夜を過ごした。

 翌朝8時にローガンがホテルのレストランに行くと、すでにヤマオカは食事を終えて1人で書類を読みながらローガンを待っていた。挨拶もほどほどにして、ヤマオカは裁判の現状と今後の予定の説明を始めた。

 5月3日に裁判が始まったこと、裁判長による裁判関係者の紹介、起訴状の朗読、被告の罪状認否、裁判に関する弁護側からの初期的動議や異議の申立てとそれに対する裁判長の応答など、裁判の序幕ともいえる手続きがすでに行われたこと、本格的な審理は6月4日に開始し、検察側の冒頭陳述に続いて起訴事実の立証が行われる予定であること、弁護側の反論と反証はその後に行われることなどを手短に説明したあと、ヤマオカは怒りを込めて言った。

「大変だぞ。何もかも無茶苦茶だ。裁判を始められる状態ではないのに、しゃにむに始めろというのだ。われわれ弁護人のオフィスは裁判所の建物の中に一応確保されてはいるけど、他は何もかも足りない。秘書やタイピストや通訳・翻訳者などのスタッフが極端に不足している。紙や筆記用具やその他の事務用品も足りない。必要な書籍、特に英語で書かれた文献はほとんどない。時間もない。おまけに、弁護団はまだ1部しか揃っていない。絶望的な状況だよ」

 日ごろ温厚で冷静なヤマオカの口から出たのは、ため息交じりの愚痴と不満だった。「国家の命運と自身の命を賭けて戦った一国の最高指導者を、こんな状態で裁くのは無茶だ」

 ローガンはニューヨーク出発前に東京の悲惨な状況をある程度聞いてはいたが、昨日見た東京の焼け跡のすさまじい風景を思い出しながら、ヤマオカの話をうなずきながら黙って聞いた。

 ヤマオカはそこで話題を変えて、彼が薦める木戸幸一被告について話し出した。

「昨日届けたメモに書いたように、今回の裁判では君に木戸の弁護を引き受けてもらいたいと思っているので、その理由を説明させてくれ。木戸について君がどれだけ知っているかわからないけど、木戸は終戦までの約5年間『内大臣』だった人物だ」

 そのとき、ヤマオカは「内大臣」を「ナイ・ダイ・ジン」と日本語読みでゆっくり発音した。

「確か、英文の起訴状などでは内大臣が『Lord Keeper of the Privy Seal』と訳されていると思うが、それでは意味が通じないだろうね。そもそもアメリカには天皇や国王のような者が存在しないから、天皇内大臣に対応する英語が存在しない。だから、無理やりそれを英語に訳しても、本当の意味は伝わらない。しかも日本の政治の仕組みは非常に複雑で曖昧でわかりにくいから、直訳するとかえって誤解を招きかねない。あえて簡単に言えば、内大臣は常時天皇の側にいて天皇を補佐するアドバイザーのような者だ。木戸はヒロヒトの信頼が厚かったので、天皇の側近ナンバー・ワンとして天皇に対する影響力は大きかったらしい。今起訴されている28人の被告の中では、木戸は東条英機と並ぶ大物だと言われている。実際に、木戸は全被告中で最多の訴因(起訴の対象になっている犯罪行為)について起訴されているのだ」

「木戸が大物だ」と聞いて、ローガンは悪い気がしなかった。

「実は・・・」と言いながらヤマオカはあたりを見回し、声をひそめて話を続けた。「今起訴されている28人の被告の中にヒロヒトが含まれていないことは君も知っていると思うが、ヒロヒトの扱いはまだ最終的に決着がついていないようだ。マッカーサーは日本の占領統治に天皇の存在が不可欠だと考えているので、天皇を裁判にかけたくないと思っている。トルーマン大統領もマッカーサーの考えを支持しているので、アメリカは天皇不起訴でほぼ固まっていると言えそうだ。しかし、連合国の中にはまだ天皇を起訴すべきだと主張している国がある。特に、オーストラリアや中国やソ連天皇の起訴を今でも強く要求しているらしい。だから、この問題はまだ流動的だ。

 他方、天皇の戦争責任問題は日本国民の関心も非常に高い。日本の外務省は天皇が栽判にかけられることはもちろん、裁判所に証人として呼び出されることも、絶対にあってはならないと考えている。だが、この問題は木戸がこの裁判でどのような態度をとるかによるだろうと外務省はみている。そういうわけで、木戸の弁護人が誰になるかに外務省は大きな関心を持っている。俺は内々に木戸の弁護人として君が適任だと外務省に進言しており、外務省も了解している、というより、君が引き受けてくれることを外務省も強く望んでいる。だから、ぜひ君に木戸の弁護を引き受けてもらいたいのだ」

 ローガンは、裁判における自分の役割についてそのような水面下の動きがあることを知らず、初めて聞いて驚き、即座に言った。

「待ってくれ、ジョージ。そういう事情があるのなら、君が木戸をやるのがベストではないか」

「いや、俺は基本的にこの裁判では裏方を務めることにしている。いろんな雑用がたくさんあって、とても特定の被告の弁護をまるごと引き受ける余裕はない。特に、木戸のような大物はとても無理だよ」

 ヤマオカはさらに続けて言った。「ところで、ビル、君は今でもヒロヒトなら引き受けてもいいと思っているのか」

「いや、あれは冗談だよ」

「いずれにしても、木戸を引き受けてくれたらヒロヒトも付いてくるだろうね」

「それはどういう意味だ?」

ヒロヒトは日本国の元首であり、絶対的な最高権力者だったのだから、彼が起訴されようとされまいと、ヒロヒト抜きで日本の戦争責任を裁くことができるはずがない。だから、この裁判がこのままヒロヒト抜きで進んでも、ヒロヒトの責任は必ず栽判でいろいろな形で問題になるだろう。その際、おそらく木戸は身を挺してヒロヒトを守ろうとするに違いない。木戸はヒロヒトを守ることが自分を守ることになると考えているらしいからね。俺が『ヒロヒトも付いてくる』と言ったのは、そういう意味で、木戸を弁護することは必然的にヒロヒトを間接的に弁護することにもなるという意味だよ」

「木戸とヒロヒトの関係は俺にはまだ良くわからないけど、おそらく2人の間には潜在的に多くのconflict(利益相反)があると思うよ。木戸の弁護人としては、ヒロヒトの身代わりに、木戸の首を差し出すことに協力することはできないね」

「それはもちろんだけど、逆に木戸を守るために責任をヒロヒトに押しつけたら、ヒロヒトが裁判にかけられることになり、そうなれば、日本国民の猛烈な怒りをかうことになるだろうね。おまけに、マッカーサーからも彼の占領政策を妨害したと激しいお叱りを受けることになるだろうね」

「そうなると、俺は日本から追放され、そのうえ生きてアメリカに帰ることもできないということか!」

「そうかもね」と言って、ヤマオカはニヤッと笑った。そして2人は顔を見合わせて大声で笑い、ローガンは言った。

「いやはや、えらいことになりそうだね」

「うん。確かに、木戸の弁護は大変だし、難しい舵取りが必要になるだろうね。しかし、君以外にこの難しい役を頼める奴はいないのだ。だから、頼むよ」

「ジョージにそこまで言われたら、断わるわけにはいかないね」

「そこでだが、木戸の日本人弁護人として穂積重威という弁護士がすでに選任されているから、まず彼に会ってもらうのがいいと思う。君に木戸を推薦することは彼にも話してあるから、彼は君からの連絡を待っているはずだ。彼は木戸からアメリカ人弁護士の選任について一任されているようだが、木戸にも会ったうえで3者全員が納得して決めた方が良いだろう。木戸たち被告全員は『巣鴨プリズン』と呼ばれている拘置所に収容されているが、弁護人は収容者に会うことができる。そのあたりのことは穂積弁護士が適当にやってくれるだろう」

 ヤマオカはそこでひと息ついて、さらに続けた。

「参考までに言っておくと、穂積は日本では数少ない英米法に精通した弁護士の1人だと聞いている。英語もしゃべれるらしい。彼は木戸の遠縁にあたり、その関係もあって木戸の弁護を引き受けたらしいが、彼は木戸のほかに、東条内閣で外務大臣を務めた東郷茂徳被告の弁護も引き受けている。外務省が先輩の東郷のために指折りの弁護士を探し出して東郷に紹介したというから、穂積はなかなかのやり手らしい。ただ、2人の被告の弁護を引き受けているので、穂積弁護士は非常に多忙らしい」

「そうか。良くわかった」

 ローガンが同意すると、ヤマオカは穂積弁護士の連絡先をメモに書いてローガンに渡した。

「じゃあ、俺は昨日到着した他の弁護士連中にこれから順次会って、同じような話をしなければならないので、これで失敬するよ」

 そう言って足早に立ち去るヤマオカの後ろ姿を見送りながら、ローガンは思った。戦時中、ヤマオカが2つの母国の狭間で苦しみ悲しむ姿を何度見たことか。今、ようやく戦争が終わり、日米の掛け橋としていきいきと活躍している彼の姿を見ながら、今回は彼の言うことに快く従おうとローガンは思った。

 だが、このときローガンは、自分の前途に途方もない茨(イバラ)の道が待ち受けていることにまだ気づいていなかった。

 

1.2 木戸の弁護を受任

 遅れて来日したローガンは、遅れを取り戻すために急いでやらなければならないことが山積していた。最初にやるべきことは、ヤマオカの薦めに従って、木戸の弁護人である穂積重威に会うことだった。

 穂積弁護士は物静かな紳士だった。木戸幸一に代わって、木戸の弁護を引き受けてほしい旨を丁重に述べたあと、ローガンの質問に答えて、木戸の経歴、容疑、裁判への対応方針等について、ざっと次のように説明した。

 ●木戸幸一は、1889年7月18日に侯爵木戸孝正の長男として東京で生まれた。現在57歳である。父の孝正は、西郷隆盛大久保利通と並ぶ明治維新三傑の一人である元勲の木戸孝允桂小五郎)の妹治子の長男であるが、伯父の木戸孝允の養子になっていた。したがって、戸籍上、幸一は木戸孝允の孫にあたる。幸一の妻はその名を「ツル」といい(幸一はふだん「鶴子」と呼んでいる)、元陸軍参謀総長児玉源太郎の末娘である。幸一とツルの間には2人の男の子がおり、長男は日本銀行に勤務している。次男の孝彦は東京大学法学部を卒業したばかりだが、東京裁判開始後間もなく弁護士になり、幸一の補佐弁護人として父の弁護を手伝っている。このように木戸家は終戦まで日本を代表する名家の1つであったが、終戦直前に東京赤坂の居宅が米空軍の攻撃で焼失し、戦後幸一が爵位内大臣の職を失って収入の道を断たれたうえ逮捕拘禁されるに至って、今、幸一とその家族は経済的にも精神的にも苦しい立場に追い込まれている。

 ●木戸は、京都帝国大学卒業後農商務省に入省し、同省に勤務したあと、1937年から文部大臣、厚生大臣及び内務大臣に就任し、内閣の1員として閣議決定に加わる立場にあった。その後1940年6月1日から終戦直後まで内大臣を務めた。軍歴は一切ない。いずれの職務においても、戦争の開始、作戦、戦闘行為等を所管する立場になかった。しかし、内閣の一員として閣議決定に加わったことや、内大臣として元首である天皇を直接補佐する立場にあったことが起訴容疑になっていると思われる。ご存じと思うが、28人の被告に対する合計55の訴因のうち、木戸は実に54の訴因について起訴されており、これは全被告のなかで最多である。このことから、木戸は天皇の身代わりとして起訴されたのではないかという噂がある。また、彼が太平洋戦争の開戦を決定した東条英機を総理大臣として天皇に推挙したことが起訴の重要な一因とされていると言われている。

 ●木戸は、内大臣として天皇の側近であったことから、起訴されることを早くから予知し、天皇に累が及ばないよう全責任を一身に負い、有罪はもちろん、極刑も覚悟している。ただ、内大臣が罪を被れば陛下が無罪になるというわけではなく、むしろ内大臣が無罪ならば陛下も無罪、内大臣が有罪ならば陛下も有罪とみなされる可能性が高いと理解しており、裁判では無罪を主張するつもりでいる。木戸は自分のこの気持ちを汲んで弁護してくれることを弁護人に希望している。

 ●木戸は、1945年12月16日に逮捕されたあと、サケット検事により合計30回に及ぶ取り調べを受けた。その間、彼は進んで彼の日記を検事に提出した。天皇の平和に対する気持を客観的に伝えるために必要と考えたからであった。日記は1930年(昭和5年)から1945年(昭和20年)まで及ぶ膨大なもので、検事の捜査活動の基本資料とされ、木戸自身に対してはもちろん、他の被告にも甚大な影響を与えることになった。特に、木戸日記は軍人被告に厳しい内容になっていたため、木戸は彼らの強い怒りをかい、拘置所と法廷を往復する被告の送迎バスの中で他の被告たちから激しく罵倒されるなど、被告の中で孤立している。この木戸日記は裁判において検事側の有力な証拠とされると思われるので、弁護人としてもそれに対する十分な備えが必要になろう。

 これらの穂積の話はローガンの心を強く突き動かした。ローガンは即座に木戸の弁護を引き受ける意思があることを穂積に伝えた。

 穂積はアメリカ人弁護人の選任について木戸から一任されていたが、この日の面談について木戸に報告し、改めて木戸の了承を得てローガン宛の木戸の委任状を作成すると述べた。このようにして作成された委任状は、5月25日、ローガンに届けられ、ローガンは正式に木戸の弁護人に就任した。

 ローガンは早速ヤマオカにこのことを伝えた。アメリカ人弁護人の編成を手伝っていたヤマオカからは、感謝と励ましの言葉が返ってきた。 

1.3 木戸と初対面

 5月28日、ローガンは穂積と共に初めて巣鴨プリズンに木戸を訪れた。巣鴨プリズンは東京西巣鴨(現在の東京都豊島区池袋)の東京拘置所をGHQが接収し、戦争犯罪容疑者の収容施設として使っていた。

 木戸は、前年(1945年)の12月6日に自分に対して逮捕令状が出されたことを知り、その日の日記に、「予て期したること、淡々たる気持ちを以て迎う」と書いて、指定された場所に出頭した。奇しくも、その日は彼の結婚記念日だった。それ以来半年近く、彼はそこに収容されていた。

 

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                木戸幸一

 

 会見場に現れた木戸は、丸い眼鏡をかけ、鼻髭をたくわえていた。小柄な体格ながら、背筋をぴんと伸ばした姿に、天皇の側近らしい威厳があった。長い収容生活からくる暗い影が見え隠れするものの、裁判を闘い抜く闘志を失っていなかった。

 木戸は多くを語らなかったが、天皇のために無罪を勝ち取りたい気持ちを力強く述べ、そのための協力をローガンに求めた。木戸が囚われの身でありながら、自分自身のことより天皇の身を案じていることに、ローガンは心を打たれた。

 ローガンはこのところずっと気になっていたことを率直に述べた。

「木戸さん、私はあなたの弁護を引き受けましたが、天皇の弁護まで引き受けたわけではありません。現に、天皇は起訴されているわけではありません。私はまだあなたと天皇の関係を十分理解していませんが、この裁判におけるあなたと天皇の間には潜在的に相反する利害があるように感じています。あなたの弁護人として、あなたの弁護に全力を尽くすのが私の使命であり、その過程で他の人と利害が対立する場面や相反する状況に遭遇した場合には、その人に不利になっても、あなたの利益を優先する義務が私にはあります。たとえその人が天皇であっても同じです。この裁判における私の役目はただ一つです。あなたを守ることです」

 すると木戸は、きっとなって、すぐに強い口調で言った。

「私は常に陛下の御心のままに行動してきたつもりです。陛下と私の間に利害の対立などあるはずがないと思っています」

 これに対してローガンはさらに何か言おうとしたが、一瞬口ごもり、ひと呼吸おいて言った。

「それをお聞きして安心しました」

その日、木戸は日記に次のように書いている。

1946年5月28(火) 晴れ
3時半、運動が終わった直後に呼び出しがあり。穂積氏、ローガン氏を同伴して来られた。ローガン氏はニューヨークの大きな弁護士事務所に属して居られ、過去10数年法廷における被告弁護に当られ、敏腕の評ある人なりとのことなり。年齢44歳にして、物柔き落付きたる人柄なり。

 木戸が受けた印象のとおり、ローガンは態度も話し方も穏やかであり、気配りにもたけていた。面長の顔の前頭部が年齢以上に禿げあがっていたが、それが一層理知的で柔和な印象を与えた。仕事に取り組む姿勢は緻密で、徹底していた。彼は生後間もなく、生まれ故郷のスコットランドから両親と共にアメリカに移住したアメリカ移民一世であり、苦労して弁護士資格を取得した経歴の持ち主だった。その点で、同僚のヤマオカと相通ずるものがあった。 

1.4 日本の統治システムに驚く

 ローガンは直ちに木戸の弁護の準備にとりかかった。

 手始めに、日本の統治の仕組みとその中における内大臣の役割を知る必要があると考え、ヤマオカから貰った大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法)の英語訳を読み始めた。読み進むにつれてローガンの驚きは増していった。ローガンが特に目を引かれたのは憲法の次の規定だった。

 第1条  日本国は万世一系天皇これを統治する。
 第3条  天皇神聖にして侵すべからず
 第4条  天皇は国の元首にして統治権を総覧し、この憲法の条項に依り之を行う。
 第5条  天皇帝国議会の協賛を以て立法権を行う。
 第6条  天皇は法律を裁可しその公布及び執行を命ずる。
 第11条  天皇は陸海軍を統帥する。
 第13条  天皇は戦を宣し、和を議し、及び諸般の条約を締結する。
 第57条  司法権天皇の名に於いて法律に依り裁判所之を行う。

 憲法のこれらの規定を文字通り解釈すると、世襲天皇が元首として日本国の立法、行政、司法の三権の全部を統括し、陸海軍を統帥し、宣戦布告から講和に至るまでの権限を一手に持っていたことになる。しかもその権限は、立法権について帝国議会の協賛を得ること以外に、なんらの制限も設けられていない。加えて、欧米の先進国では、憲法は国の最高権力者の権限の濫用や横暴を防ぐために権力者の権限を縛る条項を設けているのが普通であるが、日本の明治憲法にはそのような規定がないばかりか、逆に「天皇神聖にして侵すべからず」と明記し、万能の神に等しい位置づけをしているのだ。

 戦時中、天皇のためなら死を恐れることなく突撃してくる凶暴な日本兵アメリカ人の恐怖の的だったが、その背後にこのような天皇の神格化があったことをローガンは初めて知った。天皇が神なら、木戸はさしずめ神の使徒だったのか。もしそうだとすれば、自分は神の使徒を弁護することになるのか。ローガンは唖然とした。

 実際に、「天皇は神のような存在である」という日本人は多かった。「天皇は君臨すれども統治せず」だったという日本人も少なくなかった。ではそれは具体的にどういう意味かとローガンが問うと、その返事は千差万別だった。その中で特にローガンの印象に残ったのは、ある老獪な日本人政治学者の次のような話だった。

 憲法が規定するとおりに天皇が表立って国を統治すれば、必ず天皇に不満を持ち、その失政の責任を追及する者が現れる。そして、天皇は現実政治の荒波に揉まれ、その権威が傷つき、地に落ちる危険がある。万世一系天皇を永遠に元首としていただく日本では、天皇の権威が傷つくことは絶対に避けなければならない。だから、天皇はあくまでも神の如き超世俗的な絶対的権威を持ち続ける必要がある。そのため、現実の国の統治は天皇の権威と名のもとに世俗の者たちが行うことにしている。もし国の統治に誤りがあれば、その責任はそれを行った世俗の者たちが負い、天皇に責任が及ぶことはない。これが日本の天皇制の真髄である。

 ローガンはこの老学者の説明がどこまで正しいかを判断できる知識を持っていなかったが、このことが妙に頭に残っていた。仮に老学者の説明が正しいとしても、国の最高指導者の戦争責任が問われている今、憲法上国の統治権のすべてを独占していながら、軍閥の暴走を防ぐための有効な手立てをとらなかった天皇は不作為の責任を問われないのか。天皇の身代わりに起訴されていると言われる側近の木戸の責任はどうなるのか。その判断の法的基準は何か・・・。その基準はどこに規定されているのか・・・。ローガンの頭の中を次々と疑問が駆け巡った。

 ローガンが不思議に思うもう1つは、戦争責任を問われて起訴されている28人の日本の元指導者たちが、今でも天皇を敬い、天皇の身代わりに裁かれることに公然と不満を述べる者がいないことだった。それだけではない。彼らはみな、天皇が被告としてはもちろん、証人としても、この裁判所の法廷に引き出されることを何より怖れ、身を挺してそれを防ぐことを堅く誓っているというのだ。なんという不思議な統治システムであるかと、ローガンはただ驚くばかりだった。

 不可解なことに、憲法のどこにも、総理大臣に関する規定も、内閣に関する規定も、内大臣に関する規定も、まったく見当たらないのだ。わずかに第55条に、「国務各大臣は天皇を輔弼(ホヒツ)し其の責に任す」と規定されているだけだった。もし「天皇は君臨すれども統治せず」が事実ならば、天皇に代わって誰がどのようにして国を統治すべきかについて憲法が定めていなければならないはずだが、この最も基本的なことが憲法のどこにも規定されていないことがローガンを苛立たせた。 

1.5 強引な起訴状

 次に、ローガンは起訴状を読んで木戸の起訴容疑を確認することにした。起訴状は28人の被告全員に対してまとめて1通だけ作成されていた。そのため、起訴状は付属書を含めると膨大であり、個々の被告の容疑の全体を知るには起訴状の中から当該被告について触れられている部分を1つずつ拾い上げ、それらを統合して再構築する必要があるが、その作業は容易でなかった。

 さらに日本人の多くが驚いのは、起訴状が1928年(昭和3年)(張作霖事件勃発の年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日(降伏文書調印の日)までの17年半余りの長い期間中に被告たちが行ったとされる犯罪行為(訴因)を裁判の対象にしていたことだった。これはまるで日本の昭和史全体を裁判の俎上に載せているに等しい。日本人の多くは、真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争だけが裁判の対象にされると思っていたのだが。

 起訴状は対象とする犯罪を次の3つの類に大別したうえで、全部で55の訴因を記述している。

 第1類 平和に対する罪(訴因第1から第36)
 第2類 殺人(訴因第37から第52)
 第3類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪(訴因第53から第55)

 これらの罪のうち、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は、東京裁判に先立ってドイツで行われているドイツ・ナチ関連被告に対するニュルンベルグ裁判のために制定された裁判所憲章において採用されたものを、そのまま東京裁判用の裁判所憲章に取り入れたものだった。詳しくは後で述べるが、これらの罪は戦後に制定された裁判所憲章においてはじめて処罰の対象とされたものであり、その点で裁判所憲章はいわゆる「事後法」ではないかという重大な疑義があった。加えて、「平和に対する罪」も「人道に対する罪」も、定義されていないためその意味が不明瞭であり、具体的に被告のいかなる行為がそれらの罪に当たるかが極めて曖昧だった。

 さらに起訴状は、上記期間において「全被告は他の諸多の人々と共に・・・一個の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、教唆者又は共犯者として参画した」と述べているが、その内容も漠然としていて具体性に欠けていた。行動を共にしたとされている「他の諸多の人々」が誰を指しているか、「計画または共同謀議」とは具体的にどのようなものかも特定されていなかった。

 17年半の長い年月の間に日本が世界中で行った戦争に対する28人の被告の責任を一網打尽に起訴して裁くためには、このような書き方をせざるをえない事情は理解できないわけではないが、被告と弁護人にとっては、いつ、どこで、誰と誰が、何をしたことが、どのような犯罪に当たるとして起訴されているかがまったく明らかにされていないのに等しく、これでは反論のしようもないと言わざるをえなかった。

 55の訴因の1つ1つが独立した犯罪を構成し、訴因ごとに当該訴因につき訴追されている被告の氏名が記載されていた。木戸は、これら55の訴因のうち54の訴因について訴追されており、訴追されていないのは訴因第18の「中華民国に対する侵略戦争の開始」のみであった。それが訴追対象から除かれたのは、その時期(1931年)に木戸は内大臣府秘書官長であり内閣の一員でなかったので、中国に対する侵略の決定に加わる立場になかったためと思われる。

 軍歴がまったくない木戸がこれほど多くの戦争犯罪について訴追されているのは不可解だが、世間で噂されているように、元首であった天皇の身代わりとして木戸が訴追されていることを疑わせた。その真偽は別として、ローガンとしては、木戸が訴追されている54の訴因の1つ1つについて、記載された事実の存否、それに対する木戸の関与の有無、関与があった場合の関与の具体的事実等を詳しく調査する必要があった。 

1.6 苦悩するローガン

 結局、憲法も起訴状もローガンの準備作業の有力な手がかりとなるものを与えてくれなかった。それだけでなく、ローガンの前には、数多くの難題が待ち受けていた。

 第1の難題は、木戸が全被告中最多の54の訴因について訴追されていたため、木戸の容疑が実に1928年から1945年までの17年半の長い年月における日本国内外のさまざまな政治、外交、取決め、交渉や戦闘行為に及んでいたことであった。しかし、ローガンはそれまで日本の歴史や政治に格別関心を持っていなかったので、ゼロから日本の歴史を勉強する必要があった。ところが、彼は日本語をまったく解さなかったから、英語で書かれたものに頼らざるを得なかったが、彼が利用できる英語の文献や資料は驚くほど少なかった。

 第2に、木戸は「内大臣が無罪なれば天皇も無罪、内大臣が有罪なれば天皇も有罪」との考えに基づいて、天皇のために自身の無罪を獲得することを自分の使命と考え、ローガンにすべての訴因について無罪を獲得することを求めていた。それは木戸一人の願いであるだけでなく、多くの日本人の思いでもあったから、その重圧はローガンに計り知れないストレスを与えた。ローガンが来日した翌日にヤマオカが言った「木戸の弁護人を引き受ければ天皇を無罪にする責任まで負うことになる」という意味が今になってひしひしと伝わってきた。

 第3に、そのなかでもローガンを悩ませたのは、木戸が終戦までの約5年間その任にあった「内大臣」の地位、職責、権限、責任等を的確に知るすべがないことだった。すでに触れたが、内大臣の任命や職責は当時の憲法にまったく規定されておらず、わずかに内大臣府管制(明治40年皇室令第4号)の第2条に「内大臣は親任とす。常侍輔弼し内大臣府を統括す」と規定されているだけだった。「内大臣」は「大臣」の名が役職名に含まれているものの、内閣の一員ではなく、宮中組織の中の内大臣府を統括する立場にあるとされているが、日本の長い宮廷史の中で生まれて変遷を経てきた宮廷組織における内大臣の役割は、日本人にとっても謎の多い存在だった。その実態は時々の天皇を取り巻く人々の勢力関係や時代環境に加えて、個々の天皇の個性など多くの要因によって変化してきたというから、外国人であるローガンにはまるで雲を掴むようなものだった。

 第4の難題は、膨大な木戸日記が検察側に提出され、検事団がそれを捜査や立証活動の重要な手引きとして活用していることだった。当然のことながら、木戸を弁護するためにはローガンもその内容を十分把握しておく必要があった。そのためには膨大な木戸日記を英語に翻訳してもらう必要があったが、その作業は困難を極めた。

 幸いなことに、このころ木戸の次男の孝彦が弁護士の資格をとって父の補佐弁護人になり、全力を挙げてローガンを助けてくれたことだった。孝彦は、木戸日記をはじめ、木戸が拘置所の中で書き綴った見解書やメモ、ローガンが要求するその他多くの資料の収集と解説、日々増え続ける膨大な量の書類の翻訳など、父とローガンのために献身的に働いてくれた。それによってローガンがどれほど助けられたことか!

 孝彦は、当時ローガンが直面していたこれらの問題について、「東京裁判木戸幸一」(「木戸幸一日記:東京裁判期」489頁以下)の中で次のように書いている。

父の容疑の中心である内大臣という職務が極めて理解しがたいものであること、天皇との関係が真に微妙であること、最も多くの訴因に対し訴追されていること、そして、「木戸日記」という大部の文書を既に検察側に提出していること、という特殊な状況下において、問題は如何にしてこれらの複雑かつ難解な状況をローガン氏に理解させるかにあった。(中略)既に述べたごとく、父の立場の特殊性と、内大臣の無罪は天皇の無罪に通じるとの米国流の法理のもとに、裁判対策としては徹底して個人弁護に終始する方針をとったため、弁護人としての私は、他の被告の弁護人の方々とは離れ、専らローガン氏に密着し同氏の理解を深めることに努力した。

 ローガンは、孝彦の助けを得ながら、日本の歴史や制度をゼロから勉強した。検事たちの虎の巻とされた木戸日記も翻訳文を繰り返し読んで、当時の木戸の日々の行動と心情と彼を取り巻くその時々の政治状況などを理解しようと努めた。木戸日記の中で理解できない部分があれば、その都度木戸に尋ねて彼の真意を確認した。木戸日記はローガンにとっても日本の昭和史を学ぶ恰好の教材になった。

 木戸自身も、内大臣の職務についてローガンの理解を助けるために次のような説明をメモに書いてローガンに渡した。  

 内大臣の職務の解釈は我国法制の中で最も判り難いものの一つであるが、わかりやすく説明すれば、通俗的ではあるけれども、「天皇の御相談相手」ということだと思う。その起源は国家の制度機構上の必要によって設けられたものでなく、当時人事上の必要より設けられたのではないかと思う。明治18年我国において始めて近代的内閣制度が創設されるに当って、それまで永く太政大臣内閣総理大臣に該当す)だった三条実美公を据える地位に困って、内大臣の地位が設けられたと伝えられている。
 また、我国の憲法には内閣更迭の際の後継首相の奏請については規定がなく、これは一つの欠陥と言えば言えるが、明治時代より天皇が元老に御諮りになるということで支障なく行われてきたところ、漸次元老が死亡せられて遂に西園寺公1人となられ、同公は齢90になんなんとするに及んで自ら辞退する意思を表明されるに至り、ここに差当りの便法として湯浅内大臣の時代より内大臣に御下問と言う方法をとるに至った。この役割を為すに至って内大臣が国務を分担するに至ったと解するは事実に反する。

 このように、内大臣を務めた木戸本人がその地位と職務を説明するのに苦慮するほど、きわめて曖昧なものだった。ただし、内大臣の職責に関する木戸の説明は、内大臣としての法的責任を追及されている身として、自身の職責をできるだけ曖昧で小さく見せたいという彼の保身の気持ちの影響を受けている可能性があったから、ローガンとしては木戸の説明をそのまま受け入れることはためらわれた。

 このほかにも、木戸はローガンの多数の質問に対してその都度懇切に書面で返事を書いたうえに、裁判の過程で彼が随時気づいたことを書面にまとめてローガンと穂積弁護人に渡して彼らの弁護活動の参考に供した。このような関係者の協力を得て、当初まるで空を掴むように思えたローガンの作業は少しずつ前進していった。

 だが、最大の障害は言葉の壁だった。ローガンと共に木戸の弁護を担当する穂積弁護人も木戸孝彦も当時の日本人としては英語の理解力は随分高かったが、彼らの助けを得ても外国人には神秘的ともいえる日本の政治システムを理解することは容易でなかった。互いに理解できないことによる苛立ちが、チーム内の人間関係を危機に追い詰めることも稀ではなかった。日本人たちは、どうせアメリカ人に日本のことがわかるわけがないという投げやりの気持ちになる一方、アメリカ人はどうして納得できるまで根気よく説明してくれないかと苛立ちがつのるのだった。

 このような状況の中でローガンを支えていたのは、弁護士としての意地とプライドだった。それは、ひとたび仕事を受任したからには依頼者のために全力を尽くさなければならないというアメリカの弁護士倫理の下で厳しく鍛えられた弁護士魂とでもいうべきものだった。依頼者が自国民であろうと、母国と戦った敵国のリーダーであろうと、やるべきことに違いはなかった。 

1.7 開廷直後に大きな波乱

 法廷が再開される6月4日が来た。この日から、検察側の本格的な立証活動が始まる。ローガンにとってはこの日が初出廷になる。

 だが、ここでいったん時計の針を戻して、ローガンが来日する前に開かれた裁判の序幕部分の出来事を簡単に説明しておこう。

 東京裁判は1946年(昭和21年)5月3日に開廷された。初日は午前10時開廷の予定が遅れて、11時になっても正面の裁判官席は空席のままだった。その間、28人の被告は緊張した面持ちで被告席で待たされた。日本と戦った11の国から1人ずつの裁判官が出席することになっていたが、11時すぎに現れたのは9人だった。インド代表とフィリッピン代表の裁判官はまだ来日していなかった。開廷が宣せられたのは11時20分だった。

 中央の裁判長席に座ったのはオーストラリア代表のウィリアム・F・ウエッブだった。彼は対日強硬派の人物と知られており、天皇の訴追を求めるオーストラリア政府の意向に基づく人選とみられていた。また、マッカーサーが太平洋戦争の初期に日本軍の攻撃を受けてフィリピンを脱出して一時オーストラリアに滞在していた時にウエッブの世話になったことが、裁判長任命の隠れた理由ではないかとの噂もあった。

 11の国から派遣される裁判官は、それぞれ異なる法制度のもとで教育を受け実務経験を積んだ者たちであった。そのうえ、戦争犯罪に関する国際刑事裁判に適用される国際法は極めて未成熟であったから、それらの裁判官をひとつに束ねる確かな法規範は存在しないに等しかった。それだけに裁判長を務めるウエッブには卓越した統率力が求められたが、彼の力量は当初から疑問視されていた。

 開廷直後の裁判長の第一声は「被告が日本の最高の地位にあった者たちであるが、その地位にかかわらず、彼らを特別扱いしない」ことを強調したものだったが、法廷に詰めかけた報道陣の評価は低かった。

 

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  法廷で指揮を執るウエッブ裁判長


 続いて、国際検事団を率いるアメリカ人ジョセフ・キーナン主席検察官が起立して、各国の代表検事を紹介した。キーナンは米国司法省の要職の経歴を持ち、ギャングの取り締まりに辣腕をふるったことで知られていた。巨体から発する大声と人を威圧する風貌が敵国の戦争犯罪人と対峙するのに適任と考えられたようだ。

 

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     キーナン主席検事

 

 キーナンは早々と1945年10月6日に40人近いアメリカの検事や補助者を連れて来日し、日本の戦争犯罪人の調査に着手した。他の連合国もそれぞれ参与検察官を任命することができたので、イギリスやその他の連合国からも続々と検察官が到着し、総勢50人を超える法律家と数百人の補助スタッフがキーナンの指揮下に入り、GHQの組織に組み入れられ、その支援を受けることになった。

 国際検事団とはいえ、人数の点でも権限においても、アメリカ人検事が他を凌駕しており、検事団はマッカーサーの強い影響下に置かれていた。検事団は検事及び補助者の人数においても、利用できる設備その他の資源においても、弁護団よりはるかに恵まれていた。GHQの支援のもとに、日本人関係者の取り調べや証拠の押収も自由に行うことができた。

 一方の弁護団は、各被告が選任する日本人弁護士のほかに、各被告に1名のアメリカ人弁護士をつけることが日米間で合意されていたが、ローガンを含むアメリカ人弁護士の多くはこの時期にはまだ来日しておらず、アメリカ人弁護人の出席者は在日米軍に所属する6人だけだった。

 日本人弁護士に加えてアメリカ人弁護士を付けることになった事情は必ずしも明らかではないが、東京裁判アメリカ式の裁判手続きに従って英語を主として使って行われることから、それに不慣れな日本人弁護士を補佐するためにアメリカ人弁護士の派遣を日本側が要請して実現したという説が有力である。先に触れたドイツの戦争犯罪人に対するニュルンベルグ裁判の弁護はドイツ人弁護士だけで行われていたが、東京裁判を「文明の裁き」と位置づけるアメリカの意向に沿い、被告の権利をより手厚く保護する姿勢を示すことによって内外にアッピールしたいとするマッカーサーが日本側の要請を受け入れたと言われている。

 だが、弁護団の人員も装備も検事団のそれとは比較にならないほど貧弱だった。彼らを補助する調査員、秘書、通訳、翻訳者、タイピスト等の人的スタッフは極めて限られていたうえ、日々の仕事に必要な紙や鉛筆などの資材も自由に手に入らないほどだった。被告たちは終戦まで裕福な暮らしをしていたが、戦後収入源と家財の大半を失って日々の暮らしにも困窮しており、弁護活動に必要は費用を負担する余裕はなかった。

 2日目の法廷では、起訴状の朗読が行われた。起訴状は事前に関係者に配布されていてその内容は知られていたので、淡々と行われた。

 5月6日に開かれた3日目の法廷で最初の波乱があった。裁判長が被告の罪状認否に入ろうとしたとき、日本人弁護団副団長の清瀬一郎(東条被告担当)が発言を求めて立ち上がった。前日にジョージ・ファーネス弁護人(重光被告担当)から秘策をアドバイスされていたのだ。清瀬は古びた背広を着て、擦り減った兵隊靴を履き、小柄な身体の背を伸ばすようにして発言した。

「裁判長、その前に動議がございます。裁判長に対する忌避の申し立てでございます。罪状認否が行われる前にお許しをお願いしたいと存じます」

 裁判長の「簡単に述べてください」の言葉を得て、清瀬は裁判長が戦後間もなくニューギニアにおける日本軍の不法行為について調査し、日本軍がラバウル攻略に際して付近の住民約150人を虐殺したとの報告書をオーストラリア政府に提出しており、そのような経験を有する者は本件の裁判官として不適当だから忌避すると述べた。

 そこまで聞くと、裁判長は清瀬弁護人のさらなる発言を抑え込んで休憩を宣告した。休憩後、ニュージーランド代表のノースロフト判事が裁判長席に座り、次のように述べて清瀬の申し立てを却下した。

「裁判所憲章第2条に基づき、連合国軍最高司令官マッカーサー元帥により任命されたのであるから、どの判事も欠席させることはできない」

 しかし、この論理がまかり通れば、マッカーサーが任命した裁判官はどのような利害関係があっても忌避されないことになり、割り切れない気持ちを抱いた者が多かった。

 このあと、ウエッブが再び裁判長席に戻り、被告の罪状認否に進んだ。最初はどのように認否すべきか戸惑った被告たちも、アルファベット順に最初に荒木貞夫被告が「無罪であります」と述べたのに続いて、順次被告全員が「無罪」を主張した。これは、事前にアメリカ人弁護人が被告たちを説得してやっと言わせたのだったが、国民からは責任逃れの卑劣な態度だとして被告を非難する声があった。

 5月13日に開かれた4回目の法廷で、清瀬弁護人が再び立ち上がり、当裁判所は起訴状に含まれている訴因について裁判を行う管轄権(権限)を持っていないという動議を申立てた。それは「妨訴抗弁」と呼ばれるもので、起訴そのものが不適法であるから、起訴内容の審理を行うまでもなく、直ちにその全部又は一部を却下すべきだというものだった。その根拠として清瀬が主張したのは、日本が降伏に際して受諾したポツダム宣言の次の規定だった。

俘虜を虐待せる者を含む、いっさいの戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えられるべし(第10条)。

 東京裁判はこの規定に基づいて行われているが、そこでいう「戦争犯罪人」とは、ポツダム宣言が発せられた時点で存在していた国際法において「戦争犯罪」とされていた罪を犯した者に限られるが、起訴状に記載されている「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は、当時の国際法のもとで「戦争犯罪」とは考えられていなかったから、当裁判所はそれらの罪について起訴を受理して裁判する権限を持っていないというのだ。そして、「平和に対する罪」も「人道に対する罪」もポツダム宣言受託後にマッカーサーがこの裁判を行うために制定した裁判所憲章において初めて戦争犯罪とされたものだから、裁判所憲章は事後法であり、事後法に基づく裁判は許されないと主張した。

 さらに、そこでいう「戦争犯罪」は日本がポツダム宣言を受諾した1945年(昭和20年)7月26日時点で日本と外国の間に存在していた「戦争」に係る犯罪を意味しているが、それに該当する戦争は太平洋戦争だけである。しかし、起訴状はそれ以前の満州事変などに関する訴因を含んでおり、当裁判所はそれらに関する訴因についても管轄権を持っていないから、それらの訴因はいずれにしても直ちに却下すべきだと主張した。

 この動議に対して、キーナン主席検事は昼食をはさんで3時間に及ぶ反論をしたが、その骨子は1928年のパリ不戦条約等においてすでに「侵略戦争」が禁止されているから、弁護人が主張する事後法に当らないというものだった。

 しかし、不戦条約は自衛行為を禁止していないことや、国家間の取決めにすぎず、個人に刑罰を課していないことなどからキーナンの主張には問題があった。

 次いで、イギリス代表のコミンズ・カー検事が発言台に立った。彼の反論の要旨は、ポツダム宣言の規定は戦争犯罪人を裁判にかける権利を制限するものではなく、如何なる国家も戦争犯罪人を裁判に付す固有の権利を持っているというものだった。さらに、次のように述べて弁護側の主張を批判した。

「弁護側の弁論を聞いていると、日本がポツダム宣言を受諾したのは誤解によるか、裁判所憲章が『平和に対する罪』を処罰の対象に含めたのが背信行為だと言っているようである。もし日本政府に『戦争犯罪人』の意義について何か疑念があったのなら、すみやかに質問することにより、その疑いをはらすことは簡単にできた。実際に、彼らは天皇の地位につき質問し、すみやかに回答を受けたのである」

 これに対して清瀬は自身の動議の根拠をさらに続けて述べようとしたが、それをさえぎって、ウエッブ裁判長は動議の討議を打ち切り、強引にその日の法廷を閉じた。

 東京裁判の冒頭から裁判の不当性を突いて裁判長に立ち向かった清瀬弁護人は、弁護士のかたわら大学講師を務めたあと政界に進出し、衆議院副議長などの要職を歴任したが、1946年公職追放となって政界から退き、追放中にこの裁判の日本人弁護団の副団長を務めていた。この裁判終了後再び政界に復帰し、文部大臣、衆議院議長等に就任した。戦前から戦後に跨る時期において、日本の司法界を代表する人物の一人であり、硬骨漢として知られていた。

 木戸はこの日の日記に次のように書いている。  

 1946年5月13 (日)  雨曇
 8時に巣鴨プリズンを出発、市ヶ谷の法廷に行く。今日、裁判所の構成の問題につき、清瀬弁護士の弁論及びキーナン主席検事と英国のコミンズ・カー氏の演説あり。5時迄かかった。清瀬氏も今日はなかなか良くやった。 

  翌14日の第5回目の法廷で、アメリカ人弁護人ジョージ・ファーネス(重光被告担当)とベン・ブルース・ブレィクニ―(梅津被告及び東郷被告担当)が発言台に立ち、前日の清瀬の動議を補足する弁論を行った。この時、ファーネスは陸軍大尉、ブレィクニ―は陸軍少佐の現役のアメリカ軍人であり、GHQの一員として日本に駐在していたことから東京裁判弁護団に加わっていた。

 まず、ファーネスが、この裁判所の裁判官が全員戦勝国であり訴追国である国々の代表者によって構成されていることはこの裁判の構造的欠陥であるとして次のように述べた。

「この裁判所の裁判官は、日本に勝利した国々の代表者であるから、法律に適合した公正な裁判は期待できません、(中略)これらの諸国は被告が有罪であると確信して裁判を受けさせるべく起訴したことは疑う余地がありません。そうでなければ、被告たちは起訴されなかったはずであり、この裁判も開始されなかったであろう。(中略)この裁判では、勝者が敗者を裁くことが当然とされているが、それは誤りであり、中立国の代表者によって裁かれるべきです」

 次いで発言台に立ったブレィクニ―弁護人は米軍の軍服を着ていた。彼は、戦争を裁くことの不条理を鋭く突いて、次のように述べた。

「戦争は犯罪ではありません。なぜなら、戦争の開始や終了にあたり何をすべきかについて法律の規定があること、また戦争中に何をすべきかを法律が定めていることは、戦争が合法的であることを意味しています。もし戦争が非合法であれば、それらの法律は無意味だからです。
 次に、戦争は国家間の争いであり、個人の行為ではないので、個人が処罰されるべきではありません。また、国際法上、『正しい戦争』と『正しくない戦争』の区別は存在しておらず、誰も特定の戦争が正しいとか、合法的であるかについて権威をもって決定することはできません。いまだかつて、戦争が法廷において犯罪とされたことはないのです。だから、戦争における殺人は殺人罪にはなりません。合法化された殺人がどれほど不快で嫌悪すべきものであっても、個人がそれについて刑事責任を負うことはないのです。もし真珠湾攻撃が4千人の殺人罪になるとすれば、広島はどうなるのか。我々は、広島に原爆を投下した人の名前、その作戦を計画した参謀長、そしてその攻撃に責任ある国の元首をよく知っている。彼らは殺人をしたことを気に病んでいるでしょうか。そうではあるまい。それは、その行為が殺人罪にあたらないからです」

 この裁判の当時、日本ではGHQによって厳しい言論統制が行われており、原爆投下の是非に触れることはタブーであった。それをアメリカの軍服を着た現役の軍人であるアメリカ人弁護士が公開の法廷において公然とそれを取り上げたのである。そして、戦争における殺人が殺人罪として個人が処罰されるなら、原爆を投下して無抵抗の一般市民を大量に殺害したアメリカの関係者は太平洋戦争における最も残虐な殺人犯として処罰されるべきだが、それがなされないのは、戦争における殺人が犯罪に当らないからだというのだ。

 この発言部分はなぜか法廷で日本語に同時通訳されず、日本語版の速記録にも記載されず、「以下通訳なし」と書かれている。しかし、ブレィクニ―のこの爆弾発言は直ちに日本の内外に知れ渡り、多くの国の人々に大きな衝撃を与えた。

 アメリカ弁護士協会の機関誌「アメリカン・バー・アソシエーション」(American Bar Association)の1946年8月号は、ブレィクニ―の発言を取り上げ、依頼者の弁護のために、また法に基づいて正義を執行するために、弁護士が主張し得るすべてを主張するという弁護士の職業的伝統が見事に実践されたとして、彼の弁論を称賛している。

 この日のファーネスとブレィクニ―の発言は、それまで敵国アメリカの弁護士が日本の戦争指導者を真面目に弁護するはずがないと冷ややかな目で見ていた一部の被告や日本人弁護人を驚かせ、「彼らも案外やるじゃないか」という見方に変えさせた。

 前日とこの日に、清瀬、ファーネス、ブレィクニ―の三人の弁護人が申立てた動議は、この裁判の正当性を根幹から揺るがす重大な問題を指摘するものだった。もしこれらの動議が認められれば、このまま裁判を続けることは許されなくなるものだった。

 しかし、ウエッブ裁判長は、3日後の5月17日の第7回法廷で、あっさり弁護人の動議のすべてを却下し、「その理由は将来告げる」と述べただけであった。

 ところが、その後の裁判手続きの中でも、裁判所はこの動議の却下の理由を述べることはなかった。わずかに、審理終了後に申し渡された判決文において、次のような簡単な理由が記載されただけだった。

1946年5月に本裁判所は弁護人の申立てを却下し、裁判所憲章の効力とそれに基づく裁判所の管轄権とを確認し、この決定の理由は後で言い渡すであろうと述べたが、その後にニュルンベルグで開かれた国際軍事裁判所は1946年10月1日にその判決を下した。同裁判所は他のことと共に次の意見を表明した。裁判所憲章は戦勝国の側で権力を恣意的に行使したものでなく、その制定の当時に存在していた国際法を表示したものである」と。当裁判所はニュルンベルグ裁判所の以上の意見と、その意見に到達するまでの推論に完全に同意する。 

  東京裁判の裁判官は、日米弁護人たちが提起したこの裁判の正当性に関する重要な問題について、自ら判断することなく、ドイツの戦争指導者を裁いたニュルンベルグ裁判所の裁判官の意見に盲従することになるのだ。この裁判を振り返ってみると、裁判の前哨戦が始まった直後に裁判長がこの重要な問題を理由を告げることなく却下したことによって、その後この裁判が誤った道を突き進むことになったと言わざるを得ない。裁判長がこの時点でなすべきだったことは、弁護人の動議に十分検討すべき重要な問題が含まれていることを率直に認め、それに対する裁判所の判断をひとまず保留し、今後の審理の過程で検察・弁護の双方からこの問題に関する追加の主張と証拠の提出を許し、それらが出尽くした時点で裁判所の判断を示すべきであったと悔やまれる。このあとも、弁護人側は管轄不存在の主張を繰り返すのだが、裁判長はその問題はすでに却下済みだとして強引に弁護人の主張を封じ込め、この裁判の主要な争点をわずか2日間の論議によって葬り去ったことは惜しまれてならない。

 ちなみに、後日「平和に対する罪」と「人道に対する罪」が事後法であるとして被告全員を無罪にすべきとする強硬な意見を述べるインド代表のパル判事は、この時まだ来日しておらず、動議却下の決定に加わっていなかったことに注目すべきである。

 5月17日の法廷の最後に、裁判長は6月3日まで休廷すると宣言して終えた。これでこの裁判の序幕が降りた。

 ここまでが、遅れて来日したローガンたちアメリカ人弁護人が欠席のままで行われた法廷での出来事の要旨である。そして、6月3日から再開される法廷で、いよいよ被告に対する起訴事実について検察側と弁護側の本格的な論争と立証合戦が始まるが、それは検察側による起訴事実の立証から火ぶたが切られることになる。 

1.8 弁護団のごたごたが続く

 本格的な法廷論争の開始を目前にして、弁護団の編成と弁護方針の確立が急がれた。5月17日にアメリカ本国からローガンたちアメリカ人弁護士が到着したことによって弁護団の顔ぶれは一応揃ったが、その後も一部のアメリカ人弁護士が待遇に不満を述べて帰国するなど、ごたごたが続いた。

 日本人弁護人からは弁護団として弁護の基本方針を確立すべきであるとの声があがり、高橋義次弁護人(嶋田繁太郎被告担当)から次の2項目を基本方針とするよう提案がなされた。
 
 ●天皇にご迷惑をかけないこと。特に、天皇が被告としても証人としても出廷されるようなことは絶対にしないこと。

 ●国家弁護を第1とし、個人弁護は2の次にすること。日本国が侵略国とされることはしないこと。

 この提案に対して、軍人被告を担当する日本人弁護人から大きな異論は出なかったが、文官被告の弁護人の中には反対する者がいた。一方、アメリカ人弁護人のほとんどは個人弁護を強く主張して、日米弁護団間に弁護方針について基本的な意見の相違があらわになった。もっとも、裁判が進行するにつれて、どの弁護人も自分の依頼者の個人弁護を主とするようになり、この意見の対立は時間の経過によって自然に解消に向かった。


第2章 検察の立証始まる

2.1 ローガン初出廷

 予定どおり、6月3日に法廷が再開された。この日がローガンにとって最初の出廷日となった。

 法廷は報道関係者や傍聴人で満員だった。ローガンは被告席のすぐ前の弁護人席に座って、こみあげてくる興奮を抑えるためしばらく目を閉じた。世界の注目を集める世紀のドラマに参加している実感が次第に湧いてきた。

 間もなく被告たちが列を作って入場した。28人いた被告が26人に減っていた。初日の法廷で東条英機被告の頭を叩いて精神異常が疑われた大川周明被告と、急病で療養中の元外相の松岡洋右被告の2人が欠席していた。松岡はこのあと6月27日に病死した。

 ローガンは被告席の木戸を見つけて目で合図を送った。木戸も目で答えた。被告たちはこれまでの法廷の経験から格別緊張している様子もなく、くつろいだ姿勢で裁判官の入廷を待っていた。

 ローガンは被告席の人たちを見まわした。わずか一年足らず前まで、卑劣な野蛮人としてあれほど憎んでいた日本の最高指導者たちがすぐそばにいた。いま近くで見ると、意外なほど平凡な人たちばかりだった。この人たちが母国アメリカに戦争を仕掛けた国の最高指導者だったことが嘘のように思われた。

 我に返ってローガンはいつもの平常心に戻り、この日の法廷で予定されている手続きを再確認した。栽判に臨むための準備はまだまだ不十分だったが、今日一日を乗り切るための方策を再確認しておく必要があった。
間もなく裁判官たちが入廷し、午前9時半に開廷が宣せられた。最初に、その日初めて出廷したローガンたちアメリカ人弁護人が1人ずつ紹介された。ローガンも木戸の弁護人として紹介された。

 その後、弁護人側から事前に提出していた審理手続きの延期申請について、ブレィクニ―がその理由を説明した。弁護人、特にアメリカ人弁護人にとって、裁判の準備が致命的に遅れていた。ローガンにとっても、先に述べた事情もあって時間はいくらあっても足りなかった。裁判の進行をもう少しゆとりあるものにして貰いたいというのは弁護人たちの切実な願いであった。だが、栽判の進行を急ぐ裁判長はにべもなく延期申請を却下した。

 その後、栽判手続きに関するいくつかの問題についてやり取りがあっただけで、ローガンの最初の出廷日は大きな出来事もなく終わった。 

2.2 傲慢だった主席検事の冒頭陳述 

 翌6月4日から検察側の立証が始まった。

 最初にキーナン主席検事が発言台に立って冒頭陳述を行った。冒頭陳述は、裁判において検察が立証しようとする被告の犯罪事実を具体的に特定し、それを立証する方法に関する検察の計画を明らかにすることを目的として行われるのだが、約2時間50分に及んだキーナンの冒頭陳述は次のように傲慢さと思い上がりに満ちたものだった。

この裁判手続きを始めるにあたって先ずその目的を明らかにします。我々の目的は正義を実現することであり、戦争被害の防止に寄与することにあります。裁判長閣下、これは普通の裁判ではありません。被告らは文明に対して宣戦を布告し、民主主義と自由を破壊しようとしたのです。彼らの暴挙に対して、我々は今ここで世界を破滅から救うための断乎たる闘争を開始したのです。(以下略)

 被告らを文明と民主主義と自由の破壊者だと断じ、裁判によって世界を破滅から救い、正義を実現するというのだ。しかし、勝者や征服者に見られがちなこのような思い上がりこそが裁判を歪め、文明と民主主義を破壊する危険をはらんでいることを、我々はこの裁判を通して知ることになる。

 余談だが、冒頭陳述終了後間もなく、キ―ナンはアメリカに帰国し、数週間東京を留守にした。彼の留守中に、アメリカやイギリスから来た検事たちがキーナンの解任をマッカーサーに要求するという騒動があった。キーナンは大酒飲みで、自己中心的で、感情的だというのが解任要求の理由だった。また、キーナンは法廷の主導権を巡ってウエッブ裁判長と激しくやり合うことが多かった。そのたびに法廷は苛立ち、裁判の進行が遅れた。しかし、マッカーサーはキーナンの解任に同意しなかった。

 6月13日、法廷において検察による起訴事実の立証作業が始まった。その冒頭に、検察は審理に必要または関係すると考えられる国際条約、日本の法令、日本の統治機構などに関する文献や解説書等を証拠として大量に提出した。その中の「日本の憲法と政治」と題する文書は、「内大臣の責任」について次のように述べていた。 

内大臣管制第2条の中に、内大臣の責任は常時天皇に付き従って、国家の行政に関し、天皇を補佐し進言することと定められて居る。総ての法律案は裁可を受ける為に彼(内大臣)の役所を通り、天皇に奏呈する請願は彼が之を処理する。彼は公布せられる為総ての文書に捺印せられるべき御璽と国璽を保管して居る。近年に於ける彼の最も重要な職務は、内閣総理大臣の辞職の際、天皇に後継総理大臣を奏薦することであった。(以下略)

 これが検察の主張する内大臣の職務と責任ということになる。

 続いて検察は、日本が「侵略戦争」への道に突き進んで行った背景とその経緯について、昭和期に入って国を挙げて軍国主義的体制が強まり、やがて軍が暴走が始め、まず満州を侵略し、次いで中国全土に戦火を拡大し、欧州で覇権を目指すドイツとイタリアと同盟を組んで三国共同謀議のもとにアジアの支配をもくろんで太平洋戦争に突入していったと述べ、その歴史を次の10部門に分けて、部門ごとに立証する壮大な計画を示した。

 第1部 侵略戦争への道
 第2部 満州侵略
 第3部 中国侵略
 第4部 独伊との共同謀議
 第5部 仏印に対する侵略
 第6部 対ソ侵略
 第7部 日本の戦争準備
 第8部 太平洋戦争
 第9部 戦争法規違反(俘虜虐待)
 第10部 個人別追加証拠提出

 この計画に基づいて、検察はこの日から翌1947年1月までの7ヶ月間、多数の証人の証言と膨大な書証その他の証拠物を提出して、被告たちが犯したとする犯罪事実をあばき出していくことになる。

 それらの事実の中には、それまで日本国民が知らなかった日本の歴史の隠された恥部が少なからず含まれていた。それらが法廷で暴露されるたびに、日本国民は大きな衝撃を受け、怒りをあらわにすることになる。その意味で、東京裁判は日本人自身が自分たちの国の歴史を正しく知る上で大きな貢献をしたとも言える。

 具体的に、この立証計画の第1部(侵略戦争への道)の中で、日本が厳しい軍事教育や言論の弾圧によって軍国主義国家に変貌して行ったことを立証するとして、検察は内外の教育関係者や言論人を証人として法廷に呼んだ。検察の狙いは、個々の被告の個別の犯罪行為の底流に、国を挙げて突き進む軍国主義への大きな流れがあったとし、その流れは被告の全部または一部の「共謀」によって創り出されたとする独自の構想を裁判の冒頭で描くことにあったと思われる。

 検察側が最初に呼んだ証人は、連合国軍総司令部民間情報教育部長ドナルド・ロス・ニュージェントだった。彼は戦前日本のいくつかの学校で講師をした経験があり、日本の学校における軍事教練の実態を証言した。

 これに対して、ローガンを含む何人ものアメリカ人弁護人が検事の質問や裁判長の訴訟指揮に対して異議を申し立てたが、それらのすべてが裁判長によって却下された。これらはゲーム開始直後の軽いジャブの応酬のようなものだった。ローガンも次第に法廷の雰囲気に慣れ、いつもの落ち着きを取り戻した。

 検事による証人の主尋問が終わったあと、証人に対して弁護人による反対尋問が許される。反対尋問は法廷技術の中でも最も難しいものの1つとされているが、それだけに尋問者の腕の見せどころである。数人の日米弁護人が短い反対尋問を行った。

 ローガンも立ち、証人の経験の程度や知識の正確さを試す質問を行った。その狙いは証人の証言の信憑性を弱めることにあった。ローガンは証人の答えに満足せず、質問の角度を変えながら執拗に証人に食い下がった。これに裁判長が苛立ち、裁判に無関係な質問だとして尋問の打ち切りを求める場面があったが、ローガンは簡単に引き下がらなかった。1937年から1938年まで第一次近衛内閣の文部大臣をつとめた木戸にとって、学校における軍事教練の強化に関する証言をそのまま見逃すことはできなかった。この反対尋問がどれだけ有効であったかは別として、最初の検察側証人が登場したときからローガンの意気込みが感じられる場面が見られた。

 法廷では、英語と日本語が公式言語とされ、法廷内でどちらか一方の言語による発言は常に他方の言語に同時通訳されることになっており、出席者はイヤホンで同時通訳を聞くことができた。しかし、実際には同時通訳の難しさのため、通訳されない部分や不正確な通訳の発生を避けることは難しく、通訳の正確性を巡る争いが頻発した。その結果、同時通訳を介する証人尋問は予想以上に時間がかかった。

 2番目に登場した海後東京大学助教授の証人尋問でも同時通訳を巡って同様の問題が生じたため、検察側から証人尋問の方法について新たな提案がなされた。証人を呼ぶ側が事前に証人の証言内容を英文と和文で「宣誓口述書」の形式で作成して法廷に提出し、それを尋問者又は証人自身が法廷で朗読することをもって主尋問と証人の応答がなされたものとするという提案であった。

 「宣誓口述書」とは、法廷外で証人が宣誓したうえで供述した内容を記録し、証人がその内容を確認してサインしたもので、法廷で宣誓して証言する場合と同様にその内容に誤りがあれば偽証罪として罰せられる可能性があるものをいい、法廷での口頭の尋問に基づく証言と同等の効力が認められる。この方式を採用することによって、少なくとも主尋問を法廷で同時通訳する必要がなくなり、その限度で同時通訳の正確性を巡る混乱と時間を避ける効果が期待された。ただし、宣誓口述書が用いられる場合でも、原則として証人は出廷して証人席に座り、相手方の反対尋問を受けることが必要とされる。弁護人側はこの方式の採用に反対したが、栽判長は検察の提案を採用した。その結果、このあとに登場する証人に対してはこの方式が採用されることになった。本書では、「宣誓口述書」を便宜上単に「口述書」と呼ぶことがある。

 その後、大内兵衛東京大学教授、滝川京都大学教授などが証人として登場し、大学における言論の自由の制限、軍事教練強化の状況、敵への憎悪の感情の注入教育の様子を証言した。その中で木戸に関係するものとして、大内証人が検察の主尋問で次のように証言した。

「1937年、木戸侯爵が文部大臣になった時、彼は矢内原教授を東京帝国大学の教授会より罷免することを要求した。この木戸侯爵の要求の結果、矢内原教授は同大学当局者より辞表を提出することを命じられました」

 この証言に対して、木戸を担当する穂積弁護人が立ち上がって反対尋問を行った。

Q 「友人として、あなたも辞めることを矢内原氏にアドバイスされませんでしたか」

A「それに賛成致しました」

Q「木戸文部大臣が少なくとも直接矢内原氏に辞職を強要したという事実はないのでございますね」

A「ありません」

 この反対尋問で、穂積弁護人は鮮やかな得点をあげた。だがこのあと、木戸弁護団における穂積の存在は次第に薄れていき、木戸の弁護は実質的にローガンと木戸孝彦の手に委ねられていった。

侵略戦争への道」と題する検察の立証の第1部はここで終わった。この立証によって、軍国主義が日本を覆うに至ったことが侵略戦争に日本が突入していく背景にあったことを裁判官に理解させようとする検察の狙いは、一定の成功をおさめたように見える。


2.3  検察の手の込んだ演出

 検察側の立証は第2部(満州侵略)に進んだ。ここで注目を引いたのは、1946年7月5日に出廷した元陸軍少将田中隆吉だった。いつもは予め作成された宣誓口述書を朗読することによって主尋問に替えるのだが、このときばかりはサケット検事がわざわざ直接本人に尋問した。それは、証人本人の口から直接証言させた方が裁判官に強い印象を与えることができるとの検察側の読みがあってのことだった。案の定、田中証人は見事に検察の期待に応えた。

 田中は1928年の張作霖の殺害が河本大佐によって計画され実行されたこと、1931年の満州事変が橋本被告、板垣被告、大川被告らを首謀とする人々によって行われたことなどを証言した。その際、法廷内にいるそれらの被告をその都度指で指し示した。このような田中の証言と所作は、事前に検察による綿密な演技指導を受けたものであることは誰の目にも明らかだった。

 どこよりも厳しい序列が支配していた日本陸軍において、後輩に派手に裏切られた先輩被告たちは、怒りを抑えきれず、証言台の田中を罵倒する声を発する者もいた。田中によって犯人と名指しされた被告を担当する日本人弁護人は入れ替わり立ち替わり反対尋問に立ちあがり、田中が不起訴の保障と引き換えに検察への協力を誓ったのではないかと疑う質問を繰り返したが、有効な反撃とはならなかった。

 その間、裁判長はたびたび弁護人の反対尋問に対して「関連性がない」とか、「被告に有利な質問とは考えられない」と述べて弁護人の質問を中止させるなどした。栽判の進行を急ぐためか、裁判長は回りくどい日本人弁護人の反対尋問にいらだちを隠さなかった。

 検察側立証の第2部のハイライトは、清朝の最後の皇帝で満州国の皇帝であった溥儀(フギ)の証言だった。溥儀は1945年8月にソ連満州を占領したときに捕らえられ、ソ連ハバロフスク近郊に捕虜として抑留中であった。その彼が東京裁判の検察側証人としてソ連から護衛付きで東京に運ばれて出廷したことで、彼の証言に世界中の注目が集まった。検察側はそれを意識してか、田中証人の場合と同様に、宣誓口述書によらないで、キーナン主席検事が直接溥儀に尋問した。

 溥儀は長期間ソ連に抑留されていたためか、かつての皇帝の面影はなく、やせ細っていたが、証言台での彼は抜け目なく、驚くほどしぶとかった。

 キーナンの主尋問に対しては、彼が満州国の領袖になったのは、当時関東軍高級参謀であった板垣被告の脅迫によるものであり、拒否したら殺されるかもしれないと思ったので、嫌々引き受けたと述べ、皇帝就任後も自分には一切自由はなく、皇帝とは名ばかりだったと証言した。彼の証言には保身のための嘘や作り話が含まれていることは誰の目にも明らかだった。名指しで非難された板垣被告をはじめ、溥儀をよく知る他の被告たちは、被告席で怒りの表情をあらわにした。

 弁護人たちは、溥儀の証言開始前には、彼と天皇の関係を考慮して反対尋問をしない方針を決めていたが、彼の証言を聞いて怒りを爆発させ、ブレィクニ―が立って反対尋問を始めた。だが、これまでの法廷で強靭な論理を駆使して鋭い反対尋問を行ったことで高い評価を得ていたブレィクニ―弁護人も、この証人にはてこずった。溥儀はどこまでもしぶとかった。「知らない」、「わからない」を連発して逃げ回った。ブレィクニ―も執拗に迫った。いらついた栽判長がたびたび尋問に介入した。その結果、ブレィクニ―の反対尋問は裁判長を交えた三つ巴戦になり、混乱は増幅した。

 溥儀の反対尋問は7人の弁護人により5日半続いたが、その間溥儀は尋問者を激怒させ、翻弄し、疲労させ、法廷内をいらつかせただけだった。

 木戸もこの様子を日記に次のように書いている。 

1946年8月19日(月)晴
 午前8時出発、法廷に行く。九時半開廷。溥儀に対する主尋問が行われた。平気で虚言をはく同氏の態度は近来にない不愉快なものであった。 

 

2.4 日本国民を驚愕させた南京大虐殺

 溥儀の証言を挟んで、検察側立証の第3部「中華侵略」が行われた。そこで検察が明らかにしたことは、多くの日本国民にとって衝撃的なものだった。

 検察は、1937年7月に起きた盧溝橋事件をきっかけにして始まった支那事変は、日本による中国に対する征服と殺戮と凌辱を目的とした計画的で組織的なものだったとして激しく非難し、それを裏付ける証拠を次々と提出した。それらは弁護人の予想をはるかに超えるものだった。思いがけない展開に弁護人はなすすべなく検察の立証を見守るほかなかった。

 検察が用意した証人たちの証言が明らかにしたのは、この世のものとは思えないほど残忍なものだった。特に衝撃的だったのは、1937年12月13日、中国の首都南京を占領した日本軍が暴徒化し、一般市民に対して無差別の殺戮を行い、20万人とも、30万人とも、40万人ともいわれる中国の一般市民を殺害し、何万人もの中国人女性を強姦したというのだ。これはその後「南京事件」と呼ばれ、今でも日中間で歴史認識を巡って論争になっているものである。

 日本軍による殺戮の様子が法廷で証人によって生々しく語られた時、法廷にいた者は耳を疑い、まさかと思いつつも、遠い国で自分たちの知らないことが起こっていたことを初めて知った。この大惨事は発生当時日本国外では広く報道されていたが、日本国内では厳重な報道管制が行われたため極秘にされていた。

 最も衝撃的だったのは、南京アメリカ教会牧師ジョン・G・マギー、南京大学外科部長だったアメリカ人医師ロバート・C・ウイルソン、同大学歴史教授ベイツらの証言だった。これらの証人はその立場からみて、中立的で、証言の信憑性が高いとみられたからだった。

 彼らの証言によれば、日本軍の兵隊がある時は集団で組織的に、ある時は個別に、暴徒のようにいたる処で機関銃や小銃で南京市民を殺害し、その死体が市内のあちこちにごろごろ転がっていたというのだ。さらに、兵隊たちは女を求めて徘徊し、手当たりしだいに強姦し、抵抗すれば即座に突き殺したという。大学の構内だけでも、9歳の少女から76歳の老婆まで強姦されたというのだ。検察側が周到に用意した証人たちによってそれらの様子が語られるにつれ、法廷内は重苦しい空気に包まれていった。被告たちはうつむき、じっと恥辱に耐えるほかなかった。

 南京攻略は松井石根被告が中支那方面軍司令官であったときに彼の進言に基づき彼の指揮下で実行されたものだったので、彼がこの事件の責任者であることは明らかだった。もっとも、彼は事件が発生した12月13日から4日後の17日に南京に入ったとされており、直接現場で指揮を執れる状況にはなかったが、それは弁解にならなかった。被告席の松井は、忌まわしい事件の生々しい様子が証人の口からは話される間、下を向いてじっと耐えるほかなかった。松井の弁護人であり日本人弁護団長の鵜沢も松井担当のアメリカ人弁護人のマタイスもなすすべがなく、ただ茫然と検事と証人のやり取りを見守るばかりだった。

 そのような中で、ブルックス弁護人(小磯被告担当)がマギー証人に対して果敢に反対尋問を挑んだ。多くの日本兵が無数の一般市民を殺害し、無数の婦女子を強姦し、無数の一般市民の財産を略奪したとのマギー証人の証言について、ブルックスは実際に証人が自身の目でその状況を目撃したのはそのうちの何件かと鋭く切り込んだ。すると、証人の答えは曖昧になり、結局、証人が直接目撃したのは殺人が1人、強姦が3人という証言を引き出した。それ以外の証人の話は「伝聞(また聞き)」か妄想ということになり、マギー証人の証言の信憑性は著しく弱められた。 

2.5 弁護人の苦闘の日々と束の間の安らぎ

 検察側の立証が進むにつれて、法廷での弁護人の発言はアメリカ人弁護人のものが目立つようになった。

 その背景に、栽判のやり方や手続が基本的にアメリカ方式で行われていたため、日本人弁護人はそれに不慣れであったことがあげられる。アメリカでは「当事者主義」と呼ばれる方式で刑事裁判が行われ、法廷では当事者(検事と弁護士)が主役であり、裁判官は法廷のルールがきちんと守られることと、陪審員の評決が公正に行われることを見守る立場にあると考えられていた。そのためアメリカでは、ルールの枠内で、弁護士は被告のためになし得るすべてをなすことがその使命と考えられており、弁護士は裁判官や検察官と対等に対峙し、必要な場合には臆することなく異議を申し立てて闘うことを躊躇してはならなかった。

 東京裁判の速記録を読み進むと、アメリカ人弁護人が裁判官や検察官と激しくやりあう場面がいたるところで延々と続くことに気付く。ときには起訴事実の審理から外れて、大小さまざまな法技術論を巡る議論が続くことがあり、読者としてはうんざりするが、アメリカ人弁護人にとってはやるべきことをやっているだけなのだ。

 日本人弁護人もアメリカ人弁護人に負けてはならないと、異議の申し立てや反対尋問を行う者が徐々に増えてきたが、彼らの動きはまだまだ緩慢だった。外国人の眼には日本人弁護人の態度は卑屈に見え、被告を守るために裁判官や検事と強く闘う気迫が見られないとの厳しい批評があった。戦前の日本の法廷では、「職権主義」の名のもとに裁判官が自ら職権で取り調べを行うべきものとされ、弁護人の役割は限定的だった。それに慣れていた日本人弁護士の姿勢に覇気が感じられなかったのは、ある程度やむを得ないことだった。

 さらに言えば、裁判における「正義」の考え方に、日米で少なからず違いがあった。日本では正義は歴史を超えた普遍的真理であり、それを習得した裁判官が裁きを主宰すべきであると考えられていたのに対して、アメリカでは正義はもっとダイナミックなもので、その時々の異なる立場の人々が自由に意見と証拠をぶつけ合った、末に双方の意見と証拠の力が均衡する地点に正義があると考える傾向がある。アメリカの刑事裁判は、法の正当な手続きのもとで当事者双方(検事と弁護人)が論理と証拠の力比べをし、押し勝った方に軍配が上がると言っても言いすぎでない。その意味で、裁判は得点の多さを争うスポーツに近く、アメリカ人弁護士はスポーツ選手のように日ごろから技を磨き、その技で生計を立てているのである。

 スポーツ選手のように戦闘的なアメリカ人弁護人たちにも休息は必要である。過酷な東京裁判のスケジュールのもとで、法廷での仕事の後のわずかな息抜きは、ホテルのバーで酒を飲み交わすことぐらいだった。彼らの話題の多くは、悲惨な仕事環境や目の前で展開する裁判手続きについての愚痴だった。

 ある日の夕方、ローガンがヤマオカとホテルのバーで一緒に飲んでいた時、ヤマオカが次のようなことを口にした。

「うちの法律事務所の同僚が、彼のロースクールの同期生だったチャールズ・ケーディスという男が現在東京のGHQでマッカーサーの右腕として辣腕をふるっているという話をしていたのを覚えているだろう。実は数日前、帝国ホテルで開かれたあるパーティーでそのケーディスに会ったんだ。今や日本で彼のことを知らない人はいないと言われるほどの大変な実力者らしい。われわれ東京裁判の弁護人の悲惨な状況のことが彼の耳にも届いているらしく、われわれが困っていることでGHQが手助けできることがあれば遠慮なく言ってくれと言われたんだ」

「ほー、それで君は何か彼に頼んだのか?」

「頼みたいことはいっぱいあったけど、頼むのはやめたよ」

「どうしてなんだ。聞くところによれば、検事たちはGHQの庇護のもとで手厚い処遇を受けているそうじゃないか」

「それは俺も知っているけど、俺たちはそんなことは許されないだろう。同じ裁判で闘っている検事と弁護人が共にGHQの庇護を受け、仲良くしていたらおかしいだろう。そもそもGHQは実質的にわれわれの依頼人を起訴した者だから、俺たちがそのGHQに助けを求めたら、依頼者に対する裏切り行為になるだろう」

「なるほど、それはそうだな」

「ただね、俺も彼に嫌味を言っておいたよ。GHQの手厚い支援を受けている検事たちに対して、われわれは『B29に対して竹やりで立ち向かっているようなものだ』とね」

「まったくそうだ。それでケーディスの奴はなんて言った?」

「ニヤッと笑っただけだった。ところで、日本ではマッカーサーは今や戦前の天皇みたいな存在らしい。そして、GHQの民生局長のコートニー・ホイットニーはさしずめ内大臣木戸幸一に当る。アポイントなしで自由にマッカーサーの部屋に出入りできるのはホイットニーだけらしい。民政局次長のケーディスはその二人から絶大な信頼を受けて、日本の占領政策の多くを彼が取り仕切っているらしいね」

「羨ましい限りだね。木戸の弁護人のポストより、GHQ民生局のポストを俺に紹介して欲しかったよ」

「贅沢なことを言うなよ」

 愚痴で始まった2人の会話は笑い話で終わったが、ヤマオカが最近会ったというケーディスという人物は、2人が所属しているニューヨークの法律事務所の同僚弁護士が、彼のロースクールでクラスメートだった男がいまマッカーサーの懐刀として日本の占領統治に辣腕をふるっているらしいという話をしていたことから、ヤマオカがその男に会ったことを話題にしたのだった。

 余談だが、このケーディスという人物は、その年(1946年)の2月にマッカーサーの緊急命令を受けて、わずか9日間の徹夜作業で日本の新憲法(現在の日本国憲法)の草案を作成し、日本政府にその採用を迫った中心人物であった。

 このころ、ローガンは1人の若いアメリカ人女性を紹介された。彼女はアメリカでロースクールに進学する前に、東京裁判に関する仕事を実体験したいと希望して来日したという。最初に検察側にアプローチしたが採用を断られたため、弁護人の秘書の仕事を希望しているとのことだった。足手まといになる心配があったが、有能な秘書なら欲しいと思い、会ってみたら、役に立ちそうだったので、ローガンはジョン・G・ブラナン弁護人(永野修身被告担当)とシェアする形で彼女を2人の共同秘書にすることにした。

 彼女の名はエレ―ヌ・B・フィッシェル。活発で好奇心旺盛な彼女は秘書以上の働きをしてくれた。そして東京裁判終了後、アメリカに帰国して念願だったロースクールに入学して弁護士になったフィッシェルは50年以上も経った2009年に、このときの体験をもとに「敵を弁護する」(Defending the Enemy: Justice for the WWII Criminals)を出版して話題になった。その中で彼女は、東京裁判アメリカ人弁護人が敵国日本の戦争犯罪人を法廷で弁護しただけでなく、勝者・敗者の立場の違いや国籍・人種の壁を超えて、被告とその家族や多くの日本人との間に深い絆を築いていった様子を描いている。ローガンと木戸の家族との交流の様子も写真入りで紹介されている。

 1946年の夏は厳しい暑さが続き、法廷は蒸し風呂状態の日が続いた。裁判官も検事も弁護人も全員疲労困憊だった。田中証人の証言が終わった7月15日に、裁判長は冷房が設置され稼働するまで閉廷すると宣言した。ここまでの栽判長の法廷指揮の中で、このときの決定ほど裁判関係者全員が揃って歓迎したものはなかった。

 弁護人たちは思いがけず久しぶりの休息を得て一息ついた。ある夜、ヤマオカの案内で、ローガン、ブレィクニ―、ファーネスに他の数人の弁護人も加わり、東京の夜を他の楽しむ機会をもった。蓄積した疲労を酔いが溶かし、夜が更けるのを忘れさせた。話題はおのずと東京栽判のことになった。当然のことながらウエッブ裁判長が話題の中心になった。

「裁判長はおしゃべりだ」
「すぐ口を出す」
「尋問の邪魔をする」

 これらの点では弁護人たちの意見は一致した。実際に栽判長が尋問に余計な介入をしたために尋問が邪魔されて混乱し、尋問時間が長引いたことが多々あった。裁判長がキーナン主席検事と長々と言い争いをする場面も少なくなかった。2人が主導権争いをしていると思われる見苦しい場面もあった。

「裁判長は一度言い出したら、絶対に引き下がらないね」
「頑固で、プライドが高い」
「彼に対する他の判事たちの評判もあまり良くないらしい。傲慢で独裁的で、判事団の中で孤立しているという噂を聞いたことがある」
「そう言えば、ウエッブ以外の裁判官が法廷で発言することはほとんどないよね。ウエッブは他の裁判官が法廷で勝手に発言することを嫌がっているらしい」

 ここまでは、大きな異論は出なかった。

「裁判長は検察側に有利で、弁護側に不利な采配をする」
「彼はもととも反日感情が強い人間で、その気持ちが自然に訴訟指揮に現れるのだろう。特に天皇に対する反感が激しいね」

 このあたりまで来ると、栽判長に同情的なことを言う者もいた。

「ウエッブは法廷外ではなかなかの好人物だよ」
「ウエッブは夫婦で帝国ホテルに宿泊しているらしいが、ホテルでの彼の評判はいいらしいね」

 この後、一人のアメリカ人弁護人が言った。

「正直に言うと、俺はときどき弁護人席から検事席に移りたいと思うことがあるけど、君たちはそんなことはないか?」

 皆がニヤッと笑った。自分たちにも心当たりがあるという表情だった。それを見て、前年12月からフィリピンで行われた本間中将の栽判の弁護をやり、続いてこの東京裁判で重光被告の弁護を引き受けているファーネスが言った。

「俺は自分を役者だと思っている。役者は仕事なら悪役でも憎まれ役でも何でもやる。もらった役の中でどのように役作りするか、どのようにして観客の心を掴むか、それが役者の腕の見せどころだ。それがプロの役者というものだろう。弁護士も同じだと思うんだ。だから俺は、法廷の中でどっちの席に座るかに関心ないね。どんな役でも本質的に変わりないね」

 ファーネスはいつも飄々としてあまり感情を表に出さないが、このときも無表情に言った。後述するように、この男は東京裁判が終わったあとも日本に留まり、東京に自分の法律事務所を開設して国際ビジネスに関するリーガルサービスを提供するかたわら、数々の映画やテレビドラマに役者として出演し、弁護士と役者はどのような役でも引き受けるべきだという持論を実践することになる。

 このころになると、アメリカ人弁護人に対する法廷での評価が次第に固まりつつあった。大ざっぱに言うと、有能で味方につけて良かったと高い評価を受けている弁護士、検察のスパイではないかと疑われる弁護士、その中間の毒にも薬にもならない弁護士の3つのグループに色分けされた。ブレィクニ―、ファーネス、ローガン、スミス(広田被告担当)、ブルックス(小磯被告担当)、ブルーエット(東条被告担当)、カニンガム(大島被告担当)、などが第一のグループに入るとみなされたが、第三の毒にも薬にもならないグループとされたアメリカ人弁護士も決して少なくなかった。さすがに第二グループの検察のスパイと疑われた者はほとんどいなかった。

 なお、第一グループに名前をあげたスミス弁護人の硬骨漢ぶりを示すエピソードを紹介しておきたい。裁判手続きがもう少し進んで弁護側の立証に入って間もない1947年3月3日、法廷で岡本尚一弁護人(武藤章被告担当)が御手洗辰夫証人に昭和の歴代内閣の倒壊の原因について尋問を行っていたときのことだった。検察の異議を受けてウエッブ栽判長が度々尋問に介入したのに対して、スミス弁護人が立ちあがって発言した。

「広田被告を代表して証人の尋問に関して裁判所が不当に干渉をしているという理由で異議を申立てます」

 すると、栽判長が怒った。

「スミスさん、あなたはこの法廷では丁重な言葉を使ってください。あなたは法廷で『不当な干渉』というような言葉を使ってはいけません。その言葉を取り消して陳謝してください。そうでなければあなたをこの法廷から退席させなければなりません」

 スミスも後に引かなかった。

「私は20年間弁護士をしていますが、裁判長から『不当な干渉』という言葉の撤回を求められたことはありません」

「あなたは陳謝しなければなりません。もしそうしないなら、私は私の同僚裁判官に対してあなたの弁護人資格を取り消すように提案します。そして今後は被告の担当弁護人の資格を取り消すようにします。法廷に対して侮辱的な言葉を使うことは許されません」

「私は法廷を侮辱する意思は全然ありませんでした。ですから、私のただ今申しました事で、裁判所にそのような印象を与えたということがまったくわからないのです」

「侮辱的な言葉、すなわち法廷の『不当な干渉』という言葉を取り消してください」

「承服致しかねます」

 ここで裁判長は裁判官内部で審議するために15分間の休憩を宣告し、再開後に次のとおり告げた。

「スミス弁護人、裁判所はスミス弁護人に対し、今後審理より除外することにしました。スミス弁護人が法廷に対して使った言葉を取り消し、法廷に対して陳謝するまで本法廷の審理から除外することを決定しました」

「私は私の考えを変更する意思はありませんし、変更する理由も認めないので、私は永久に除外されたことになります」

 そして、スミスは自分の席に戻り、手荷物を素早くまとめて退席した。だが、この男がすごいのはその後の行動だった。何食わぬ顔をして法廷内の傍聴席に現れ、空席を見つけて座って引き続き審理を見守った。その翌日も、そしてその後も、以前と変わることなく傍聴席や記者席で審理を見守り続け、広田被告に対して法廷外で非公式にアドバイスを続けた。半年後、この状態を正常に戻すために法廷で発言を求め、他意はなかったとして復帰の許しを求めたが、裁判長に拒否され、そこで正式に辞任した。なお、広田被告の後任弁護人にはヤマオカが就任した。

 

2.6 「3国同盟は世界の支配を目的とした共同謀議だ」

 

 法廷に大きな衝撃をもたらした南京大虐殺の立証が終わり、検察側の立証は第4部の日本・ドイツ・イタリアの3国同盟に進んだ。
 1940年9月27日に締結された3国同盟は、起訴状では訴因第5において、世界を軍事的、政治的、経済的に支配することを目的とする3国間の「共同謀議」であると指摘されていた。

 3国同盟締結の翌年に太平洋戦争が勃発したことから、検察はこの後に行われる太平洋戦争段階の立証において、3国同盟が太平洋地域への日本の侵略を後押しする役割を果たしたとの立場で、その締結に向けた共同謀議の日本側参加者の責任を追及した。

 3国同盟は当時外相であった松岡洋右被告が強引に進めたものだったが、その松岡は裁判開始後間もなく病死し、法廷から姿を消していた。舞台は主役が不在のため盛り上がりを欠き、証人の出廷はなく、条約交渉や条約内容に関する書類が提出されただけだった。

 続いて第5部(仏印に対する侵略)から第6部(対ソ侵略)に進んだが、大きな注目を得ることなく終わった。

2.7 ニュルンベルグ裁判の判決くだる

 第5部の仏印侵略問題が法廷で取り上げられていた10月1日、ドイツの戦争犯罪人を裁いていたニュルンベルグ栽判の判決がくだり、その内容が日本でも報道されて話題になった。

 ニュルンべルグ判決では、起訴された者24人のうち絞首刑が12人、終身刑が3人、有期刑が4人、無罪が3人、判決前に死亡した被告と免訴になった被告各1名だった。絞首刑は早々と半月後の10月16日に執行された。 

 死刑の宣告を受けた者が半数を超えていた点は厳しいという印象を与えたが、無罪とされた者があったことで、裁判手続きの中で頑張れば無罪の可能性もあるとして、東京裁判の被告の中に少しほっとした空気が生まれた。

 10月2日の木戸の日記には次の記載がある。

1946年10月2日(水)晴
今朝ニュルンベルグの判決の報が入った。判決の理由は判らないが、無罪も3人あり、中々味のある判決の様に思われる。

 ニュルンベルグ栽判は前年の11月20日に始まっていたので、10カ月余りで判決に至ったことになる。

 ところが、東京裁判は1946年5月3日に始まってからそろそろ半年になるが、こちらはまだ検察の立証が続いており、この時点での見通しでは検察立証は翌年にずれ込む可能性が高いとみられていた。その後に弁護側の反論と立証が始まるが、時間も人手も物資も極端に不足している中で、弁護人の多くは準備の遅れを嘆いていた。実際に、いつ弁護側の反証を始められるか見通しが立たない状態だった。そのため、その時点での見通しでは、東京栽判は今後順調に進んでも、裁判開始から判決までに2年はかかるだろうと見込まれていた。

 このような状況を知り、マッカーサーアメリカ人弁護人が裁判の進行を妨害しているとして怒りをあらわにし、栽判の促進と早期終了を求める強い指示をキーナン主席検事とウエッブ裁判長に与えた。裁判長はニュルンベルグ栽判への対抗心もあって、栽判のスピードアップに一層熱心になった。

2.8 太平洋戦争の審理開始で裁判は山場に

 1946年の秋が深まるころ、検察の立証は第7部(戦争の準備)と第8部(太平洋戦争)に進み、日本軍による真珠湾攻撃で火ぶたを切った太平洋戦争が裁判の俎上にのぼり、この裁判の最大の山場を迎えた。

 太平洋戦争について検察が特に力を入れたのは次の2点であった。1つは起訴状記載の「平和に対する罪」は侵略戦争を企て実行することを意味するとし、その観点から太平洋戦争が日本による「侵略戦争」であったこと、2つ目は日本軍による真珠湾に対する奇襲攻撃が国際法に違反する「騙し討ち」であったこと。この2点だった。

 木戸にとっても、ローガンにとっても、太平洋戦争は極めて重要だった。木戸は太平洋戦争を始めた「好戦的」な陸軍大将の東条英機を首相に推挙した責任や、陸海軍の統帥権を有する天皇に対する内大臣としての輔弼責任を追及されていたからだ。ローガンにとっても、弁護側の総括的弁論の役割分担に関する弁護士間の協議において彼が太平洋戦争に関する弁論の準備を行うことを引き受けていたため、木戸の弁護人としての立場に加えて個人的にも重い責任を負っていた領域であった。

 11月1日の法廷で、キーナン主席検事は「われわれはいよいよ日英米関係の段階に到達しました」と高らかに宣言し、アメリカから来たヒギンス検事に太平洋戦争に関する冒頭陳述を朗読するように指示した。ヒギンスは、あらかじめ用意した陳述書を朗読しながら、太平洋戦争に至るまでの日米関係の推移を述べ、その事実を証明するための立証計画を具体的に説明した。

 太平洋戦争関連で検察側が用意した証人や書証は多数にのぼったが、それらには歴代のアメリカの駐日大使や国務長官などの宣誓口述書が含まれていた。さらに、多数の日本軍関係者を尋問して作成した「真珠湾作戦」と題する文書などを書証として提出した。それらは日本が交渉による解決を目指していると装いながら、戦争の準備を隠密裏に進めていたことを事細かく暴き出すものだった。

 審理が進むにつれて、日本側の重要な国際通信や電話の多くがアメリカによって傍受・盗聴され解読されていたことが明るみに出て、日本国民は憮然とした。日本の政治・外交・軍事に係る重要な機密事項や日々の動きがアメリカに筒抜けになっていたのだ。

 検察側は知らないはずの日本の機密情報を次々と証拠として法廷に提出して被告や弁護人を驚かした。東京裁判で検察が提出した証拠の中には、それまで一般の日本人が知らなかった事実に関するものが少なからず含まれていた。検察は日本人関係者を次々と取り調べることによってやすやすと必要な証拠を手に入れていたのだ。

 一方、日本の官庁と軍は、終戦の直前と直後に、証拠隠滅のため大量の文書を焼却していたが、その目論見は外れて、証拠隠滅の効果がなかったばかりか、反対に自分に有利な証拠も失う結果になり、逆効果に終わった。

 検察側が登場させた証人の中で特に注目されたのは、太平洋戦争開戦前後の日米関係を最もよく知る人物と言われるバランタイン国務省顧問であった。彼が事前に作成した宣誓口述書を朗読しながら証言した内容は概略次のようなものであった。

 日米関係は日本が満州を侵略して満州国を建設し、傀儡(かいらい)政権を樹立したころから、日米関係は次第にぎくしゃくし始め、支那事変を経て、日本が中国への侵略を拡大するにつれて両国の間の緊張は増して行った。1941年4月から日米の民間レベルで緊張緩和のための交渉が開始し、その後日本側は野村駐米大使、アメリカ側はハル国務長官の間で「日米了解」の締結に向けた本格的な外交交渉に発展した。しかし、1941年7月、日本陸軍が南部印度支那に進駐したことにアメリカは強く反発し、日本の在米資産の凍結と対日石油輸出停止の措置をとった。その結果、日米の対立は決定的になった。

 事態を打開するために、翌8月日本側より、近衛首相とルーズベルト大統領による首脳会談の開催を申し入れたが、アメリカ側がその前提として要求する条件の予備交渉において両国は合意に達せず、首脳会談は実現しなかった。それに絶望した近衛首相が総辞職し、その後任に東条英機が首相に就任した。その後も日米交渉は続けられたが、日本は交渉を続けるふりをしながら、その裏で戦争の準備を着々と進め、その年の12月1日、御前会議と閣議を開き、米英に対する開戦を決定し、その日を12月8日と定めた。 

 

2.9 開戦直前に来た米国大統領から天皇宛親書

 日本が米英に対する開戦を決行することにしていた1941年12月8日の前日に、アメリカ大統領ルーズベルトから天皇陛下に宛てられた戦争回避を訴える親書がアメリカの駐日大使グルーに届き、7日深夜から8日の未明にかけてこの親書を巡って日米間で外交上大きな動きがあった。

 ヒギンス検事の冒頭陳述とそのあとに証人として出廷したバランタイン国務省顧問の証言を総合すると、この親書に関する検察側の主張は概略次のようなものだった。

 ワシントン時間で12月6日の午後9時、アメリカ大統領ルーズベルトは、事態の悲劇的展開を避けることを願う天皇宛の親書をアメリカの駐日大使グルーに向けて「最大至急電報」で送信した。その一時間前の6日午後8時(ワシントン時間)、アメリカの国務長官ハルはグルー大使に対して注意を喚起するために、天皇宛の大統領の親書が送信されるとの予告電報を送信した。その予告電報において、グルー大使に対して自ら天皇に拝謁して親書を直接手渡すようグルーに指示が与えられていた。さらに、6日午後7時40分(ワシントン時間)に、大統領から天皇宛の「メッセージ」が送られる旨の新聞発表がワシントンでなされた。
 この天皇宛の大統領の親書を含むグルー大使向けの電報は発信から1時間後の7日正午12時(日本時間)に東京に着いた。しかし、それがグルー大使に届けられたのは10時間半後の7日午後10時30分(日本時間)であった。この配達に10時間半もの時間がかかったのは、何者かが東京中央郵便局に対して故意に配達を遅らせるように命令したためであった。
さらに、この電報がグルー大使に配達される前に、その内容が日本政府と軍によって解読され関係者に伝えられていた。
 グルー大使は天皇宛の親書を受け取ると、その翻訳が完了するのを待たずに、直ちに東郷外相に電話して至急面会したい旨を伝えた。15分後にグルーは東郷を訪問し至急天皇との拝謁を求めたが、東郷は深夜であることを理由に拝謁を断った。そこでグルーは、天皇宛の大統領親書を東郷に読み聞かせたうえで、その写しを東郷に手渡した。東郷は自分がすみやかに天皇の面前にそれを差し出すことをグルーに約束した。

 検察は大統領親電の配達が故意に遅らされた事実を証明するために、元逓信省で検閲を担当していた白尾干城を証人として出廷させた。白尾証人は親書の配達を遅らせるように軍部から指示を受けたことを証言した。

 さらに検察は大統領の親書を証拠として提出した。親書の冒頭と末尾部分は以下のとおりであった。 

約1世紀前、米国大統領は日本国天皇に書を致し、米国国民の日本国国民に対する友好を申し出たるところ、右は受諾され、爾徳と指導者の英知によって繁栄し、人類に対し偉大なる貢献を為せり。陛下に対し余が国務に関し親書を呈するは両国にとり特に重大なる場合においてのみなるが、現に醸成されつつあると思われる深刻かつ広範な非常事態に鑑み、ここに1書を呈すべきものと感ずる次第なり。(中略)
 余が陛下に書を致すは、この明確なる危局に際し、陛下におかれても、余と同様に暗雲を1掃する方法に関し考慮せられんことを希望するがためなり。余は陛下と共に日米両国民のみならず、隣接諸国の住民のため、両国民間の伝統的友誼を回復し、世界におけるこの上の死滅を防止する責務を有することを確信するものなり。

  この大統領親書に対して日本側がとった行動は、このあとの被告・弁護側の反証段階において、木戸、東郷、東条などの被告に対する検察の反対尋問で厳しく追及されることになるのだが、天皇を常時補佐すべき立場にあった木戸がこの親書にどのように関わっていたかは、この裁判における彼の責任の帰趨に重大な影響を与えかねなかった。

2.10 お粗末だった日本の宣戦布告

 大統領親書について東郷外相が天皇に謁見していた1941年12月8日の午前3時半(日本時間)ごろ、日本陸軍が極秘裏にイギリス領マレーのコタバルに侵攻を開始し、その数時間後に日本海軍がハワイの真珠湾に奇襲攻撃を始めた。

 これらの戦闘行為の開始前に、日本国からアメリカとイギリスに対して国際法が要求する開戦宣言(宣戦布告)がなされなかったとして東京裁判で被告たちは厳しく追及された。日本のこの違法な奇襲攻撃にアメリカ国民は激怒し、「リメンバー・パールハーバー」の合言葉のもとに日本に対するに復讐心を燃やし戦意を高揚させたと伝えられている。

 バランタイン証人はこの点について次のように証言している。

 米国ワシントン時間で12月7日(日曜日)正午12時(日本時間では8日午前1時)ごろ、ワシントンにおいて、米国の国務長官ハルは野村駐米大使の電話による要求に応じて、午後1 時に野村大使及び来栖特命大使を迎える約束をした。約束の午後1時を過ぎて間もなく、野村と来栖から約束を午後1時45分に遅らせてほしいと電話で申出を受けた。それよりさらに20分遅い午後2時5分に両氏は国務省に到着し、午後2時20分にハル長官と会見した。野村大使は、東京からの電報の解読、翻訳、タイプに予想以上の時間がかかったため遅れたと弁明したあと、ハル長官に文書を手渡した。その時刻はハワイ時間で7日朝7時15分に始まった真珠湾攻撃より25分後だった。
 このとき野村大使がハル長官に手渡した文書は、その内容からみて、ハーグ開戦条約で要求されている開戦宣言とは言えないものであったが、日本の戦闘行為開始後に手渡されたので、いずれにしても日本は開戦条約に違反している。
 一方東京において、日本時間で8日の早朝、グルー駐日大使は外務省より直ちに来るようにとの電話で呼び起され、7時30分(日本時間)に外務省に到着した。すると、東郷外相はグルーに、その日の早朝午前3時(日本時間)に天皇に会ってルーズベルト大統領の親書の内容を天皇に伝えたと話したうえで、その日の午前4時(日本時間)ごろワシントンで野村駐米大使がハル国務長官に渡したとされる文書の写しを手渡した。
 このとき、東郷外相はこの文書はルーズベルト大統領から天皇に宛てた親書に対する返事でもあるとグルーに説明したが、それは明らかに事実に反する。なぜなら、この文書は大統領の親書がワシントンから日本に向けて発信される前に、日本からワシントンの日本大使館に送られていたものだから、大統領の親書に対する返事ではありえないことは明白である。

 このような事実を踏まえて、検察側は、開戦前後の一連の日本の行動は国際法に違反するうえ、極めて詐欺的であり、日本による真珠湾攻撃は「騙し討ち」であると激しい言葉で日本を非難した。そして、検察はワシントンで野村駐米大使からハル国務長官に手渡された文書を証拠として提出した。その文書は7項目から成る長文だったが、第6項までは日米間で太平洋地域の平和のための交渉が続けられた経緯を長々と述べ、最後に次の第七項で締めくくられていた。

7、 惟うに合衆国政府の意図は英帝国其の他と策動して東亜に於ける帝国の新秩序建設に依る平和確立の努力を妨害せんとするのみならず、日支両国を相闘わしめ以て英米の利益を擁護せんとするものなることは今次交渉を通し明瞭と為りたる所なり。斯くて日米国交を調整し合衆国政府と相携えて太平洋の平和を維持確立せんとする帝国政府の希望は遂に失われたり。仍て帝国政府は茲に合衆国政府の態度に鑑み今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認めるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり。

 日本政府はこの第7項が開戦宣言の主旨を含んでいると主張してきた。しかし、日米両国が批准している開戦条約の第1条は、開戦宣言について次のとおり規定している。

 締約国は、理由を付したる開戦宣言の形式、または条件付開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する、明瞭かつ事前の通告なくして、其の相互間に戦争を開始すべからざることを承認す。

 バランタイン証人は、「野村大使がハル国務長官に手渡したこの文書は開戦宣言でもなく、最後通牒でもなく、外交関係断交の意思宣言でもなかった」と非難した。そして彼は、真珠湾攻撃の開始前に日本はなんらの通告もしなかったうえに、攻撃開始後に日本が手渡した文書は開戦宣言の要件を満たしていなかったから、いずれの点でも日本は国際法に違反していると主張した。

 また、日本軍は真珠湾攻撃開始より数時間前に、イギリス領マレーのコタバルやその他の地域でも上陸を開始していたが、イギリスに対して如何なる通告もしていないことも、同様に国際法違反であると主張している。

 バランタイン証人に対して、多くの弁護人が反対尋問を試みた。最初に立ったブレィクニ―弁護人は2日間にわたりバランタインを追及した。その中で、ルーズベルト大統領は日本の通信を傍受・解読して日本の艦隊がハワイの真珠湾に向かっていることに気づいており、日本軍が攻撃を開始することを事前に察知していた可能性があることをバランタインに認めさせた。それが事実だとすると、ルーズベルトはなぜ直ちに米軍に日本軍の攻撃への対抗措置をとるように命令しなかったのかという疑問が生ずる。日本に「騙し討ち」をさせてアメリカ国民の戦意高揚を狙ったルーズベルトの陰謀だという説があるのはそのためであろう。

2.11 検察側の立証終わる

 季節は冬になった。最大の山場の太平洋戦争部門の立証が終わると、検察側の立証は俘虜の虐待などの通常の戦争法規違反に関する立証を残すだけになった。「マニラの大虐殺」や「バターン死の行進」など日本軍による虐殺や俘虜の取扱が国際法に違反していたとする検察の主張とそれらを裏付ける証拠が提出された。

 年が明けて1947年(昭和22年)1月24日、ようやく検察側の立証は終わった。いよいよ弁護側の反論・反証の段階に進むことになるが、裁判長はその開始を1カ月後の2月24日に指定した。

 検察側の立証が終わったこの段階で、ローガンは自分が担当する木戸被告に関する総括的な情勢分析を行い、弁護人側の反証に進むにあたって問題点を整理した。

 まず、木戸の弁護を受任した直後に懸念した天皇の責任が木戸に押し付けられるのではないかとの点については、そのおそれは限定的であると判断した。天皇制の維持を日本の占領統治に必要だとするマッカーサーの考えを受けて、検察側が法廷で天皇の責任に触れることを明らかに避けていたからだった。検察の矛先は、むしろ日本を支配した軍国主義という正体不明の怪物に向けられ、天皇個人に向けられることはなかった。これはローガンにとって大きな救いであった。

 しかし、木戸固有の責任については、状況は極めて厳しいと考えざるを得なかった。木戸が内大臣に就任する前については、3つの大臣在任中に内閣の一員として閣議決定された事項のうち日本の戦闘行為に関するものは、彼の所管事項外であっても、検察は彼が閣議決定に参加した事実をもって「共同謀議」に加わったとして彼に責任があると主張していた。内大臣時代については、検察は内大臣の職責を広くかつ厳格に解釈したうえで、木戸にそれらの職責の多くの事項について不履行責任や戦争加担の責任があるとしており、これらの点を中心に強力な反論・反証を行うことが必要であると判断した。


第3章 弁護側の反撃

3.1 弁護団の立証計画と冒頭陳述

 検察側の立証に対抗する弁護側の立証の進め方は、東京裁判開始後間もなく開かれた弁護人会議で、全被告共通の一般事項と個々の被告に関する個別事項に分け、前者については全弁護人が分担して行い、後者については各被告の担当弁護人が個別に対応するとの基本方針が確認されていた。また、共通事項に関する総括的反証を先に行い、個人別の反証をそのあとで行うことも合意されていた。

 最初の一般事項の総論に係る冒頭陳述については、清瀬一郎が総論A(総括)を、高柳賢三が総論B(国際法)を行い、続いてローガンが総論C(自衛戦争論)を担当することになった。

 この段階になると被告間の利害の対立が鮮明になり、共通事項に関する冒頭陳述の内容について弁護人間の同意が得られない事態がでてきた。たとえば、最初に清瀬が行う予定の総括的冒頭陳述の草案は、彼自身の持論である国家弁護の立場が強調され、個々の被告の立場を十分反映していなかった。そのため、他の被告と弁護人から異論が続出し、何回も書き直しがなされた。それでもなお日本の戦争行為を正当化する論調が残っているとして、もともと戦争に反対だったという被告は清瀬案に同意できないと主張した。

 そこでローガンは、冒頭陳述がすべての被告を満足させることは不可能であるから、同調できない被告はその全部または1部に参加しないことが許されるべきだと主張し、その結果、清瀬の冒頭陳述に異議を唱えて不参加を選択した被告は、平沼、重光、広田、土肥原の4名にのぼった。このような経緯を経て行われた清瀬の冒頭陳述に対する内外の評価は分かれた。

 次に予定されていた高柳弁護人の冒頭陳述は法的問題を幅広く論ずるものだったが、裁判長は冒頭陳述はこれから提出する証拠による立証計画を述べるものであるうえ、高柳の論点はすでに却下済みの管轄問題を含んでいるとして、全部を却下し朗読を禁止した。

 その結果、ローガンの冒頭陳述が清瀬のそれに続いて行われることになり、2月25日にローガン自身によって朗読された。それは、ローガン独自の「自衛戦争論」に基づく弁護側の立証計画を披歴したものだった。その主な論点は、被告間に共同謀議はなかったこと、日本に対する世界の列強国による経済封鎖や包囲網が構築された結果、資源が乏しく狭い国土に高密度の人口を抱える日本は存立の危機に追い込まれ、自存・自衛のために決起せざるを得ない状態に追い込まれたことなどを骨子とするものだった。

 ローガンの出番はこの後も続き、検察側の段階ごとの冒頭陳述のうち太平洋戦争段階部分に対応する弁護側の冒頭陳述も彼が行った。その内容は上記総論C(自衛戦争論)における太平洋戦争に関する主張を更に敷衍するものだったが、欧米側が早々に1938年に対日戦争計画を作成してその準備を着々と進めていたのに対して、その間日本は交渉による解決を目指し、戦争の準備は直前まで行っておらず、最初の導火線を誰が点火したかは明らかだと主張している。

 これらの論点はローガンが来日後の勉強で到達した結論だったが、短期間でこれだけの主張をまとめたことに多くの日本人は驚いた。しかもその内容が太平洋戦争開戦の非は連合国側にあるというものだっただけに、驚きは一層大きかった。

 しかし、この立証計画に基づいて弁護側が提出した証拠の多くは、「起訴事実と関係がない」などの理由で裁判長によって却下された。

 弁護側の一般事項の反証の過程で、原爆投下問題が再び法廷で議論される場面があった。当裁判所の開廷直後に原爆投下問題を取り上げたブレィクニ―弁護人がこの段階で「原子爆弾決定」と題する雑誌記事を証拠として提出しようとしたときに、英国代表のコミンズ・カー検事が「連合国側がどんな武器を使用したかは本審理に何らの関連性もない」として異議を唱えた。これに対して、ブレィクニ―は「ヘーグ条約で一定種類の武器の使用が禁止されており、連合国側が同条約に違反したことに対して、日本は報復の権利がある」と反論した。すると、「そうだとしても、日本の報復の権利は原爆投下後(から終戦まで)のわずか3週間にすぎない」と述べて裁判長が割って入ったが、ブレィクニ―は「わずか3週間の出来事でも被告の誰かを無罪にできるかもしれない。私の記憶では、その3週間に関する相当多数の証拠が検察側から提出されている」と再反論した。ブレィクニ―の反論はいずれも的を射たものだったが、裁判長は休憩後、「大多数の判事の決定により、本法廷は本件証拠を却下する」と述べてこの論争を打ち切った。

3.2 ローガンの一時帰国問題

そのころローガンは個人的な問題に直面していた。彼がニューヨークを発ったときは、裁判は半年ぐらいで終わるだろうと言われていたが、それを越えてすでに1年近く経過していた。だが、裁判はいつ終わるか見通しも立たない状態だった。

 妻からは夫の帰国を待ちわびる手紙が相次いでローガンに届いていた。妻は双子の子供を抱え、夫の長期不在による窮状を訴えていた。

 また、彼が所属しているニューヨークの法律事務所からは、彼が担当していた仕事に関する問い合わせは減っていたが、それは事務所内における彼の居場所が失われつつあることを感じさせた。このあたりで一度帰国して、家族と職場における自分の存在をきちんと示しておく必要があると思った。

 栽判の現状からみて、いま彼が一時帰国しても大きな不都合は生じないだろうと考えられた。ただ、彼の帰国希望日が木戸の個人反証の日程とぶつかる可能性があるので、木戸の個人反証を全員の個人反証の最初に繰り上げて行えば、その問題が解消するので、そのことを木戸に打診した。ところが、木戸は珍しく反対した。その理由を木戸は日記に次のように書いている。

1947年4月25日(金)晴
 ローガン氏帰米につき個人フェーズに於いて順序を変えて余を一番最初に持って来ると言うことについては種々不利な点があると思う。而し小さい利害の問題は兎も角として、次の如き理由により小生は反対せざるを得ない。即ち若し順序を変えて余を最初に裁くと言うことになると、其の理由が米人弁護人の都合と言うことは世間一般には判らないので、裁判所が東条氏より余を重視して最初に持って来たと言う印象を世間一般に与えると思う。このことは余の訴因が東条氏より多いと言う事実と結びついて、このような観察の生ずることは必至と余には思われる。このことは折角好転しつつある余に対する世間の空気を再び悪化させることになり、余にとって極めて不利なるはもとより、陛下の御責任と言うこと迄再び世間の話題となる虞れもある。我国の世論がこのようになれば、これは陛下を引きこまんとする諸国に再び策動の余地を与えることにもなるので、この点は余としては慎重に考慮の結果、どうしても譲れない点である。而し一方小生は是非ローガン氏によって弁護して貰いたいのであるから、その辺御含みの上十分御折衝の上、何とか妥協点を御見出し下さる様願度。

 さすがに木戸の読みは鋭かった。ローガンはいさぎよく自分の帰国希望を取り下げ、木戸の個人反証の準備に集中することにした。

3.3 ローガン、木戸邸に泊まり込む

 木戸の個人反証において、ローガンが特に重視したのは木戸日記の活用だった。膨大な木戸日記を繰り返し読んで、当時木戸が何を考え、何をしたかを事細かに調べた。木戸日記を読めば読むほど、木戸日記を木戸の個人反証の中心に据えて彼の弁護を組み立てることが最善であると考えるに至った。

 この作業は木戸の次男孝彦の緊密な協力なくしては不可能であった。作業を容易にするために、孝彦はローガンが木戸の逗子別邸に泊まり込んで孝彦と共同作業を行うことを提案した。それはローガンにとっても願ってもないことだった。このようにして木戸邸での二人の共同作業が始まり、それは1か月を超えて続いた。

 もともと木戸の自宅は東京の赤坂にあったが、米軍の空襲で1945年4月に焼失したため、一家は一時京王線聖蹟桜ヶ丘の借家に身を寄せていた。しかし、戦後一家の主人の逮捕で収入の道を断たれたため、木戸の家族は借家を引き払い、逗子の別邸を日常生活の本拠にしていたので、ローガンと孝彦の仕事場もそこに設けられた。ローガンが木戸邸に泊まり込んでいたときの様子は、木戸日記に次のように書かれている。

1947年7月11日(金)晴
  9時頃法廷に行く。孝彦が来てローガン氏が逗子へ来てからの状況等を聞いた。中々勉強して居る様子で、結構だと思う。昼の休みに鶴子(木戸の妻)が面会に来た。ローガン氏の滞在は鶴子には中々気苦労の種だが、居心地よくやって居るとのことで先ず安心した。

 木戸が心配したように、思いがけず異国から大切な客人を迎えた木戸の妻にとって、気の休まる暇もない日々が続いた。そのころ、日本は未曽有の食糧不足に喘いでいた。その年のメ―デイには、「米よこせ」デモが皇居に乱入するなどの騒ぎがあったほど国民は飢えに苦しんでいた。そのような状況の中で、一家の主人を欠いた木戸家の台所を一人で支える妻の気苦労は想像を絶するものがあった。木戸の妻は元陸軍参謀総長児玉源太郎の末娘として裕福な家庭で育った身であったが、この時の苦労は計り知れないものだった。

 木戸は、当時の日本人男性としては珍しいほど、妻に対する気遣いの気持ちをもち、巣鴨プリズンに収容されている間も、度々妻に便りをしたためていた。妻は、家族のため、国のため、陛下のために、裁きを受ける身になった夫の身を案じながら必死に堪えていた。

 同居するローガンにも、彼らの苦境と気持が痛いほどわかった。それだけに、心苦しさは同じだった。夫や父を救おうとする家族の悲壮な思いがローガンにもひしひしと伝わり、ローガンの気持ちも家族のそれと一つになっていった。

3.4 被告の個人反証始まる

 1947年9月10日、一般事項に関する弁護人の反証が終わり、いよいよ被告ごとの個人反証が始まった。それは、被告と弁護人にとって、この裁判における最も重要なステージであった。各被告とその弁護人は、それに備えてできる限りの準備をしてきた。

 被告の経歴や訴追されている訴因等によって、当然被告ごとに弁護方針は異なった。これまでは国家弁護の旗印のもとに、ある程度共通の弁護方針が維持されてきたが、ここにきて各陣営は被告個人の弁護を最優先にした。その結果、法廷で被告同士がなりふり構わず互いに相手を誹謗する場面が現れるようになった。

 被告の証言に対しては、他の被告の弁護人と検察に反対尋問を行う権利が与えられるので、被告が証言台に立つことは反対尋問に晒されることによってかえって不利になる可能性もある。そのため被告によっては、証言台に立つことを避ける者もいた。広田被告のように、裁判を通じて一切弁明をしない方針を貫いた者もいた。結局、土肥原、畑、平沼、広田、星野、木村、佐藤、重光らの被告が証人席に着かなかった。

 検察側の立証と同様に、証人席に座る被告は事前に宣誓口述書を作成してそれを法廷で弁護人が朗読することで主尋問に替え、そのあとで他の被告の弁護人と検察に反対尋問の機会が与えられた。宣誓口述書を提出する被告はアルファベット順に被告席に座ることになっていたので、トップバッターは荒木、続いて橋本、板垣、賀屋の順で証人席に座り、そのあとに木戸の出番が来る。その時期は10月ごろとみられていた。

 ローガンが木戸の個人反証の準備で多忙を極めていた時期に、彼の妻が子供を連れて来日した。先に述べたように、ローガンが一時帰国を断念したので、しびれを切らせて妻の方から押しかけて来たのだった。片時も手を離すことが許されない重要な仕事が継続していたとはいえ、これほど長い間夫が家族から離れて暮らすことは、アメリカの夫婦のあり方としては弁解の余地がなかった。ローガンは裁判が終わるまで一時的に東京で家族が一緒に暮らすことを妻に提案したこともあったが、小学校に通う双子の子供を抱えての一時的な外国暮らしは無理だとして、妻は反対した。

 ローガンは多忙な時間をさいて妻を木戸のもとに連れて行き、挨拶させた。妻にとって初めての来日だったが、妻を日本の名所旧跡などに連れて行く時間的余裕はなく、不満げな妻が帰国するのを黙って見送った。東京裁判は、アメリカ人弁護人とその家族にも大きな負担と犠牲を強いていた。

3.5 木戸、証人席に着く

 被告たちの個人反証が順次進むのに合わせて、ローガンと木戸の間で木戸の宣誓口述書の仕上げ作業が急ピッチで進められた。

 先に述べたように、いずれの被告にとっても、個人反証がこの裁判の帰趨を決める最も重要な機会であった。とりわけ木戸は、木戸日記を検察側に提出したときから、国家弁護を主とする他の被告と袂(たもと)を断ち、一人我が道を行く覚悟をして、個人反証に栽判の命運をかけていた。

 木戸の口述書は、木戸が拘置所の中で書いた日本語の原稿をもとに、ローガンが英語で書きおろし、それを日本語に訳させたうえで、穂積と孝彦がそれに修正を加え、でき上がったものを巣鴨の木戸に持っていって見てもらい、それを木戸がまた直すという気の遠くなるような作業を全員が納得するまで何回も繰り返してまとめあげたものだった。このようにして作成された木戸の口述書はローガンが最終的にチェックしてできあがった英語版を原本とした。それは裁判官たちが専ら英語版を読むことから、英語版を重視したためであった。他の多くの被告の口述書は被告本人が書いた日本語版を原本とし、英語版はそれを英訳したものであったため、法廷で朗読される英文の口述書はぎこちなく、耳障りが良くなかった。その点でも木戸の口述書は異彩を放っていた。

 それと並行して、木戸の弁護のための第三者証人の選択、法廷への出頭の依頼、それらの証人の宣誓口述書の打合せや作成を行う必要があった。これらの作業には孝彦との緊密な連携が必要であったため、先に述べたように、ローガンは木戸の別邸に泊まり込んで孝彦と机を並べて作業を行った。その作業は時として深夜に及ぶこともあった。

 10月14日、いよいよ木戸の個人反証が始まった。木戸は被告席から証人席に向かってゆっくり進み裁判官席に向かって一礼して座った。重要証人の登場で法廷に緊張が走った。

 すかさずキーナン主席検事が立ち上がり、木戸の宣誓口述書があまりにも長いことに異議を申し立てた。だが、「この証人の重要性にかんがみ、弁護人の裁量に一任する」と述べて、異議を取り下げた。キーナンが一度は異議を述べたように、木戸の口述書は日本語版で実に372頁という膨大なものだった。それはすべての被告の口述書の中で最長だった。

 ローガンは予め用意した木戸の宣誓口述書を木戸に示して、それが木戸自身の口述書であること、その内容が正しいことを木戸に確認を求めたうえで、ゆっくり朗読を始めた。ローガンの朗読は10月14日に始まり、16日の午後まで続き、実に延べ3日を要した。

 木戸の口述書は次のような言葉で始まっていた。

 私、木戸幸一は、宣誓の上、以下の通り陳述致します。
 昭和21年5月16日に、私は当法廷に提出された起訴状中の私の名前が載っている54項目の訴因に対して「無罪」を申立てました。私は此所に右申立を再び確認し、且私の無罪なることを示す為に、証人台に立つ機会を利用し、起訴状中の前記項目の全部且各々に対して私が無罪であると言う事を疑いもなく実証し得ると信ずる諸事実を提示致そうと思います。(中略)
 私が昭和20年12月16日に逮捕せられた時に、私は全く自分の意思でサケット中佐に私が日記を持って居ることを告げました。私には隠したり、恐れたりすることは何1つありませんでした。
 私の生涯は軍国主義者と闘うことに捧げられて来ました。私は日記を持って居ること告げたばかりでなく、私に返して貰うと言う確言を得て、日記をサケット中佐に渡すようにさせました。
 この日記の各々の記事は、若干のものが翌日書いたものである以外は、其の記事の当日に私が書いたものであります。私は努めて日記を客観的に書きました。私が見、聞き、言い、為した事について正確と真実とを保つ以外に、何の考えをもって書いたものではありません。若干の部分で私の考えを述べて居ます。忙しさの為に時には出来事を記録することや完全に記録することが出来ないこともありました。(以下略)

 冒頭でこのように述べたあと、口述書は木戸日記の内容を随所に引用しながら、時系列的に検察のこれまでの主張に1つ1つ反論し、木戸に対する容疑が事実無根であると述べている。日記は木戸自身が見たこと、聞いたこと、言ったこと、行ったことなどをその日のうちにありのまま書き綴ったものであるから、その信憑性が高いという確信があった。実際に、日記を書く時点では、何年かあとに自分の身に降りかかるかもしれない災難を予期してそれに都合のいいことを書くことは不可能であるから、その点でも信憑性が極めて高いことは裁判官にも十分わかるはずだからであった。それらの反論のうち、特に重要な論点について、口述書は次のように述べている。

 昭和16年10月、第3次近衛内閣の総辞職に伴い後継首相として東条英機を推挙したのは、東条が対米英開戦を強硬に主張する陸軍を抑えることができる唯一の人物であると考えたからである。実際に、彼は首相就任後にそれ以前の御前会議での対米英蘭戦争の準備を10月末までに完成すべしとの決定をいったん取り消した。(中略)

 昭和16年12月8日未明に到着したルーズベルト大統領から天皇宛の親書に関して、その直後に東郷外相から電話があり、その取扱いについて助言を求められた。自分は東条首相と相談することを薦めたうえで、天皇は深夜に拝謁を願ってもお厭にならないと信ずると告げた。その後、東郷が宮中に参内したとの報を受けて自分も午前2時40分に参内し、数分間東郷と言葉を交わした。しかし、その際にもその前の電話会話中も東郷は大統領の親書の中身を自分に話さなったので、自分は知らなかった。(「中略)

 真珠湾攻撃が行われたことは、その朝宮中から帰宅した後の8日の午前6時過ぎに、侍従武官の1人が電話してくれて初めて知った。日本艦隊が真珠湾に向けて日本本土を離れたときに、真珠湾攻撃を行う目的であることを自分は何も知らなかった。この攻撃計画は極秘の軍事機密とされていたため、自分は前もってその計画を知りえなかった。(中略)

 自分は終始太平洋戦争に反対し続けた。一度もこれを積極的に支持したことはない。しかし、不幸にして11月26日の米側回答(いわゆる「ハル・ノ―ト」)により、事態を救うべき道を全く失うに至り、開戦となった。悩んだ末、結局私は自分のとるべき路は一つしかないと決心。それは陛下に対して忠誠を尽くし、平和の恢復に努力することであった。そして、戦争の終結にあたって存分の活動をなし、それによって日本本土が戦場となることを防ぎ、幾10万もの生命を救いえたことはせめてもの慰めであった。(以下略)

 この木戸の口述書に対しては、他の被告や関係者からさまざまな評価が寄せられたが、中には「自分の責任をすべて他人に押し付けて、自分だけいい子になろうとしている」と手厳しく批判する者もいた。

3.6 次々行われた木戸への反対尋問

 ローガンが木戸の口述書を読み終えたあと、10人の弁護人によって木戸に対する直接尋問と反対尋問がなされた。木戸からもっと有利な証言を引き出そうと考える弁護人は直接尋問を、逆に木戸の供述内容を否定または弱めようとする弁護人は反対尋問を行うことが許されていた。

 木戸に対する直接尋問はファーネス(重光担当)、岡本(南)、ラザラス(畑)、ロバーツ(岡)、ブルックス(小磯)、佐久間(白鳥)、宇佐美(平沼)の7人の弁護人によって行われ、反対尋問はカニンガム(大島)、清瀬(東条)、山田(板垣)の三弁護人が行った。木戸日記をベースにした木戸の口述書は他の被告の罪状に大きな影響を与えるため、それらの被告の弁護人は待ち構えていたように立ち上がって木戸を追及した。特に軍人被告の弁護人たちは、木戸が主張する「私の生涯は軍国主義者と闘うことに捧げられて来ました」の部分について様々な角度から反撃を加えようとした。

 その中で特に注目を集めたのは清瀬の反対尋問であった。軍人出身の東条の弁護人清瀬は木戸が言う「軍国主義者」とそれ以外の者の区別の根拠が曖昧であることを突いて、木戸の証言の信憑性を突き崩そうとして鋭い質問を連発して木戸をたじろがせる場面があった。だが、清瀬の質問の目的を理解できない裁判長がたびたび介入して、清瀬の尋問は中途半端に終わった。

 最後に、キーナン主席検事が木戸の反対尋問に立ちあがった。当初イギリス代表のコミンズ・カー検事が反対尋問をやると伝えられていたのに、キーナンが登場したことで法廷はざわついた。ローガンは、かねてより木戸の証言に対する検察側の反対尋問がこの裁判の最大の山場になると考えていた。キーナンの反対尋問に木戸がどこまで耐えられるか。ローガンは反対尋問を受ける木戸以上に緊張してこの場面を迎えた。

 一方、キーナンは事前にマッカーサーから特別の指示を受けていた。木戸の口述書が天皇の戦争責任を明確に否定していないばかりか、むしろ天皇に責任があると解釈できる余地があるという意見がアメリカ国内にあったため、検察の反対尋問によって木戸の口から「天皇に責任なし」とか、「責任は自分にある」という明確な証言を引き出せ、というのがマッカーサーの指示だった。それによって、くすぶり続ける天皇の戦争責任問題に「けり」をつけたいとマッカーサーと米国政府首脳は願っていた。キーナンはこの役目を自分以外の者に任せるわけにいかないと考えて自分からその役目を買って出たのだった。

 キーナンの反対尋問は10月17日(金)午後2時40分に始まり、土曜・日曜の休日をはさんで、10月23日(木)午後2時15分までまる5日間も続いた。これは反対尋問としては異例の長さであった。

 キーナンは、はじめに木戸の経歴を時系列的に確認しながら、その時々における木戸と天皇の関わりを尋ねた。それらの質問に答えながら木戸は、憲法天皇は最高権力者であったが、実際の日本の政治は首相以下の国務大臣によって構成される内閣によって行われていたこと、天皇は宮中にいて重要事項について報告を受けたり相談にのることはあっても、自ら指示や命令を出すことは稀であったことなどを説明した。クーデターが発生し内閣の主要人物が襲われた場合でも、天皇が身の危険に晒されたことはなかったことも話した。それは天皇が現実政治の渦中にいなかったことを強く示唆するものだったからだ。このような質疑応答を経ながら、木戸(A)は巧みにキーナン(Q)を誘導し、実際の天皇は象徴的な存在にすぎなかったことを理解させようとした。そしてさらなる質問に答えて、

 A「陛下としては、いろいろ御注意とか御戒告とかは遊ばすが、ひとたび政府が決して参ったものはこれを御拒否にならないというのが明治以来の日本の天皇の御態度です。これが日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところのいわば慣習法です」

 ここでキーナンは、太平洋戦争の開戦決定がどのように行われたかという最もデリケートな質問をぶつけた。

 Q「では学術論をさけて具体的例を言えば、一度内閣が開戦を決意した場合には、陛下はこれを阻止することは出来ないといわれるのですか」

 木戸は待っていたとばかりに答えた。

 A「さようであります」

 ここまでの木戸の対応は大成功だった。キーナンが欲しがる証言を与えながら、天皇の戦争責任を否定し、自分自身の責任を否定することにも成功した。

 その後キーナンの反対尋問は5日目に入り、木戸の開戦責任を左右する大問題に切り込んできた。1941年10月に近衛首相が辞任した際に、その後継首相として木戸が東条陸相天皇に推挙したことをキーナンは取り上げた。首相に就任した東条が太平洋戦争の開戦を決定したことから、木戸にも開戦の罪について応分の責任があるという観点からキーナンは反対尋問を続けた。

 キーナンは当時日本が戦争か平和かのギリギリの選択を迫られていたことを指摘したうえで、好戦的人物として知られていた東条ではなく、及川海軍大臣を後継首相に推挙することができたのではないかと木戸に迫った。これに対して木戸は、及川の起用には海軍内部に強い反対があったとし、開戦を迫る陸軍を抑える力を持つ東条を推挙すべきと考えたと反論した。キーナンはその後も木戸が東条を首相に推挙した意図について質問を続けたが、木戸はなんとか逃げ切った。

 キーナンはそこで話題を変えて、太平洋戦争の開戦前後の木戸の行動について木戸に質問を始めた。まずキーナンは、昭和16年12月8日の未明にグルー大使がルーズベルト大統領より天皇宛の親書をもって東郷外務大臣の所へ来たことを電話で東郷から報告を受けたときに大統領の親書の内容を聞いたのではないかと尋ねた。ここからの緊迫した1問1答を、少し長くなるが、速記録から引用しよう。 

 Q「その電報の内容がどういうものであるかということを、知ろうとしませんでしたか」

 A「東郷外務大臣が宮中に参内したと聞きましたので、私も参内し彼に話しかけようとしているときに、陛下がすでにお出ましになったと侍従が申してまいりました。それで東郷はすぐに拝承のために立ち上がってまいりました。その日はそれで会う機会を失いましたので、内容を聴く機会を失ったのであります」

 Q「再びあなたにお尋ねしますが、外務大臣に向かって、この電報の中に何があるかということを、聴いてみようと試みなかったのですか」

 A「話はしてみました。しようとしておったところでした」

 Q「外務大臣は、その電報がどういうものであるかということを、あなたに言いましたか」

 A「それを言いかけているときに、立ち上がって(陛下がいる部屋に)行かれたのであります」

 Q「それでは、なぜあなたは参内したのですか」

 A「私はそういう緊急な問題でありますから、陛下から何か御下問があってはいかぬと思って参ったのであります」

 Q「この日本の歴史上の重大な瞬間において、あなたはその場に同席したいと思わなかったのですか」

 A「普通は同席を許されておりません」

 Q「しかし、これはまったく特別の場合だったのではありませんか」

 A「特別の場合と言えばそうでありますが、特に私はお許しを願いませんでした」

 Q「どうして要求しなかったのですか」

 A「外務大臣が扱うべき仕事でありまして、特に陪聴(ばいちょう)する必要もなかったのであります」

 Q「あなたは、その電報の内容が外務大臣が取り扱うのが妥当であるところのことを含んでいると言うことについて、確かでありましたか。しかしその電報の内容を知らなかったとするならば、それは確かに外務大臣のみが取り扱うべきことであるということについて、確信をもてなかったのではありませんか」

 A「いずれにいたしましても、それまで私は国務大臣が所管事務を奏上いたしますについて、ともに拝謁したという例はないのであります。その時もそういう手続きはとらなかったのであります」

 Q「それでは、日本の近代の歴史の上に、そういうふうな前例がなかったのですか」

 A「私の知っている限りではありません」

 Q「しかし日本の天皇に対して深夜2時30分から3時までの間に拝謁を願うなどということは、非常に何か重大なことであったに違いないということについて、あなたは知らなかったのですか。知っていたのではないですか」

 A「それはきわめて重要なことでありますから、私も参内していつでも御用のできるように準備をしておったのであります」

 Q「しかしその前に、すでにあなたは、深夜中に天皇との拝謁の手はずが整えられ得ることを答えて居ります。それは非常に異例なことであったのではありませんか」

 A「異例なことであります」

 Q「あなたは、しかしこの電報が何か両国間の平和を保持するところの非常に強いそうして最後の努力である、この電報がそういうものであるのではないか、そういうことに関連しているものではないか、ということについて強い疑惑の念をもたなかったのですか」

 A「どういうものであるかについては、関心をもちました」

 Q「ただ今の私の問いに対する答えには十分なっておりません。いやまったく答えになって居らないと言いたいくらいです。どうか私の質問に答えてください」

 A「もう一度言ってください。私は答えたつもりですが…」

 Q「その当時、今にも戦争が起こるという状態を防止しようとして異常なる努力がなされつつあったということについて、お考えになったことはありませんか。そうしてあなたは、平和の代表者として指導者として、こういうふうな平和をもたらすところの努力に対して、手助けになろうということについて、関心をもっておりませんでしたか」

 A「それは関心をもっておりました」

 キーナンは木戸の答えに満足せず、同じような質問を繰り返して執拗に追及したが、木戸はキーナンの狙いに乗ることなく冷静さを保った。

 Q「なぜあなたは東郷が御前から引き下がってくるのを待って、そうしてその時に彼に話をして、どういうことについて奏上したかということをはっきりしようとし、もしあなた自身が手助けになるならば、手を貸そうとしなかったのですか」

 A「その時は東郷が御前を下がってすでに退出してしまったのを私は知りませんでした。私は自分の部屋におりましたものですから知らなかったのです。それで私はしばらく待って、何かお召しがあるかと思いましたが、お召しもありませんでしたので、私は侍従に連絡したら、陛下はすでに入御されたとのことでしたので、帰ってまいりました」

 Q「しかしあなたは家に帰ってから東郷に電話をして、一体どういうものであるかということをはっきりさせるために電話をかけるぐらいの好奇心はなかったのですか」

 A「私は事実かけなかったのであります」

 Q「私はそれではお聴きしますが、あなたはわざと電話をかけなかったか、それともただ電話をかけることが頭に浮かばなかったというのですか」

 A「頭に浮かばなかったのです」

 Q「あなたはあなたが宮城に、すなわち12月8日の午前2時40分から3時30分までおりましたときに、ハワイでどういうことが行われていたかということを知っていましたか」

 A「知っておりませんでした」

 Q「その朝、東京時間で約3時30分にハワイ真珠湾攻撃が行われたことを今は知っていますか」

 A「今は知っております」

 Q「それでは、ちょうどあなたが宮廷にいたころ、あるいはちょっとそれから2、3分後に、こういうことがハワイで起こったというのは、これは単なる偶然の一致ということなんですね。私が聴こうとしているのは、こういうただいま申しましたハワイ攻撃がどういうふうに行われたかということを知るために小さな会合が宮城で行われておったということが事実であるということをあなたに示唆しておるのであります」

 A「それは私は全然存じません」

 Q「以上であります」

 延べ5日間に及んだキーナン主席検事の反対尋問は、彼の「以上であります」という最後の言葉で終わった。

 キーナンは、木戸は大統領の親書の内容を事前に知っていたはずだとみており、天皇に対して大統領の申出に前向きの回答をするように進言すべきだったのに、それをしなかったのは、「軍国主義者との闘いに一生を捧げた」という木戸の主張が嘘であることを認めさせようと執拗に迫ったが、木戸は巧みにキーナンの追及をかわした。

 ローガンは心の中で「よし、よし、よし・・・」と何回も叫んだ。「勝った」とまではいかなくとも、「大きな失点はなかった」と思った。そしてその瞬間、彼の肩からすっと力が抜けた。ローガンがこの裁判の最大の山場だと思っていた木戸に対する検察側の反対尋問を木戸がなんとか乗り切ったのだ。

 木戸への反対尋問が終わったあと、キーナンは同僚に「木戸は頭がいい奴だ」とぼやいて、自分の反対尋問で十分な成果を上げられなかったことを相手のせいにしたと伝えられている。

 ローガンは、木戸の証言がすべて終わったあと、木戸の弁護のために用意していた牧野伸顕(元内大臣)、鈴木貫太郎(元首相)、米内光政(元首相)、岡田啓介(元首相)、阿部信行(元首相)らの証人の宣誓口述書の提出を取りやめると法廷で宣言した。これまで裁判長は被告側の証人申請を厳しく制限していたことに加えて、検察側の厳しい反対尋問が予想されることを考えて、木戸自身の証言をもって木戸の弁護を打ち切った方が得策であろうと判断したからだった。このローガンの宣言に対して法廷にどよめきの声があがった。

3.7 しぶとかった証人席の元外相東郷被告

 木戸の個人反証に続いて数人の被告の証言があったあと、東郷被告が証人席に着いた。

 東郷は太平洋戦争開戦時の東条内閣において外相の地位にあった。彼は真珠湾攻撃開始前に宣戦布告を行うことを怠ったことや、開戦直前に来たルーズベルト大統領の天皇宛親書への対応のまずさなどを検察側から厳しく追及されていた。

 それらは外務省の所轄事項であったから、外務省は東郷の支援態勢を組んでこの裁判に臨んでいた。たとえば、東郷には辣腕として知られるブレィクニ―が当初のヤングに代わって弁護人としてついていた。外務省の出先機関である駐米日本大使館の顧問弁護士をしているヤマオカも東郷の弁護に協力していた。これらの強力チームの支援を受けて、証人席に座った東郷はどこまでもしぶとかった。

 まず、ブレィクニ―が東郷の宣誓口述書を朗読した。その中で、開戦前に宣戦布告をするのを怠ったという検察の主張について、東郷の口述書は次のように述べていた。

 国際法のもとでは、自衛のための戦争には宣戦布告は必要とされていない。日本は世界の列強国の包囲網に囲まれて自存・自衛のために立ち上がったのだから、戦線布告は不必要だったが、日本の誠意を示すために通告をした。通告が開戦後になったのは、ワシントンの駐米日本大使館における翻訳などの事務上の手続きに予想以上の時間がかかったためである。東京の外務省からは十分な時間的余裕をもって駐米大使館に通告文を発信している。また、日本の通告は開戦の意思を明示していなかったが、当時の日米交渉の経緯から見て戦争に突入する意図は十分理解できたはずであり、実質的に宣戦布告に相当し、国際法に適合している。それらの点について、国際法の専門家から同様の見解を得ている。なお、イギリスとオランダに通告をしなかったのは、それまでの交渉を専らアメリカと行っており、アメリカからイギリスとオランダに交渉状況は伝えられていたと理解していたので、不要と考えた。

 ところが実際には、通告が遅れた真の原因はワシントンの駐米日本大使館での事務の遅れではなく、日本国内にあった。真珠湾の奇襲攻撃計画の成功を最優先にする日本海軍が奇襲計画の漏えいを極度に怖れて、アメリカへの通告を攻撃開始後に行うことを強く求め、外務省がその要求に屈して駐米大使館への通告文の送付を遅らせたためにアメリカ側への通告が遅れたのだった。しかし、東郷は遅れの原因を駐米大使館の事務上のミスにして、自分の責任と外務省本省の責任を逃れようとしたのだった。卑劣な虚偽証言だったが、東郷はそれを押し通した。

 開戦前夜に到着したルーズベルト大統領から天皇宛の親書への対応ついては、東郷は口述書で次のように述べている。

 親書が来たことを私が最初に知ったのは、12月8日の午前零時半にグルー大使が親書を持参して私を訪問したときである。来訪したグルー大使から、天皇宛の大統領のメッセージを直接天皇に謁見して手渡したいという申出があったが、私はそれには宮内省を通して手配する必要があり、深夜なのでいつ手配できるかは言えないと答えたところ、大使は私にメッセージのコピーを渡して15分後に立ち去った。
 私は直ちにそれを翻訳するように命じ、松平宮内大臣に電話し状況を説明したうえでどのようにすべきかを尋ねた。松平氏は政治的事項なので内大臣に連絡するように示唆した。そこで木戸内大臣に電話したところ、彼は東条首相と相談することを示唆したうえで、深夜でも天皇は私の謁見を受け入れるであろうと言った。
 親書の翻訳が午前1時50分に出来上がったので、東条首相を訪問したが、東条氏はこのような内容のメッセージは何の役にも立たないと言った。
 私は自宅に帰って謁見用に着替えたうえで、2時30分に出発し、2時40分に皇居に到着した。宮中の控室で木戸内大臣に会い、謁見までの3,4分間、親書の内容を木戸に話した。
謁見は3時から3時15分までの15分間であったが、私は陛下に報告し、陛下のご返事をお聞きして退去して3時30分ごろ帰宅した。
 翌朝7時30分、グルー大使が来訪した。私は大統領のメッセージに対する陛下の返事を伝えるとともに、ワシントン大使館から米国国務省に手渡した最後通告のコピーを参考までに大使に渡した。
 その時戦争がすでに始まっていたが、大使は大統領のメッセージを自ら公式に天皇に手渡すことを要求しなかった。また、大使は戦争が始まったことについて何も話さなかったし、私も話をしなかった。

 東郷の口述書は、東郷と外務省にとって不都合な事実を巧妙に覆い隠していた。口述書によれば、東郷が天皇に拝謁した時間は15分間であったが、その間に、東条が天皇に大統領の親書の中身をどのように説明し、それに対して天皇が東郷にどのような意見を述べ、大統領に対する返事についてどのような指示をしたか、そのあとグルーに対して天皇の返事をどのように説明したかなどは一切述べられていなかった。また、東郷が木戸に対して大統領親書の内容をどこまで説明したかも曖昧だった。

 ブレィクニ―による東郷の口述書の朗読が終わると、ローガンが反対尋問に立ち上がった。大統領親書の内容を東郷が木戸に説明したかどうかに関して木戸の証言と食い違いがあることから、その点についてローガンは東郷に一連の質問をした。もしも大統領親書が天皇に戦争回避の努力を求めていることを木戸が東郷から聞いていたなら、木戸は直ちに天皇に対して適切な進言をすべきだったにもかかわらず、それを怠ったことになり、木戸の重大な失態とされる怖れがあったからだ。だが、東郷の答えはどこまでも曖昧だった。なぜかこの日のローガンの東郷に対する反対尋問は、いつもの鋭さと粘りを欠き、肝心の点については曖昧なまま東郷に逃げられてしまった。

 ローガンに続いて、キーナン主席検事がここでも反対尋問に立った。彼もルーズベルト大統領の親書の内容を東郷が天皇に謁見する前に木戸にどこまで話をしたかをしつこく尋ねた。しかし、その点に関するキーナンの質問と東郷の答えは噛み合わず、事実が明確にならないまま、キーナンの質問は次に進んだ。

 Q「あなたは大統領の親書を天皇に見せましたか」

 A「グルー大使から親電をタイプし直したものを受け取り、それを翻訳し、翻訳文を天皇に見せました」

 Q「それについてあなたは天皇との間でどのようなことが話し合われましたか。あなたが言ったことと、天皇が話されたことを述べてください」

 ここでも東郷の返事は曖昧で、キーナンの質問に直接答えることを巧みに避けた。そこで、キーナンは外務省が当時作成した2つの手書きの文書を証拠として提出して東郷を追及した。東郷はそれらの文書がその当時外務省の内部で作成されたものであることを認め、12月7日及び8日の日本国内の動きをほぼ正確に記述していると認めた。

 それらの文書によれば、東郷が大統領親書のコピーとその要訳を持って7日の未明に急ぎ総理官邸に行き、東条首相以下と対応を協議して腹案を大体決定し、午前2時半皇居に参内した。東郷は天皇に「委曲(詳細)を説明して午前3時半過ぎに帰宅したとされている。また、大統領親書に対する天皇の「思召」を、翌朝東郷からグルー大使に口頭で伝達したと記載されていた。しかし、天皇に対する「委曲」の説明の内容も、天皇の「思召」の内容も記載されていなかった。

 キーナンの追及もここまでで終わっており、大統領親書の中身がどこまで天皇に伝わり、天皇がそれに対してどのような意見を述べたかは、結局、裁判で明らかにされることはなかった。

 清瀬弁護人(東条被告担当)が、東京裁判終結後に書いた「秘碌東京裁判」(中公文庫)において、この大統領親書について、「内閣や軍部は、この時すでに作戦の準備を十分に整えている。今となっては気勢をそぎ作戦の準備を狂わせる恐れがあるので、極力これを陛下に捧呈することを避けんとした」と書いている。これが真相であろう。

 東京裁判終結から何年も経過し、日米両国において当時の公文書が順次公開されるにつれて、東京裁判で解明されなかった重要な新たな事実が明らかになっている。それらの中には宣戦布告や大統領親書に関する驚くべき事実があるが、本稿の範囲を超えるので、ここではこれ以上深入りしないこととする。

3.8 注目を浴びた元首相東条被告の証言

 12月26日、東郷被告の証言が終わり、入れ替わって東条被告が証人席に着いた。大物の登場で法廷の傍聴席は満員になった。日本を破滅に陥れた張本人が何をしゃべるかに人々の関心が集まった。

    東条を担当する清瀬弁護人が東条と毎日のように会ってまとめた東条の宣誓口述書をブルーエット弁護人が3日間で朗読した。木戸のそれに次ぐ長さだった。

 東条の口述書は、彼が第2次近衛内閣の陸軍大臣に就任した1940年7月22日から内閣総理大臣を辞任した1944年7月8日までの4年間の日本の政治、外交、軍事の動きと彼自身の行動と考えを述べていた。その中で、彼が内閣総理大臣に就任した時の様子について次のように述べている。

1941年10月17日、至急宮中に参内するよう指示を受け、同日の午後4時ごろ宮中に出向いたところ、天皇より後継内閣の組閣を命じられた。これはまったく予想外のことであったため、しばらく時間を頂戴して退席した。自分は東久邇宮稔彦王がふさわしいと思っており、近衛や木戸にもその考えを伝えていた。

 ルーズベルト大統領から天皇宛の親書については、東条は1941年12月8日未明の午前1時ごろ突然東郷外相から電話があり、アメリカのグルー大使が大統領親書を持参して来訪したが、そこにはアメリカの譲歩が書かれていないとのことだったので、今さらどうしようもないと東郷に伝えたと述べている。また、この件について自分が聞いたのはこの時が最初で、それ以前に知っていたという検察側の主張はまったく事実に反すると反論している。

 東条の口述書の最後は、東条らしい次の言葉で終わっていた。

 我々は国家の運命を賭した。しかして敗れた。しかして眼前に見るがごとき事態を惹起したのである。戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何の問題とは、明白に分別のできる2つの異なった問題である。
 第1の問題は外国との問題であり、かつ法律的性質の問題である。私は最後までこの戦争は自衛戦であり、承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張する。私は未だかつて我国が戦争をしたことをもって国際犯罪なりとして、勝者より訴追せられ、敗戦国の適法なる官吏たりし者が個人的な国際法上の犯人なり、また条約違反者なりとして糾弾せられるとは考えたこともない。
 第2の問題、すなわち敗戦の責任については、当時の総理大臣たりし私の責任である。この意味における責任は、私はこれを受諾するのみならず、衷心より進んでこれを負うことを希望するものである。 

  このあと、他の数人の弁護人による補足質問があり、続いてローガンが反対尋問に立った。ローガンは東条が首相に就任したときの状況や、そのときに東条に述べた天皇の考えなどについて質問したあと、次の質問をした。

 Q「木戸内大臣天皇の希望や意向に反する行動をしたり助言をしたことを知っていますか」

 A「私が知っている限り、そのようなことはありません。さらに言えば、天皇の御意思に反することをする日本人、特に日本政府や日本の高級官吏はいません」

 東条のこの返事の後半部分はローガンの質問の範囲を超えていたが、日本人の一般的心情を補足的に述べたものと思われた。だが、キーナンをはじめとする検事団は東条のこの発言に慌てた。もし東条が言ったとおりだとすると、日本が遂行した戦争はすべて天皇の意思に沿ったものということになり、収まりかけていた天皇の戦争責任論に再び勢いをつけかねないと思ったのであろう。早速キーナンは「東条工作」に乗り出し、この発言を打ち消す証言をしてもらうように密かに仲介者を介して東条に働きかけた。それに対して東条から、天皇のためになるならキーナンの要請に応ずる用意があるとの回答があった。

 東条に対する他の弁護人の尋問が終わると、キーナンが反対尋問に立った。キーナンの狙いは、東条の口から、天皇には戦争責任がないことをはっきり言わせ、それによってくすぶり続ける天皇の責任問題にけりをつけることだった。キーナンは慎重に言葉を選び、回りくどう言い方で東条に尋ねた。

 Q「さて、1941年すなわち昭和16年12月当時において、戦争を遂行するという問題に関して、日本天皇の立場及びあなた自身の立場の問題、この2人の立場の関係の問題について、あなたはすでに法廷に対して、日本天皇は平和を愛する人であるということを、前もってあなた方に知らしめてあったと言いました。これは正しいですか」

 A「もちろん正しいです」

 Q「そうしてまたさらに2、3日前にあなたは、日本国民たる者は何人たりとも、天皇の命令に従わないと言うことを考える者はいないということを言いましたが、それも正しいですか」

 A「それは私の国民としての感情を申し上げておったのです。責任問題とは別の問題」

 Q「しかし、あなたは実際米国、英国及びオランダに対して戦争をしたのではありませんか」

 A「私の内閣において戦争を決意しました」

 Q「その戦争を行わなければならないというのは・・・行えというのは、裕仁天皇の意思でありましたか」

 A「意思と反しましたか知れませんが、とにかく私の進言・・・統帥部その他責任者の進言によってしぶしぶ御同意になったというのが事実でしょう。しかし平和の御愛好の御精神は、最後の一瞬に至るまで陛下はご希望をもっておられました。なお戦争になってからにおいてもしかりです。その御意思の明確になっておりますのは、昭和16年12月8日の御詔勅の中に、明確にその文句が付加えられております。しかもそれは陛下の御希望によって、政府の責任おいて入れた言葉です。それはまことにやむを得ざりしものなり、朕の意思にあらざるなりというふうな御意味の御言葉があります」

 この東条の返事を聞いてキーナンはほっとした。これで天皇の不起訴を押し切ることができるだろう。そしてきっとマッカーサーもこれで安心するだろうと思った。

 このあと梅津被告の個人反証があって、弁護側の立証はこれで一応終了した。この間、弁護側から提出要請がなされた証拠の多くが検察側の反対により若しくは裁判長の裁量で却下された。弁護側に厳しい裁判長の法廷指揮が目立った。


第4章 最終論告と最終弁論

4.1 木戸に厳しかった検察の最終論告

 弁護側のすべての反証が終了したあと、検察と弁護の双方に補足的な証拠の提出とそれに対する相互の反論(リバッタル)の機会が与えられた。それをもって双方の立証活動は完全に打ち切られた。その間に法廷に登場した証人は419人、提出された口述書を含む書証は5万通近くにのぼった。

 これらのすべての立証活動によって検察と弁護の双方から提出された証拠に基づいて、検察が被告の責任について最終的な意見(論告)を述べるときが来た。論告は最初に総括的な意見陳述がなされ、そのあとで被告ごとの責任に関する論告が行われた。

 総括的論告は最初にキーナン主席検事が行い、イギリス代表検事のコミンズ・カーがそれを引き継ぎ、さらに各国代表検事が入れ替わり立ち替わり行った。

 キーナンの論告は、当裁判所は歴史上最大の出来事を慎重かつ徹底的に審理してきたと前置きしたうえで、皮肉たっぷりに次の言葉で始まった。

これまでの審理において、元首相、元閣僚、元高級外交官、元将軍、元内大臣天皇の助言者)らの被告全員が自身の行為について一切責任をとる意思がないと表明し、彼らは揃って戦争を欲していなかったと主張している。

 そして最後に、「被告たちは人類の知る最も重い刑に値する」と述べて、キーナンの論告は終わった。

 その後、被告ごとの論告に進み、木戸に対する論告は、2月24日から25日にかけて、コミンズ・カー検事によって行われた。これまで木戸に対してはいつもキーナンが自ら対応していたが、この時点で鬼検事として知られるコミンズ・カーが登場したことに、ローガンは警戒を強めた。

 案の定、コミンズ・カーの論告は辛辣で容赦なかった。彼は冒頭で、木戸に対する起訴事実は、文部大臣として入閣した1937年年10月22日から内務大臣に就任した1939年8月30日までの第一の期間と、1940年6月の内大臣就任後から終戦までの第2の期間に分けられるとした。これは木戸に対する起訴が彼独自の犯罪行為によるのではなく、「共同謀議」に加わったことに基づいているため、彼が謀議に加わる立場にあったのはこれらの2つの期間に限られていたからと考えられる。

 そのうえで、コミンズ・カーは木戸の宣誓口述書について次のように述べて証拠にすべきでないと主張した。木戸の宣誓口述書は木戸日記から多くの引用がなされているが、元になっている木戸日記そのものは日々書きとめられたものであるから当時の事実を概ね正しく記載したものであることを疑うべき理由はないとしたうえで、日記から口述書への引用の仕方は不正確であり、引用の過程で多くの事実が曲げられており、木戸日記と口述書はまったく別物であると指摘した。そして裁判所は日記を優先し、口述書を無視すべきだと主張し、ローガンと木戸たちが心血を注いで書きあげた口述書をばっさり切り捨てた。

 続いて、コミンズ・カーは木戸の天皇に対する姿勢を批判して、木戸は常に天皇に忠誠を尽くしたと言っているが、実際には、内心秘かに侮蔑の目をもって天皇を見ていたと厳しく指摘した。また、木戸は「天皇に対する内大臣の輔弼は天皇から求められた時にのみ必要となる」と繰り返し、内大臣としての自己の役割を小さく見せかけているが、木戸日記では自ら進んで意見を奏上したことを何度も書いている。東条被告も「天皇に対する内大臣の常時輔弼の責務は、必要な場合は求められなくとも進言する責務を含んでいる」と証言していることを挙げ、木戸の主張は責任逃れの言い訳に過ぎないと指摘している。

 木戸が閣僚であった前記第1の期間における木戸の責任については、南京大虐殺について、木戸は終戦後に初めて耳にしたと主張しているが、反対尋問で木戸はまったく誤魔化しに終始していたとし、コミンズ・カーはさまざまな証拠を引用して木戸の主張が虚偽であると決めつけた。文部大臣就任中、木戸はその地位を利用して軍国主義や侵略的国家主義を推進したことは明らかであり、木戸はこれを覆す証拠を提出していないとも主張している。

 内大臣就任後の第2の期間の木戸の責任については、木戸は口述書で三国同盟に反対したと言っているが、コミンズ・カーは木戸の主張はまったく根拠がないと一蹴している。また、木戸は内大臣には外交上の問題について天皇の御下問を首相及び外相に伝えること以外に、何らの権限もないと主張しているが、木戸日記には度々外交問題についても天皇に意見を具申したと書いており、彼の言動に矛盾があると指摘している。

 次に、1941年10月に第三次近衛内閣の総辞職に伴う後任首相として木戸が東条英機天皇に推挙したことについて、木戸は東条が開戦を迫る陸軍を抑えることができる人物であることを理由に挙げているが、コミンズ・カーは木戸日記にそのような彼の考えを述べた記述がないことに加えて、天皇に対して東条がそのような人物であると助言をした形跡もなく、後付けの弁解にすぎないとしている。

 開戦直前に到着した天皇宛のルーズベルト大統領の親書について、コミンズ・カーは東郷が木戸に親書の内容を説明したかどうかは両者の証言が食い違っているが、木戸の秘書官長であった松平がその日(12月8日)の朝木戸からその内容を聞いたと証言していること、木戸側がその松平を証人喚問していないことなどから、8日未明に皇居に参内したとき木戸が親書の主旨を知らなかったことはあり得ないと断定している。

 また、真珠湾攻撃が行われたことを木戸が最初に知った時期について、木戸は事前にその計画を知っておらず、攻撃が行われた後の12月8日の午前6時ごろ部下から連絡があって初めて知ったと主張しているが、コミンズ・カーはそれは多くの証拠に反し、虚偽であるとしている。

 さらに、太平洋戦争開戦後、木戸は和平に向けて尽力したと言っているが、それも事実に反するとして、東条首相辞任に伴う後継首相の選任の際に「戦争の完遂」のために軍人を選ぶことを主張したことなどを挙げている。

 最後に、コミンズ・カーは、木戸が訴追されている訴因のうち、支那事変の開始は木戸が共同謀議に参加する以前であったので、訴因第19(支那事変の開始)を木戸に対しては放棄すると表明したが、その他の訴因については起訴状記載の事実が証拠によって証明されているので、木戸は有罪であると総括した。

 木戸に対する検事側の論告は、ローガンの予想を超えて木戸に厳しいものだった。厳格な仕事ぶりで知られるコミンズ・カーは木戸の口述書の内容と木戸日記や他の証拠とを細かく照らし合わせて、口述書が木戸日記と矛盾している個所を数多く指摘し、口述書の信憑性に重大な疑問を提起した。

 ローガンは容易ならざる事態に追い込まれたことを率直に認めざるを得なかった。挽回は容易ではないが、このあとのローガン自身の最終弁論によって態勢を立て直さなければならないことは明らかだった。

4.2 日本人の心に染みたローガンの総括最終弁論

 検察側の最終論告が終わったあと、日本人弁護団長の鵜沢が弁護団を代表して総括的な最終弁論を行った。その冒頭で、鵜沢がアメリカ人弁護人について次のように述べたことが注目された。

我々日本人弁護人に対して、学識高いアメリカ弁護人各位のまことに尊い援助を得る機会を授けられたことは、感銘に堪えざる次第である。(中略)これらの方々のご援助がなければ、先例なきこの裁判は完璧を期し難いものがあったと信ずるからである。

 当初、アメリカ人弁護人は日本人弁護人を補佐する脇役的役割を期待されて招聘されたのであったが、裁判が進むにつれて脇役の立場をはるかに超えて実質的に主任弁護人としての活動を担うまでに至ったことは、法廷関係者の多くが認めることだった。日本人弁護団の団長の鵜沢がその事実を率直に認めて、最終弁論の機会に、アメリカ人弁護人に謝意を表明したことは法廷にいた人々に快く受け入れられた。

 続いて高柳、ローガン、ヤマオカ、ブレィクニ―、カニンガムなどがそれぞれ全被告共通事項に関する総括的最終弁論を行った。

 これらの中で、1948年3月10日に行われたローガンの最終弁論はひときわ注目を集めた。それは弁護人側反証の冒頭で彼自身が論じた「自衛戦争論」をその後に提出された証拠を踏まえて再構築したものだった。ローガンは冒頭部分を「日本は挑発されて自衛のために決起した」と題し、太平洋戦争がアメリカを含む欧米列強諸国の対日経済封鎖により挑発され存立の危険に追い込まれた日本がやむなく自衛のために決起したものだと述べ、そのような自衛のための行為は「1928年パリ不戦条約」(「ケロッグ・ブリアン条約」とも呼ばれている)に照らして「侵略戦争」に当たらないと主張し、その根拠として、次のことを指摘している。

① 上記条約の共同草案者であり当時アメリカの国務長官であったケロッグ自身が経済封鎖は戦争行為に等しいと述べていること。
② 地球上の誰も「侵略」や「自衛」を定義することができないこと。
③ 他国によって経済封鎖を受けた国は自国の主権に基づいて自衛のための対抗措置を行うことができること。

 この部分は、検察側が「平和に対する罪」の処罰を求めることが事後法に基づく制裁ではない根拠として1928年不戦条約を挙げていることに対するローガンの反論であった。

 次いでローガンは、「日本経済は戦争を目的として計画し発展したものでない」と題する章で、「日本は欧米列強が支配していた地域を奪うために列強に対して侵略戦争を仕掛けたのでしょうか、それとも日本は自国の存立に脅威を与える列強の侵害から身を守るために国際上承認せられた自衛権を行使したのでしょうか?」と自問自答する形で論を進め、日本は資源の乏しい小さな島国に多くの人口を有し、国民はつつましく平和に暮らしてきたと述べた。産業の振興は民生目的で行われ、自衛の範囲を超えて戦争遂行の目的で行われたことはないとし、産業分野ごとに具体的数字を挙げるなどしてその実態を詳しく説明した。

 続く「日本に対する経済封鎖」と題する章で、連合国の対日経済封鎖は1938年の航空機及び同部品に始まり、その後対象製品は順次拡大していった。日本の強い抗議にかかわらず、1940年代にはアメリカによって数多くの追加的措置がとられて日本に対する経済的圧力が一層強化された。検察側はこの間の連合国の経済封鎖は軍用品に限られていたと主張しているが、実際には食料品やその他多くの民生品に及んでいたとし、その結果、貿易依存度の高い日本は産業のみならず市民生活も苦しめられたことを具体的数字を挙げて詳細に説明している。そして1941年7月25日、アメリカは在米日本資産と資金を凍結する措置をとり、この措置が日本に戦争突入の決心をさせた一つの大きな要因になったと述べている。

 さらにローガンは、日本は自国に対する経済封鎖が戦争行為に当たると決定する権利を持っていたが、ぎりぎりまでその権利を行使しないで、日本特有の忍耐力をもって争いを平和的に解決しようと忍耐強く交渉したことは、永遠に日本の誇りとするに足るものであると賞賛している。

 さらに「日本に対する軍事行動」の題のもとに、連合国が経済封鎖に加えて対日戦争計画を作成して開戦の準備を早くから進め、軍事的にも日本を激しく挑発し、大きな脅威を与えたと述べている。

 最後に、ローガンの最終弁論は次の言葉で締めくくられていた。  

彼ら(被告たち)の決定は祖国にとって生きるか死ぬかの決定でした。そして、彼らは祖国を愛していました。彼らは愛する諸国のためにその決定をしなければならない地位にありました。我々は裁判をされる方に、彼らの立場になって考えることをお願います。その立場に立ったら、愛国者として他の決定をすることが出来なかったことがきっとわかるでしょう。決定をすべき立場にあった者が、公正な信念とそれを裏付ける十分な理由があって行った決定が犯罪にあたると言えるでしょうか。若しその決定が犯罪的意図からではなく、祖国を守るために絶対必要であるという強い信念と愛国心の動機からなされたものであれば、我々はそれを犯罪として法廷で裁くことが許されるでしょうか。

 ローガンの弁論は被告席に座る者たちの気持ちを誰よりも見事に代弁しているように思われた。

 木戸はこの日の日記に次のように書いている。

1948年3月10日(木)晴曇
 法廷ではカニングハム氏の弁論が開廷間もなく終わると、続いてローガン氏が経済封鎖について弁論をなした。非常によく出来て居り、日本が止むに止まれず追い込まれて戦争を為すに至りたる事情を詳細に述べ、被告等は愛国者であると結論した。米人であってよくあれまで言ってくれたと皆感激していた。(以下略)

 皮肉なことに、東京裁判の審理終結から3年ほど経過した1951年5月、マッカーサーは解任されてアメリカに帰国して米国議会上院の軍事外交合同委員会で証言する機会を与えられ、その際に彼は、日本は膨大な人口を抱えながら養蚕を除いて頼るべき資源を持たず、石油等の資源の供給が断たれた場合には1千万人以上の失業者が出る恐れがあったことなどから「安全保障上の必要に迫られて戦争を始めた」と証言している。この証言はローガンが東京裁判で強く主張した「自衛戦争論」と相通じるものであった。

 その後アメリカおいても、日本を戦争に追い込んだのはアメリカだったとする意見が次第に広がっており、東京裁判におけるローガンの主張が日本人向けの口先だけのリップサービスではなく、歴史の新たな見方を戦後間もないこの時期に誰よりも先んじて世界に指し示した先見的な見解であったと言えよう。しかも、裁判が行われていた当時、アメリカ国民の大多数は、太平洋戦争は世界征服の野望に駆られた日本の違法な侵略行為によって始められ、アメリカはそれを阻止するための正義の闘いであったと信じこまされていたのであり、そのような環境の中で、ローガンが母国アメリカの威信を傷つけかねない発言を公開の法廷で行った勇気に法廷関係者の多くが驚いたのだった。

4.3 ローガン、木戸のために最終弁論

 法廷では被告ごとの最終弁論が始まり、木戸のための最終弁論が1948年4月2日及び5日の2日間にわたりローガンによって行われた。これまでの審理のすべてを踏まえて、木戸の罪状について総括して意見を述べるもので、ローガンの来日以来2年余の仕事の集大成となるものであった。

 この最終弁論を仕上げるために、ローガンは木戸の次男孝彦と一緒に箱根強羅の宿に泊まり込んで作業を行った。これまでの審理で提出された木戸に対する検察側の主張と証拠のすべてを洗い直し、反論を必要とする事項を一つずつ漏れなく拾い上げることから始めた。特に力を入れたのは、木戸に対するコミンズ・カー検事の最終論告で指摘された事項への対応だった。このようにしてまとめられた最終弁論は実に295頁に達した。

 その冒頭で、木戸の宣誓口述書における木戸日記からの引用の仕方が不正確だというコミンズ・カーの主張に対して、ローガンは次のように反論した。

木戸日記は他の人々の日記と同様に、公表することを予定しておらず、短時間で書かれたものであるから、日記の内容が本人しかわからないことが多いのは当然であり、本人だけがその意味を正確に説明できる。日記を公開し、他人に理解してもらうためには、本人による説明や補足が必要になるのは当たり前のことである。さらに、木戸日記を正しく理解するにはその背景事情を含めてその時々の政治・社会情勢を踏まえて読む必要があるが、検察側の解釈は日記中の言葉尻を断片的に捉えたものが多く、日記の記事の真意を歪める結果になっている。
 また、検察は木戸日記を英語に翻訳させて利用しているが、訳文による理解には限界があり、木戸自身の説明に優ることはできない。しかも、検察の翻訳には誤りが多く、訂正すべき個所が少なくない。

 ローガンは続けた。この裁判では木戸に対する関心の多くが天皇との関係に集中しているが、当裁判所が判断すべき問題はただ一つ。木戸自身が侵略戦争の企画と遂行に加担したか否かである。木戸が内大臣として「平和に対する罪」を犯すほどの権限や影響力を持っていたかどうかだけが問われるべきだと述べ、内大臣の権限について次のように主張した。

内大臣は政府組織内の役職ではなく、宮廷内における天皇の側役にすぎない。日本では政府と宮廷は法令上も明確に区別されており、政治上の決定権限は政府に帰属し、宮廷には権限はない。検察側は木戸を「天皇の主席秘書兼補佐官」であると主張しているが、もしもそれが国の内外の政策決定のうち天皇の裁可を要する事項について内大臣が最終的な助言をする権限と責任を有していたことを意味しているならば、それは誤りである。大日本帝国憲法第56条は「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ズ」と規定していることから明らかなように、国政について天皇を補佐する権限と責任は国務大臣にある。内大臣にはそのような権限も責任もない。

 このあとローガンは、木戸が有罪とされた場合の減刑を求め、その裏付けとして、米内光政(元内閣総理大臣)、岡田啓介(元内閣総理大臣)、広瀬久忠(元国務大臣兼内閣書記官長)、細川護貞(元細川侯爵家当主)、石渡荘太郎(元大蔵大臣)らの口述書を提出した。この点については、無罪を主張しながら減刑を求めるのはおかしいとか、被告全員が一貫して無罪を主張して来たにもかかわらず、一人だけ減刑を求めるのは抜け駆け的で身勝手だとする批判的意見や不快感を示す被告や弁護人がいた。しかし、ローガンはあらゆる判決の可能性を考慮して万全を尽くすのは当然のことだとして揺るがなかった。

 続いて他の弁護人らの最終弁論があった後、1948年4月16日、ウエッブ裁判長は審理の終結を宣言し、判決の言い渡しを保留したうえで、その日は追って定めると述べて閉廷した。1946年5月3日に開幕した東京栽判はようやく判決を待つばかりになったが、ここまでの審理に約2年を要したことになる。

4.4 ローガン帰国へ

 ローガンは、法廷の審理がすべて終わったこの時期に、判決の言い渡しを待たずに帰国することにした。判決の言い渡しはかなり先になると予想されたので、ローガンはそれを日本で待つ余裕はなかった。2年前に慌ただしくニューヨークを飛び出してからこれまでただの1度も帰国することなく、夢中で木戸の弁護に打ち込んできたが、これが限界だった。

 判決までに審理が再開される可能性がまったくないとは言えないし、判決の内容によっては何らかの法的手続きをとる必要があるかもしれなかったが、その場合には、弁護人仲間のヤマオカとブラナンがローガンの代役を引き受けてくれたので、思い切って帰国を決断したのだった。今回は木戸もローガンの帰国を快く許してくれた。

 ローガンは帰国の前に家族を呼び寄せ、日本での最後の日々を共に過ごしたうえで、全員で一緒に帰国することにした。木戸の家族はローガン一家を逗子の別邸に招き、ローガンの献身的な仕事ぶりに対して深い謝意を表した。

 帰国を前にしてローガンにとって気掛かりなのは、言うまでもなく判決の行方だった。栽判手続きが終盤にさしかかるころから穂積弁護人や木戸孝彦と判決の見通しについて何回か話し合うことはあったが、自信を持ってそれを口にする者はいなかった。

 日本を去るにあたって、ローガンは依頼者のために全力を尽くしたという自負はあったが、無罪の獲得を目指す依頼者の期待に応えることができたという自信はなかった。これまでの法廷での裁判長の発言や指揮振りからみて、どの被告にも無罪判決が出る可能性は極めて少ないとローガンはみていた。

 「戦争を裁く」という人類史上ほとんど例のないこの裁判は、振り返ってみれば、矛盾だらけだった。栽判長も主席検事もこの裁判の目的が「正義」の実現にあると法廷で何回も口にしたが、それは勝者にとって都合のいい正義にすぎなかった。人類の長い歴史において、縄張りや領土や利権を巡る争いと殺りくは絶えることがなかった。力のある者が争いに勝ち、敗者の首領とその一族を殺し、敗者の領土を奪い取ることが当然のように行われてきた。東京裁判はその歴史に終止符を打ち、勝ち負けにかかわらず真の正義が実現することが期待されたが、それが実現できたと考える者はほとんどいなかった。

 帰国を前にして、ローガンは2年に及んだ日本での苦闘から解放されて帰国できる喜びを感じながらも、むなしさも少なくなかった。

 帰国するローガンとの別れについて、木戸は日記に次のように書いている。

1948年4月14日(水)晴
  昼一同食事に就いたところへ、ローガン氏が数日中に帰国することについて一同に挨拶に来られ、挨拶の言葉を述べたる後、各人と握手を交わし、一同を感激させた。平沼氏が一同を代表して礼を述べた。

 

  この時ローガンが被告たちに述べた挨拶の言葉は次のようなものだった。

私は最初に東京に着いた時には、これはとんでもない事件を引き受けたものだと、後悔しないでもなかった。しかるに、その後種々調査、研究をしているうちに、私どもがアメリカで考えていたこととは全然逆であって、日本には20年間一貫した世界侵略の共同謀議なんて断じてなかったことに確信を持つにいたった。したがって起訴事実は全部無罪である。しかしこれは弁護人である私が2年を費やし、あらゆる検討を加えてようやくここに到達し得た結論である。したがって裁判官や検事はまだなかなかこの段階に到達していないだろうと想像される。これが判決を聞かずして帰国する私の心残りである。 

 「起訴事実は全部無罪である」とローガンが言ったのは、被告たちへのリップ・サービスではなく、プロの弁護士としてのローガンの素直な見解だった。残念なのは、この裁判の根本的な仕組みに構造的な欠陥があったため、公平な判決を期待できないことだった。

 すべての審理が終わった4月16日、ローガンは最後の別れの挨拶に再び木戸に会いに行った。ローガンも木戸も、互いに相手の目を見つめたまま手を握り合った。どちらも多くを語らなかった。言葉を必要としなかった。木戸のその日の日記を引用しよう。  

1948年4月16日(金)雨
 午前10時45分の休憩の折に、ローガン君が帰国するにつき別れの挨拶に来られた。今迄の尽力について深謝し、固い握手を交わして別れたが、別れが惜しまれた。

 

 第5章 判 決

5.1 判決を待つ日々

 法廷での審理がすべて終わった直後に、裁判長は「法廷はその判決を留保し、追って発表するまで休廷する」と宣告したが、判決の言い渡し日を明らかにしなかった。あとで述べるように、その時点では判事団内部でまだ判決内容について意見の調整が難航していた。栽判長自身も、判決をいつ言い渡しできるか見当もつかない状態だったのだ。

 この間、法廷記者たちによる刑の予想が飛び交った。被告1人1人について、有罪か無罪か、有罪の場合に言い渡される刑罰の中身(死刑か無期か有期か)まで細かく予想する者もいた。被告全員が有罪になるだろうという点ではほぼ一致していたが、被告ごとに刑の予測は分かれた。ただ、東条英機だけは死刑の予想が圧倒的に多かった。本人自身が「死刑だ」と公言していたせいもあったようだ。

 最も予想が割れたのは、ほかならぬ木戸だった。訴追されていた訴因数が最多だったことから、「足し算」すると死刑に届くというもっともらしい予想屋もいた。逆に「文官」を死刑にすることはないという身分を重んずる者までさまざまだったが、死刑を予想する悲観論がどちらかというと優勢だった。

 被告の多くは、表面上どのような刑でも動じないという素振りを装っていた。しかし、判決の言い渡しを待つ身の辛さを嘆く被告は少なくなかった。

5.2 判事団の内部対立と混迷

 被告たちが判決を待つことの辛さを嘆いているのをよそに、判事団内部では熱い闘いが繰り広げられていた。法廷での審理が終わりに近づくにつれて、判事団の内部対立が深刻さを増していったが、いよいよ判決を取りまとめなければならない時が来ても、対立は解消される気配がなかった。裁判の冒頭で弁護人から「管轄不存在の動議」が出された時に、すでにその対応について意見の対立の芽が生まれていた。その時点では理由を先送りして動議を却下することで一時的に対立の激化を先送りしたものの、却下の理由については意見の調整ができないままだった。

 その後、遅れて来日したインド代表のパル判事が加わって、意見の対立は一層激しさを増した。パル判事は前記動議の却下の決定に加わっていなかったことから、却下の決定そのものに反対であるとし、「平和に対する罪」については全員無罪とすべきだと主張して、一人で自室に閉じ籠って無罪判決の草案を書き始める始末だった。パルは法廷を無断欠席することも少なくなかった。

 オランダ代表のレ―リンク判事も次第にパルの意見に同調する考えを示しはじめ、判事団の内部対立は鮮明になっていった。

 そのような中で、イギリス代表のパトリック判事を中心とするグループは、ウエッブ裁判長のリーダーシップに疑問を持ち、ニュルンベルグ判決を先例として「平和に対する罪」の有効性を認めるべきだとする立場で多数派工作を進めた。もしも東京裁判が「平和に対する罪」を事後法として被告全員を無罪にすれば、ニュルンベルグ裁判の判決と真っ向から対立し、2つの裁判のどちらが正しいかという問題を生じさせることになり、そのような事態は絶対に避けるべきだと、彼らは主張して譲らなかった。

 判事たちには、それぞれの出身国からの政治的圧力もあり、栽判の独立性との狭間で悩む判事が増えた。

 このような時期に、ウエッブ裁判長は母国オーストラリア政府から一時帰国せよとの命令を受けて、1947年11月10日に帰国した。ウエッブ解任の噂が流れたが、約1ヵ月後に東京に戻り、マッカーサーの指令でウエッブが再び裁判長席に着くことになったが、判事団を統率する力を失っていた。

 裁判所憲章第4条は「有罪の認定及び刑の量定その他本裁判所の為す一切の決定並びに判決は、出席裁判官の投票の過半数をもって決す」と規定していたので、多数派工作に成功したパトリック判事グループが判決文の起草を行うことを一方的に宣告し、その作業を開始した。このようにして、裁判所としての公式判決は、多数派グループが作成したものが採用され、これに同意できない判事は独自の少数意見を書くことになった。多数派から外されたウエッブ裁判長も補足意見を書いてメンツを保った。

5.3 ついに判決くだる

 1948年4月16日に審理が終了してから半年余りが経過した11月4日、ようやく判決言い渡しのために法廷が再開された。

 判決文は3部10章で構成される長文だった。ウエッブ裁判長がその全文を朗読することになるのだが、各被告に対する刑の言い渡しは判決文の最後に回されていたので、判決本文の朗読が終わるまで刑の言い渡しがなされることはなかった。その間、被告たちは自分の運命を決する瞬間が訪れるまで、さらに緊張に耐えねばならなかった。

 ウエッブ裁判長は、冒頭で、この裁判がなぜこれほど長期化したかを説明した。起訴内容に関する検察側と弁護側の見解が真っ向から対立し、双方から独自の主張を裏付けるための膨大な証拠の提出の申出があったことを挙げた。特に、弁護側から提出された証拠の中に起訴事実と無関係か関連性が薄いものが大量に含まれていたため、その多くを却下したが、それでもそのために審理が異常に長期化することになったと述べ、裁判長期化の責任の大半が弁護人側にあると述べた。

 裁判長のこの言い訳は、事実として、その通りだった。この裁判を通して、弁護人は主張できるあらゆる論点を主張し、検察側の反論にも屈することなく反撃し、裁判長の介入に対してもひるむことなく論戦を挑むなどして抵抗を続けた。当初半年程度で終わるだろうとみられていた裁判が2年半に及んだのは、ひとえに弁護人たちの闘志溢れる闘い方にあった。刑事裁判では、このような裁判の遅れを厭わない闘い方は被告弁護人の常套手段と言えるのだが、この裁判においては、裁判長が度々無用の口出しをして法廷の議論を混乱させたことも裁判の長期化のもう一つの大きな原因だったことは明らかだった。

 それはさておき、続いて裁判長は、裁判開始直後に弁護人が提起した管轄不存在の動議を却下した理由について、「ニュルンベルグ裁判所の意見とその意見に到達するにあたっての推論に、本裁判所は完全に同意する」と述べた。これは、裁判開始直後に理由も告げずに動議を却下した理由を2年半後のこの時期に初めて述べたものだが、なんとニュルンベルグ裁判の判決文に述べられたものをそのまま借用したものだった。判事たちが自身でくだした決定の理由を自らの言葉で語らなかったことに、弁護人たちは唖然とした。

 その後6日間にわたって、栽判長による判決文の朗読が続いた。その内容は検察側の主張の大部分をほぼそのまま容認したものだった。

 ローガンが冒頭陳述と最終陳述の中で強く訴えた「自衛戦争論」や「日本は挑発されて自衛のために決起した」という主張については、裁判所は、判決文の「B部第7章(太平洋戦争)」の「結論」の項において、次のように述べてそれらを一蹴している。

 日本のフランスに対する侵略行為、オランダに対する攻撃、イギリスとアメリカに対する攻撃は、正当な自衛の措置であったという、被告のために申し立てられた主張を検討することが残っている。これらの諸国が日本の経済を制限する措置をとったために、戦争する以外に、日本はその国民の権利と繁栄を守る道がなかったと主張されている。これらの諸国が日本の貿易を制限する措置を講じたのは、日本が久しい以前に着手し、かつその継続を決意していた侵略の道から、日本を離れさせようとして講じられたもので、まったく正当な試みであった。(中略)

 さらに、本裁判所の意見では、日本が1941年12月7日に開始したイギリス、アメリカ合衆国及びオランダに対する攻撃は、侵略戦争であった。これらは、挑発を受けない攻撃であり、その動機はこれらの諸国の領土を占領しようとする欲望であった。「侵略戦争」の完全な定義を述べることがいかに難しいものであるにせよ、右の動機で行われた攻撃は、侵略戦争と名づけないわけにはいかない。(以下略)

 11月12日、ついに被告に対する刑の言い渡しのときが来た。前夜まで、木戸の次男孝彦は父の刑についてできるかぎり情報を得ようと走り回った。だが、得られた情報は悪いものが多かった。その朝、法廷に到着した父にそのことを伝えると、父は「覚悟しているよ」とひとこと言っただけだった。

 その日、法廷に現れた裁判長は、判決文の残りの第8章「残虐行為」の項の朗読を行ったあと、いよいよ第9章「訴因の認定」に進んだ。そこでは各被告に対する訴因に関する裁判所の認定が告げられた。そして、各被告に対する認定の朗読が進み、木戸の番が来た。その内容は次のとおり最終論告における検察の主張を概ね踏襲するものだった。

 1937年に木戸は文部大臣として第1次近衛内閣に加わり、また一時期厚生大臣でもあった。1939年に平沼が総理大臣になると、木戸は総務大臣に任命され、1939年9月まで、引き続いて閣僚であった。1937年から1939年までのこの期間に、木戸は共同謀議者の見解を採用し、かれらの政策のために一意専心努力した。中国における戦争はその第2の段階に入っていた。木戸はこの戦争の遂行に熱意をもち、中国と妥協することによって戦争を早く終わらせようとする参謀本部の努力に対して、反抗さえしたほどであった。彼は中国に対する完全な政治的・軍事的支配の獲得に懸命であった。このようにして、木戸は、中国における共同謀議者の計画を支持したばかりでなく、文部大臣として、日本における強い好戦的精神の高揚に力を尽くした。(中略)
 内大臣として木戸は、共同謀議を進めるのに特に有利な地位にあった。彼のおもな任務は、天皇に進言することであった。彼は政治上の出来事に密接な接触を保っており、これに最も関係の深い人々と政治的にも個人的にも親密な間柄にあった。彼の地位は非常に勢力のあるものであった。彼はこの勢力を天皇に対して用いたばかりでなく、政治的策略によって共同謀議の目的を促進するためにも用いた。中国及び全東アジアとともに、南方の諸地域の支配を含むところの、これらの目的に彼も共鳴していた。 
 西洋諸国に対する戦争開始が近づくにつれて、完全な成功について海軍部内で懸念が抱かれていたために、木戸はある程度の躊躇を示した。このように気おくれしている状態でも木戸は中国に対する侵略戦争の遂行を決意していたし、イギリスとオランダに対して、また必要となればアメリカ合衆国に対して企てられていた戦争に力を尽くした。海軍の疑念が除かれると、木戸の疑念も除かれた。彼は再び共同謀議の全目的の達成をはかり始めた。そのときまで、西洋諸国と直ちに戦争することをあくまで主張していた東条を総理大臣の地位に就かせることに彼は貢献した。その他の方法でも、彼はその地位を利用して、戦争を支持し、またはそれを阻止するおそれのある行動を故意に避けた。特に、天皇に対して戦争に反対の態度をとるように進言することをしなかった。
 検察側は、訴因第33、第35と第36に記載されている戦争に対して、木戸の有罪を示す証拠を提出していない。
 戦争犯罪に関しては、南京において残虐行為が行われた際に、木戸は閣僚であった。しかし、それを防止しなかったことに対する責任を彼に負わせるには証拠が十分でない。1941年の西洋諸国に対する戦争中とその後についても、木戸の地位は残虐行為に対して彼に責任があるとすることはできないようなものであった。

 結局、木戸が有罪とされたのは、訴因第1(1928年から1945年までの期間における戦争の共同謀議)、訴因第27(対中国戦争の遂行)、訴因第29(対米国戦争の遂行)、訴因第31(対英国戦争の遂行)及び訴因第32(対オランダ戦争の遂行)であり、他の訴因については無罪とされた。全体的に言って、木戸に対する起訴事実の認定は、わずかな点を除き、検察の主張をほぼ全面的に認めるものだった。

 被告全員に対する認定の告知が終わった後、裁判長は、インド代表判事の反対意見、フランスとオランダ代表判事の一部反対意見、フィリッピン代表判事の賛成意見、栽判長自身の意見が提出されているが、裁判長はそれらを朗読しないと告げた。そこで、裁判長はいったん休憩を宣告して、判事団と全被告が退席した。

5.4 各被告に対する刑の言い渡し

 休憩後再開した法廷で、被告たちはアルファベット順で1人ずつ法廷に呼び入れられ、個別に裁判長から刑が告げられた。

 最初の荒木貞夫に終身禁固刑が言い渡された後、木戸の直前までに9人に刑が告げられた。そのうち3人が死刑(絞首刑)、6人が終身禁固刑だった。予想以上の厳しさだった。

 さあ、次は木戸だ。彼は足早に法廷に入り、裁判官席に向かって軽く一礼した。表情は普段より少し硬いように見えた。そのとき、裁判長が木戸に告げた。

木戸幸一・・・終身禁固刑」

 木戸はその瞬間も表情を変えることなく丁重にお辞儀をして退廷した。

 さらに刑の言い渡しが続いた。木村兵太郎松井石根武藤章東条英機に絞首刑が言い渡された。

 結局、この日まで生き残った25人の被告に対して、死刑(絞首刑)が7名、終身禁固刑が16名、有期禁錮刑が2名だった。なぜか絞首刑になった7名は、外交官出身の元首相の広田を除き、全員が陸軍関係者だった。予想されたとおり、起訴された被告全員が有罪だった。無罪とされた者がいたドイツの戦争犯罪人に対するニュルンベルグ裁判の判決と比べて、厳しいものだった。

 木戸に対する判事の評決は、死刑とする者が5名、終身禁固刑又は無罪とする者が6名というきわどさだったと伝えられている。木戸はわずかな差で死刑を免れたことになる。

 この日の木戸の日記には次のように書かれている。

1948年11月12日(土)晴曇り
 とうとう最後の判決の日が来た。例の如く午前8時過ぎ出発、市ヶ谷法廷に赴く。開廷前孝彦と面談す。9時半開廷。栽判長により俘虜関係の判決文が朗読されたる後、午前11時より午後1時半まで休廷。此の間判事は最後の会議をなすとのことであった。1時半開廷。栽判長より訴因に関する判決が読まれ、3時半休憩、約15分の後、被告は1人宛法廷に呼び出されて刑の宣告を受けた。A・B・C順だ。余は終身禁固を言渡された。死刑の宣告を受けたるは土肥原、広田、板垣、木村、松井、武藤、東条の7人だった。東郷の20年、重光の7年を除き、後は全部終身刑だった。訴因第1の共同謀議を特に重視して居ることが判る。暫く控室に居り、ケンウォージー中佐の好意でコーヒーの御馳走になり、巣鴨に帰ったのは7時15分だった。今度は第3号棟の独房に2人宛入ることとなり、余、畑勲と同室第29号室に入った。総ての戦は終わったというような気持で朗らかな気持ちだった。

 いつもの木戸らしい感情を抑えた日記だ。その後の12月7日の日記には、ローガンから判決について手紙が来たことを次のように記している。

1948年12月7日(火)晴
 11月29日付鶴子よりの手紙を受取る。ローガン氏よりの手紙が同封されてあった。11月15日付で判決について遺憾の意を述べられた誠に丁重な手紙だ。

 ローガンがこの手紙の中でどのように「遺憾の意」を述べているかは、残念だが、今では知ることができない。

5.5 多数判決と少数意見

 法廷で朗読された裁判所の公式判決は、イギリス代表(パトリック)、アメリカ(ヒギンス)、カナダ(マクドゥガル)、ニュージーランド(ノ―スクロフト)、ソ連(ザリヤノフ)、中国(梅汝璈)、フィリピン(ハラニーリャ)の7人の多数派判事によるものだった。

 法廷で朗読されなかった5人の判事の少数意見は、その後弁護団に配布された。これらの少数派判事の意見のうち最も注目されたのはインド代表パル判事の反対意見であった。先に述べたように、パルは遅れて来日したにもかかわらず、来日直後から被告全員を無罪とすべきだと主張し、早くからその考えに基づく独自の判決文を1人で書き始め、最終的に彼の意見書は多数派判事による裁判所の公式判決よりも長文になった。その骨子は、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」を定めた裁判所憲章は事後法であり、被告を処罰する根拠になりえないという。「通例の戦争犯罪」についても、残虐行為があったことは認めながらも、被告個人にその責任を負わせることはできないとして、全員を無罪にすべきだとしている。そして、パルは、多数派の判決が戦いの勝者が敗者の首謀を殺害するのは当然だとする古くからの考えから抜けられないでいると批判し、人類はまだ処罰の対象になる「侵略戦争」(悪い戦争)を的確に定義するだけの英知を持つに至っていないと断じて、自身が加わって行った裁判そのものを全否定している。

 全員無罪とすべきとした判事がもう一人いた。フランス代表のベルナールだ。彼は独自の自然法理論に基づき侵略戦争は既存の国際法が存在しなくても裁くことができるとの立場に立ちながらも、有罪とすべき十分な証拠がないとしている。また、天皇の戦争責任を問わない栽判はそれだけで欠陥であり、天皇免訴された以上、被告たちの責任を問うことはできないとしている。

 オランダのレ―リンク判事は、先に述べたように、当初は多数派の意見に同調していたが、次第にインド代表のパル判事の意見の影響を受けるなど、裁判の過程で考えが大きく揺れた。最終的に「平和に対する罪」の効力を認めたが、この「裁判所の管轄は太平洋戦争に限るべきである」と述べている。さらに注目すべきは、木戸被告を無罪としている点である。その根拠は、天皇の実際上の権力は大幅に制限されていたとし、天皇の助言者である内大臣の職責も限られており、木戸に対して「平和に対する罪」を認定する十分な証拠がなく、他の容疑についても証拠が不十分だと述べている。これは大枠においてローガンの主張に沿うものと考えられる。なお、レ―リンクは木戸以外に、広田、重光、東郷及び畑も無罪だとしている。

 ウエッブ栽判長も、結論において多数派の意見に同調しながらも、別途の意見を述べている。その1つは、天皇に責任があったとし、天皇を訴追しなかったことを被告たちの減刑の理由にすべきだと指摘している。興味深いのは、「平和に対する罪」による処罰を有効としながら、その罪だけで死刑を宣告することは不適当だとしていることである。ニュルンベルグ判決でそのような見解が述べられていたことから、その点でもその先例に従うべきだというのだろう。さらに、「平和に対する罪」を犯した者には、瞬時に命を奪う死刑より、終身刑とし日本国外に島流しする方が良いだろうというユニークな見解を述べている。

 残るフィリピンのハラニーリャ判事は、多数意見に加わっているものの、刑が寛大すぎ、もっと厳しいものにすべきだという。

 国際政治の荒波に揉みくちゃになりながら、判事団は多数決によって辛うじて一つの公式判決をまとめて面目を保った。判事全員が日本と戦った国の代表者で構成されていたにもかかわらず、彼らは決して一枚岩ではなかったのだ。世間では多数派の公式判決だけが大きく取り上げられているが、そこに至る過程で判事団内部において多数派工作を巡る熾烈な争いが繰り広げられ、きわどい評決で決着した事実を、我々は見落としてはならない。

5.6 米国最高裁への訴願

 東京裁判の判決が出たあとも、ローガンをはじめとする何人かのアメリカ人弁護人はまだ諦めていなかった。彼らはアメリカの連邦最高裁判所に対して東京裁判判決の無効宣言を求める訴願を提出することを被告たちに提案し、「やれることはすべてやるべきだ」という考えで説得を続けた。死刑判決を受けた広田と土肥原の2人がそれに同意したので、その2人を代理して、10月2日、アメリカに帰国していたローガンとスミスの2人の弁護人が米国連邦最高裁判所に申立てを行った。木戸、岡、島田、佐藤、東郷もそれに参加した。

 訴願の論拠は、マッカーサーが米国議会の承認なしに東京裁判を行ったことは米国憲法に違反して無効であるというものだった。受理される確率は極めて低いとの多くの予想に反して、米国最高裁判所は7日9人の判事の5対4の評決で訴願を受理する決定をした。米国最高裁判所が訴願を受理することを決定したとのニュースは、日本だけでなく世界の人々を驚かした。世界の国々からは、11の連合国による国際裁判の判決がアメリカの国内の裁判所によって再審査されることに批判の声があがった。日本国内では、訴願の成り行きを見守るため、死刑の宣告を受けた被告たちに対する刑の執行が延期された。

 訴願を受理した米国最高裁判所は、12月16日、ローガン出席のもとで意見の聴聞を開始した。そのことは日本でも新聞報道され、行方が注目されたが、20日に米国最高裁判所は訴願を却下した。却下の理由は「本件判決を下した裁判所は連合国の代表者であるマッカーサーにより設立されたもので、アメリカのいかなる裁判所もその判決を無効とする権限を有しない」というものであった。

 その結果、東京裁判の判決は最終的に確定した。延期されていた死刑宣告を受けた7人に対する処刑が12月23日午前零時1分から順次執行された。

 

第6章 判決後の出来事など

6.1 天皇退位を巡る動き

 東京裁判の判決で、天皇の側近であった内大臣が有罪とされたことに加えて、裁判所の少数意見の中に天皇が起訴されなかったことに対する批判が強く述べられていたことに、天皇は大きな衝撃を受け、退位の意思を表明するかもしれないとの噂が一時広がった。万一天皇が退位すれば、日本国民の動揺ははかり知れず、マッカーサーが進めている占領政策にも支障が生ずることを危惧したマッカーサーが働きかけ、それを受けて、天皇は退位の意思を否定するメッセージをマッカーサーに提出した。それによってこの騒ぎは収まったが、木戸にとって心が痛むできごとだった。

 最近の新聞報道によれば、昭和天皇はその後も晩年に至るまで「天皇の戦争責任問題」に悩み続け、苦しい胸のうちを周囲の者に漏らしていたと報じられている(朝日新聞2018年8月24日付朝刊)。

6.2 後続裁判の取りやめ

 東京裁判の審理が終結した時点で、日本にはまだ拘束中の多数の戦争犯罪容疑者が残っていた。その中には、「平和に対する罪」の容疑者(いわゆるA級戦犯容疑者)も含まれていた。そして、それらの者に対しては、東京裁判に続いて同様の裁判(第2次東京裁判)が行われることが予定されていた。

 しかし、東京裁判が当初の予想を大きく超える長期裁判になり、その方式による国際裁判の実施が関係国にとって大きな負担になったため、継続裁判の実施について疑問が提起されるにいたった。この背景に、東京裁判に参加したアメリカ人弁護士の激しい抵抗によって裁判の進行が当初の予想を超えて著しく遅れたことがあった。

 結局、1部の容疑者を除き、拘束されていた未決の容疑者は釈放され、それらの者に対する訴追は行われないことになった。東京裁判におけるアメリカ人弁護士の活動が間接的に多くの他の容疑者を救うことになったわけである。

6.3 木戸の仮出所

 1951年に締結され翌年に発効したサンフランシスコ講和条約により日本の主権が回復したのに伴い、既決の戦争犯罪人の管理が日本政府に移された。そして、1955年12月、木戸は仮釈放された。彼は、その後大磯で隠居暮らしを続け、1977年4月、87歳で病死するまで表立った行動や発言をすることもなく、ひっそりと過ごした。

 その間、インタビューに応じて、木戸が東京裁判について語った次の言葉が「木戸幸一日記―東京裁判期」に掲載されている。

 裁判は初めに予想されたよりも非常に長い時日を要したが、これは全く弁護人に米人がいたから出来たのだと思っている。(中略)とにかく米人弁護人は実によくやってくれた。日本人弁護人ではおそらくどうにもならなかったであろう。
 私の担当の日本人弁護人は穂積重威氏と私の次男の孝彦の2人であった。しかし穂積氏は間もなく浮き上った存在となったため、実質的弁護は殆どローガン弁護人と私の次男とでやった。ローガン弁護人の努力は大変なもので、ある時の如きは次男と逗子の私の別邸に1ヵ月以上泊まり込みで研究し、私のあの膨大な日記を殆ど覚えてしまっていた程である。

 また、木戸の次男の孝彦も、東京裁判終了後に、前記「東京裁判木戸幸一」に次の1文を寄せている。 

 父に対する米国弁護人の選任は、裁判開始の1946年5月3日現在では行われておらず、弁護人は穂積重威氏1人であったが、5月25日に新たに米国より来日した弁護士の中より、穂積氏の推薦によるウィリアム・ローガン氏を父の専任米国弁護人として依頼することとした。
 同氏が極めて優秀であって多数参加した米国弁護人の中でも出色な弁護士であったばかりでなく、個人的にも父のために熱心に弁護してくれたことは、我々にとってなにものにも代えがたい幸せであった。同氏を弁護人に得たことにより、弁護方策は全て同氏を中心に行うことになったのである。(中略)
 ローガン氏はその驚くべき努力と理解力により短時日の間に複雑な日本の政情と父の立場を十分解明されたので、父の弁護の方針としても当初予定していた数多くの証人の証言を中心とすることをやめ、木戸の口述書を日記を中心として作成することとし、証人はその口述書の補強証拠として使用することにした。

6.4 アメリカ人弁護人たちのその後

 東京裁判弁護団に参加したアメリカ人弁護人の中には、東京裁判終了も日本に留まり、日本で活動を続けた者がいた。

 原爆を投下したアメリカ人が罪の意識もなく暮らしていながら、真珠湾攻撃をした日本人を殺人罪で裁判にかけることの不当性を鋭く突いたブレィクニ―と、重光被告を最短の有期刑で救ったファーネスは、東京裁判終結後に別の軍事裁判にかけられた豊田副武元海軍大将の弁護を共同で引き受けた。豊田は連合艦隊司令長官軍令部総長などの要職を務めた海軍の大物だったが、東京裁判の被告にならないまま第二次A級戦犯栽判の候補として継続して拘束されていた。豊田は、第二次栽判を行わないことになって他の候補者が解放される中で、彼の責任の重さを考慮して別の軍事裁判にかけらることになり、東京裁判終結後、ブレィクニ―とファーネスは豊田の弁護を引き受けた。そして、見事に無罪を獲得した。

 その後、ブレィクニ―は東京に自分の法律事務所を開設し、国際法務を中心に弁護士としての仕事を行った。そのかたわら、東京大学法学部講師に就任し、学生にアメリカ法を教えた。飛行機の操縦が趣味であったが、1963年3月仕事のため愛機を操縦中に事故に遭遇して不慮の死をとげた。

 ファーネスも日本に留まり、東京に法律事務所を開設した。強靭な精神を飄々とした風貌で覆い隠したこの男は、日本で弁護士として活躍する一方、俳優としても活躍し、「私は貝になりたい」、「海の野郎ども」、「落日燃ゆ」など、いくつもの映画やテレビドラマに出演して渋い演技を見せた。なんと、テレビドラマ「落日燃ゆ」で、彼はウエッブ裁判長を演じている。

 さて、本書の主人公のローガンはどうしたか。彼が東京裁判での自分の出番が終わったあと、判決前にアメリカに帰国したことは先に述べた。だが、もといたニューヨークの法律事務所に復帰したものの、日本への想いを断ちがたく、同僚のジョージ・ヤマオカと共に、その法律事務所のオフィスを東京に開いて日本に戻ってきた。その後、ローガンは自分の法律事務所を東京に開設し、高齢のため引退するまで東京で弁護士として執務した。

 ブレィクニ―もファーネスもローガンも、日本ではまだ弁護士がほとんど関与することがなかった国際ビジネスに係る法務に従事し、日本に国際ビジネス法務の基礎を確立するうえで大きな貢献をした。それらの仕事を通して、弁護士のあるべき姿を日本人に広く示すとともに、日本の弁護士制度、ひいては日本の司法制度の活性化に大きな影響を与えた。

     

          晩年のローガン 

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おわりに 

 私事で恐縮だが、筆者は1965年4月、東京大手町の「ローガン・バーナード・岡本法律事務所」に入所し、弁護士としてスタートした。お察しのとおり、事務所名の冒頭の「ローガン」は本稿の主人公の姓である。

 そのとき、東京裁判終結からすでに17年の歳月が過ぎ、ローガンは63歳になっていた。当時とすれば定年を超える高齢にもかかわらず、事務所の経営責任に加えて、内外の顧客から依頼された仕事の処理に日々追われていた。

 筆者の知る限り、ローガンは事務所内で自分から東京裁判のことを話すことはまったくなかった。たまに仕事が終わったあとに、事務所近くのホテルのバーなどで一緒に息抜きをしているときなどに、こちらから東京裁判のことを話題にしても、重い口を開いていくつかのエピソードを話してくれたことがあったが、多くを語らなかった。今にして思えば、天皇のために無罪獲得を目指す木戸の強い願いを託されながら、それを果たし得なかった悔しさとむなしさが、ローガンの心の中でまだ疼いていたのかもしれない。

 最後に、本稿の「はじめに」に書いた疑問に筆者が答えるとすれば、次のようになる。東京裁判が勝者による復讐劇であったことは言うまでもないが、もともと裁判は被害者救済を目的の一つとして行われるものであるから被害者の復讐感情は裁判に付きものであって、東京裁判が特に異例であったとは言えない。重要なことは、裁判が適切なルールに基づいて公平に行われたかである。その点で、東京裁判の仕組みに大きな構造的欠陥があったため、公平さを欠いていたことは明らかである。

 敵国から来た弁護人は、この欠陥に苦しみながらも、可能なあらゆる手段を使って勝者の巨大な権力に果敢に挑んだが、むなしく敗れた。だが彼らは、敗戦で茫然自失の日本国民に代わって「本土決戦」を引き受け、東京裁判の法廷に敗者の声を臆することなく轟かした。それによって、日本人に計り知れないほどの勇気を与え、復興への確かな道へ導いたと言えよう。 

             ― 【完】 -