敵国から来た弁護人(1)

 東京裁判で元内大臣木戸幸一の弁護を担当した米国人弁護士ローガンの苦闘する姿を描いたドキュメンタリー物語 

 

はじめに 

 終戦の翌1946年(昭和21年)の5月3日に始まった東京裁判(正式には「極東国際軍事裁判」という)で、過去17年余りの期間に日本国が世界の各地で行った戦争に関して、28人の日本の最高指導者が殺人罪などを犯したとして個人責任を追及されて裁判にかけられた。2年半に及ぶ審理の結果、途中で死去した2人と精神病と診断された1人を除く25人の被告全員に有罪の判決がくだった。 

 この裁判は、日本と戦ったアメリカを含む11の戦勝国(「連合国」と呼ばれている)によって計画され、東京で行われた。容疑者を起訴した検事たちも、裁いた判事たちも、全員が戦勝国から送りこまれた人たちだった。栽判は連合国軍最高司令官マッカーサー元帥が制定した裁判所憲章に基づいて、アメリカ式の裁判手続きによって行われた。この裁判が勝者による敗者に対する復讐のための儀式だったと評する者が少なくないのはそのためである。  

 この裁判では、各被告に日本人弁護士に加えて、1名のアメリカ人弁護士がつけられた。といっても、被告がお気に入りのアメリカ人弁護士を自由に選ぶことができたわけではない。1部は当時日本に駐留していた米軍に所属する弁護士資格を持つ軍人が当てられ、残りは米国司法省がアメリカ全土から志願者を募って東京に派遣した弁護士の中から割り当てられた。彼らの報酬や費用は米国政府が負担したから、彼らは「あてがいぶち」の弁護士だった。 

 戦争に勝ったアメリカは、「復讐」のために日本の戦争指導者を裁判にかける一方で、その者たちの弁護のためにわざわざ費用を負担してアメリカ人弁護士を提供したのだが、それはいったいなぜだったのか。復讐に加担させるためだったのか。裁判の公正を装う偽装工作だったのか。 

 一方の被告たちは、どのような想いで、敵国の見ず知らずの弁護士に、自分の生死を賭けた裁判の弁護を頼んだのだろうか。 他方、敵国の戦争指導者を法廷で弁護するという例のない特異な仕事を与えられたアメリカ人弁護士たちは、どのような想いでこの仕事を引き受け、どのようにそれに取り組んだのか。敵国に対する憎しみと弁護士としての良心の狭間で苦しむことはなかったのか。 

 このような疑問を持つ人がいても不思議ではない。これらの疑問の答えを求めて、この裁判の弁護団に加わった1人のアメリカ人弁護士を中心にその足跡を辿った。彼の名はウィリアム・ローガン・ジュニア(William Logan, Jr.)という。 

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        東京裁判の法廷で弁論するローガン

 彼が弁護を担当した被告は元内大臣木戸幸一であった。本稿はローガンが木戸の弁護人として何を考え何をしたかを中心に、東京裁判速記録(国立国会図書館所蔵)、「木戸幸一日記―東京裁判期」(東京大学出版会)、その他の関連文献や参考資料を基に、東京裁判の一つの断面を描いたものである。

 

第1章 裁判は始まっていた

1.1 遅れて到着

 太平洋戦争が終結した年の翌1946年(昭和21年)5月17日の夜、20数名のアメリカ人弁護士の一行が東京新橋の第一ホテルに到着した。2週間前に東京で始まった極東国際軍事裁判の被告として起訴された日本の戦争指導者を弁護するために、アメリカ全土から急いで呼び寄せられ、日本に送り込まれた弁護士たちだった。

 どの顔にも長旅による疲労が色濃く滲んでいた。軍用飛行機から降り立った厚木飛行場から東京都心に向かう道から見た薄暮の日本の首都の光景が廃墟のようだったことも、彼らの疲労感を一層強めていた。都市としての機能を失った荒涼としたこの焼け跡で、これから何カ月も、もしかすると何年も、家族や友人が住む豊かなアメリカの街から遠く離れて過ごさなければならないことが、彼らの気持ちを萎えさせた。ある程度覚悟はしていたが、とんでもない所に来たことを後悔する者もいた。

 第一ホテルは、GHQ(正式の名称は「連合国軍最高司令官総司令部」)の高級将校の宿舎になっていた。ロビーは軍服姿のアメリカ人たちで溢れ、たばこの煙と軍人たちの体臭でむせかえっていた。

 到着したアメリカ人弁護士一行の中に、ウィリアム・ローガン・ジュニア がいた。彼は日本へ出発する間際まで、ニューヨークの法律事務所(Hunt, Hill & Betts)で弁護士として通常の業務に追われていた。このとき44歳の働き盛りの彼は、直前まで国際取引や海上輸送に関する法務を中心に裁判事件も数多く手掛け、多忙な日々を過ごしていた。

 彼と同じ法律事務所の同僚弁護士にジョージ・ヤマオカ(山岡)がいた。ヤマオカは、その名が示すように、アメリカ国籍の日系二世であり、日系人として最初にニューヨーク州で弁護士資格を取得したことで知られていた。ヤマオカは米国ワシントンの日本大使館の法律顧問をしていた関係で、東京裁判に派遣されるアメリカ人弁護団の編成や裁判の準備を手伝っていた。

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ジョージ・ヤマオカ

 ヤマオカは仲良しのローガンに弁護団への参加を熱心に勧誘していたが、ローガンは「ヒロヒトの弁護ならやってもいいけどね」と冗談交じりの返事でかわしてやんわり断っていた。「ヒロヒト」は日本の昭和天皇のことだったが、当時アメリカでは昭和天皇をそのように呼んでいた。そのころ連合国の間では天皇を裁判にかけるべきだという意見が有力だったので、天皇にもアメリカ人弁護士がつけられることになるだろうと思って、ローガンはヒロヒトの名を口にしたのだった。

 ローガンも、敵国日本の最高指導者を裁くという人類史上類例のない超大型の国際裁判に参加できる機会に弁護士として血が騒がないわけではなかった。しかし、継続中の重要な仕事をいくつも抱えていたため、ニューヨークを長期間離れることは難しいと思っていた。

 その彼がヤマオカの熱心な説得に負けてこの裁判の弁護団に加わることを決意したのは、出発のわずか一週間ほど前のことだった。そのころ、裁判は半年ほどで終わるだろうと伝えられていたので、その程度の期間なら、世界中が注目するこの壮大な裁判に身を投じ、自分の力を試してみるのも悪くないと思ったからだった。それは弁護士の性(サガ)とでもいうべきものだった。

 家族や友人・知人たちは、ローガンのこの決断に対して、「気でも狂ったのか」と言って反対した。戦争中あれほど憎んだ敵国の戦争指導者を弁護するために、現在の恵まれた仕事環境を投げ出してわざわざ廃墟の東京に出かけようとするローガンの行動に理解を示す者はほとんどいなかった。彼自身も日本人に対する侮蔑と憎しみの感情をまだ拭いきれないでいたが、そのような私情より、弁護士としての知的好奇心と野心が上回った。弁護士のキャリアにおいて、このような機会に二度とめぐり合うことはないだろうと思った。

「おもしろそうだ。やってみよう」 

 そう決心したローガンのその後の行動は速かった。自分が担当していた仕事の留守中の処理に必要な事務所内の引継を短期間で済ませて、急いで東京に向かったのだった。

 第一ホテルに到着したローガン宛に、一足先に来日していたヤマオカから分厚い書類の束が届いていた。書類には次のようなヤマオカのメモが添えられていた。 

ビル、お疲れさま。今晩はゆっくり休んでくれ。だが、明日からめちゃくちゃ忙しくなるぞ。明朝8時にこのホテルのレストランで一緒に朝食を食べよう。できれば、それまでにこの袋の中の書類にざっと目を通しておいてもらいたい。ところで、君を木戸幸一被告の弁護人に推薦したいと考えている。君の希望はヒロヒトだったけど、木戸はヒロヒトの身代わりに起訴されたと言われているから、君の希望に一番近い人物だと思う。ぜひ引き受けてもらいたい。ジョージ 

  「ビル」はローガンの、「ジョージ」はヤマオカの愛称である。ヤマオカから届けられた袋の中の書類は、東京裁判に関するさまざまな資料、木戸幸一の人物像に関する資料、起訴状や大日本帝国憲法の英訳文などが含まれていた。

 ローガンが担当してもよい被告としてヒロヒトの名を挙げたのは軽い冗談だったが、ヤマオカはそれを逆手にとって木戸を薦めているようだった。ローガンは「ジョージの奴にうまく先手を取られたな」と気がついたが、木戸がどのような人物か、何も知らなかった。急いで起訴状の英語版に目を通してみたが、木戸の経歴も起訴容疑もよくわからなかった。そこでさらにヤマオカから届けられた書類を見たが、木戸の最後の役職が英語で「Lord Keeper of the Privy Seal」と書かれていただけだった。この英語はイギリスで伝統的に使われていた特殊な宮廷用語で、国璽(国王の御印)を管理する役職を意味していたが、その職務の具体的内容はわからなかった。長旅で疲労困憊のローガンはそれ以上木戸について詮索する気力もなく、ベッドに倒れ込むようにして日本での最初の夜を過ごした。

 翌朝8時にローガンがホテルのレストランに行くと、すでにヤマオカは食事を終えて1人で書類を読みながらローガンを待っていた。挨拶もほどほどにして、ヤマオカは裁判の現状と今後の予定の説明を始めた。

 5月3日に裁判が始まったこと、裁判長による裁判関係者の紹介、起訴状の朗読、被告の罪状認否、裁判に関する弁護側からの初期的動議や異議の申立てとそれに対する裁判長の応答など、裁判の序幕ともいえる手続きがすでに行われたこと、本格的な審理は6月4日に開始し、検察側の冒頭陳述に続いて起訴事実の立証が行われる予定であること、弁護側の反論と反証はその後に行われることなどを手短に説明したあと、ヤマオカは怒りを込めて言った。

「大変だぞ。何もかも無茶苦茶だ。裁判を始められる状態ではないのに、しゃにむに始めろというのだ。われわれ弁護人のオフイスは裁判所の建物の中に一応確保されてはいるけど、他は何もかも足りない。秘書やタイピストや通訳・翻訳者などのスタッフが極端に不足している。紙や筆記用具やその他の事務用品も足りない。必要な書籍、文献で英語で書かれたものは何もない。時間もない。おまけに、弁護団はまだ1部しか揃っていない。絶望的な状況だよ」

 日ごろ温厚で冷静なヤマオカの口から出たのは、ため息交じりの愚痴と不満だった。「国家の命運と自身の命を賭けて戦った一国の最高指導者を、こんな状態で裁くのは無茶だ」

 ローガンはニューヨーク出発前に東京の惨状をある程度聞いてはいたが、昨日見た東京の焼け跡のすさまじい風景を思い出しながら、ヤマオカの話をうなずきながら黙って聞いた。

 ヤマオカはそこで話題を変えて、彼が薦める木戸幸一被告について話し出した。

「昨日届けたメモに書いたように、今回の裁判では君に木戸の弁護を引き受けてもらいたいと思っているので、その理由を説明させてくれ。木戸について君がどれだけ知っているかわからないけど、木戸は終戦までの約5年間『内大臣』だった人物だ」

 そのとき、ヤマオカは「内大臣」を「ナイ・ダイ・ジン」と日本語読みで発音した。

「確か、英文の起訴状などでは内大臣が『Lord Keeper of the Privy Seal』と訳されていると思うが、それでは意味が通じないだろうね。そもそもアメリカには天皇や国王のような者が存在しないから、天皇内大臣に対応する英語が存在しない。だから、無理やりそれを英語に訳しても、本当の意味は伝わらない。しかも日本の政治の仕組みは非常に複雑で曖昧でわかりにくいから、直訳するとかえって誤解を招きかねない。あえて簡単に言えば、内大臣は常時天皇の側にいて天皇を補佐するアドバイザーのような者だ。木戸はヒロヒトの信頼が厚かったので、天皇の側近ナンバー・ワンとして天皇に対する影響力は大きかったらしい。今起訴されている28人の被告のなかでは、木戸は東条英機と並ぶ大物だと言われている。実際に、木戸は全被告中で最多の訴因(起訴の対象になっている犯罪行為)について起訴されているのだ」

「木戸が大物」だと言うのを聞いて、ローガンは悪い気がしなかった。

「実は・・・」と言いながらヤマオカはあたりを見回し、声をひそめて話を続けた。「今起訴されている28人の被告の中にヒロヒトが含まれていないことは君も知っていると思うが、ヒロヒトの扱いはまだ最終的に決着がついていないようだ。マッカーサーは日本の占領統治に天皇の存在が不可欠だと考えているので、天皇を裁判にかけたくないと思っている。トルーマン大統領もマッカーサーの考えを支持しているので、アメリカは天皇不起訴でほぼ固まっていると言えそうだ。しかし、連合国の中にはまだ天皇を起訴すべきだと主張している国がある。特に、オーストラリアや中国やソ連天皇の起訴を今でも強く要求しているらしい。だから、この問題はまだ流動的だ。

 他方、天皇の戦争責任問題は日本国民の関心も非常に高い。日本の外務省は天皇が栽判にかけられることはもちろん、裁判所に証人として呼び出されることも、絶対にあってはならないと考えている。だが、この問題は木戸がこの裁判でどのような態度をとるかによるだろうと外務省はみている。そういうわけで、木戸の弁護人が誰になるかに外務省は大きな関心を持っている。俺は内々に木戸の弁護人として君が適任だと外務省に伝えており、外務省も了解している、というより、君が引き受けてくれることを外務省も強く望んでいる。だから、ぜひ君に木戸を引き受けてもらいたいのだ」

 ローガンは、裁判における自分の役割についてそのような水面下の動きがあることを知らず、初めて聞いて驚き、即座に言った。

「待ってくれ、ジョージ。そういう事情があるのなら、君が木戸をやるのがベストではないか」

「いや、俺は基本的にこの裁判では裏方を務めることにしている。いろんな雑用がたくさんあって、とても特定の被告の弁護をまるごと引き受ける余裕はない。特に、木戸のような大物はとても無理だよ」

 ヤマオカはさらに続けて言った。「ところで、ビル、君は今でもヒロヒトなら引き受けてもいいと思っているのか」

「いや、あれは冗談だよ」

「いずれにしても、木戸を引き受けてくれたらヒロヒトも付いてくるだろうね」

「それはどういう意味だ?」

ヒロヒトは日本国の元首であり、絶対的な最高権力者だったのだから、彼が起訴されようとされまいと、ヒロヒト抜きで日本の戦争責任を裁くことができるはずがない。だから、この裁判がこのままヒロヒト抜きで進んでも、ヒロヒトの責任は必ず栽判でいろいろな形で問題になるだろう。その際、おそらく木戸は身を挺してヒロヒトを守ろうとするに違いない。木戸はヒロヒトを守ることが自分を守ることになると考えているらしいからね。俺が『ヒロヒトも付いてくる』と言ったのは、そういう意味で、木戸を弁護することは必然的にヒロヒトを間接的に弁護することにもなるという意味だよ」

「木戸とヒロヒトの関係は俺にはまだ良くわからないけど、おそらく2人の間には潜在的に多くのconflict(利益相反)があると思うよ。木戸の弁護人としては、ヒロヒトの身代わりに、木戸の首を差し出すことに協力することはできないね」

「それはもちろんだけど、逆に木戸を守るために責任をヒロヒトに押しつけたら、ヒロヒトが裁判にかけられることになり、そうなれば、日本国民の猛烈な怒りをかうことになるだろうね。おまけに、マッカーサーからも彼の占領政策を妨害したと激しいお叱りを受けることになるだろうね」

「そうなると、俺は日本から追放され、そのうえ生きてアメリカに帰ることもできないということか!」

「そうかもね」と言って、ヤマオカはニヤッと笑った。そして2人は顔を見合わせて大声で笑い、ローガンは言った。

「いやはや、えらいことになりそうだね」

「うん。確かに、木戸の弁護は大変だし、難しい舵取りが必要になるだろうね。しかし、君以外にこの難しい役を頼める奴はいないのだ。だから、頼むよ」

「ジョージにそこまで言われたら、断わるわけにはいかないね」

「そこでだが、木戸の日本人弁護人として穂積重威という弁護士がすでに選任されているから、まず彼に会ってもらうのがいいと思う。君に木戸を推薦することは彼にも話してあるから、彼は君からの連絡を待っているはずだ。彼は木戸からアメリカ人弁護士の選任について一任されているようだが、木戸にも会ったうえで3者全員が納得して決めた方が良いだろう。木戸たち被告全員は『巣鴨プリズン』と呼ばれている拘置所に収容されているが、弁護人は自由に収容者に会うことができる。そのあたりのことは穂積弁護士が適当にやってくれるだろう」

 ヤマオカはそこでひと息ついて、さらに続けた。

「参考までに言っておくと、穂積は日本では数少ない英米法に精通した弁護士の1人だと聞いている。英語もしゃべれるらしい。彼は木戸の遠縁にあたり、その関係もあって木戸の弁護を引き受けたらしいが、彼は木戸のほかに、東条内閣で外務大臣を務めた東郷茂徳被告の弁護も引き受けている。外務省が先輩の東郷のために指折りの弁護士を探し出して東郷に紹介したというから、穂積はなかなかのやり手らしい。ただ、2人の被告の弁護を引き受けているので、穂積弁護士は非常に多忙らしい」

「そうか。良くわかった」

 ローガンが同意すると、ヤマオカは穂積弁護士の連絡先をメモに書いてローガンに渡した。

「じゃあ、俺は昨日到着した他の弁護士連中にこれから順次会って、同じような話をしなければならないので、これで失敬するよ」

 そう言って足早に立ち去るヤマオカの後ろ姿を見送りながら、ローガンは思った。戦時中、ヤマオカが2つの母国の狭間で苦しみ悲しむ姿を何度見たことか。今、ようやく戦争が終わり、日米の掛け橋としていきいきと活躍している彼の姿を見ながら、今回は彼の言うことに快く従おうとローガンは思った。

 だが、このときローガンは、自分の前途に途方もない茨(いばら)の道が待ち受けていることにまだ気づいていなかった。

 
1.2 木戸の弁護を受任
 遅れて来日したローガンは、遅れを取り戻すために急いでやらなければならないことが山積していた。最初にやるべきは、ヤマオカの薦めに従って、木戸の弁護人である穂積重威に会うことだった。

 穂積弁護士は物静かな紳士だった。木戸幸一に代わって、木戸の弁護を引き受けてほしい旨を丁重に述べたあと、ローガンの質問に答えて、木戸の経歴、容疑、裁判への対応方針等について、ざっと次のように説明した。

木戸幸一は、1889年7月18日に侯爵木戸孝正の長男として東京で生まれた。父の孝正は、西郷隆盛大久保利通と並ぶ明治維新三傑の一人である元勲の木戸孝允桂小五郎)の妹治子の長男であったが、伯父の木戸孝允の養子になっていた。したがって、戸籍上、幸一は木戸孝允の孫にあたる。幸一の妻はその名を「ツル」といい(幸一はふだん「鶴子」と呼んでいる)、元陸軍参謀総長児玉源太郎の末娘である。幸一とツルの間には2人の男の子がおり、長男は日本銀行に勤務している。次男の孝彦は東京大学法学部を卒業し、東京裁判開始後間もなく弁護士になり、幸一の補佐弁護人として父の弁護を手伝っている。このように木戸家は終戦まで日本を代表する名家の1つであったが、終戦直前に東京赤坂の居宅が米空軍の攻撃で焼失し、戦後幸一が爵位内大臣の職を失って収入の道を断たれたうえ逮捕拘禁されるに至って、今、幸一とその家族は経済的にも精神的にも苦しい立場に追い込まれている。

●木戸は、京都帝国大学卒業後農商務省に入省し、同省に勤務したあと、1937年から文部大臣、厚生大臣及び内務大臣に就任し、内閣の1員として閣議決定に加わる立場にあった。その後1940年6月1日から終戦直後まで内大臣を務めた。軍歴は一切ない。いずれの職務においても、戦争の開始、作戦、戦闘行為等を所管する立場になかった。しかし、内閣の一員として閣議決定に加わったことや、内大臣として元首である天皇を直接補佐する立場にあったことが起訴容疑になっていると思われる。ご存じと思うが、28人の被告に対する合計55の訴因のうち、木戸は実に54の訴因について起訴されており、これは全被告のなかで最多である。このことから、木戸は天皇の身代わりとして起訴されたのではないかという噂がある。また、彼が太平洋戦争の開戦を決定した東条英機を総理大臣として天皇に推挙したことが起訴の重要な一因とされていると言われている。

●木戸は、内大臣として天皇の側近であったことから、起訴されることを早くから予知し、天皇に累が及ばないよう全責任を一身に負い、有罪はもちろん、極刑も覚悟している。ただ、内大臣が罪を被れば陛下が無罪になるというわけではなく、むしろ内大臣が無罪ならば陛下も無罪、内大臣が有罪ならば陛下も有罪とみなされる可能性が高いと理解しており、裁判では無罪を主張するつもりでいる。木戸は彼のこの気持ちを汲んで弁護してくれることを弁護人に希望している。

●木戸は、1945年12月16日に逮捕されたあと、サケット検事により合計30回に及ぶ取り調べを受けた。その間、彼は進んで彼の日記を検事に提出した。天皇の平和に対する気持を客観的に伝えるために必要と考えたからであった。日記は1930年(昭和5年)から1945年(昭和20年)まで及ぶ膨大なもので、検事の捜査活動の基本資料とされ、木戸自身に対してはもちろん、他の被告にも甚大な影響を与えることになった。特に、木戸日記は軍人被告に厳しい内容になっていたため、木戸は彼らの強い怒りをかい、拘置所と法廷を往復する被告の送迎バスの中で他の被告たちから激しく罵倒されるなど、被告の中で孤立している。この木戸日記は裁判において検事側の有力な証拠とされると思われるので、弁護人としてもそれに対する十分な備えが必要になろう。

 これらの穂積の話はローガンの心を強く突き動かした。ローガンは即座に木戸の弁護を引き受ける意思があることを穂積に伝えた。

 穂積はアメリカ人弁護人の選任について木戸から一任されていたが、この日の面談について木戸に報告し、改めて木戸の了承を得てローガン宛の木戸の委任状を作成すると述べた。このようにして作成された委任状は、5月25日、ローガンに届けられ、ローガンは正式に木戸の弁護人に就任した。

 ローガンは早速ヤマオカにこのことを伝えた。アメリカ人弁護人の編成を手伝っていたヤマオカからは、感謝と励ましの言葉が返ってきた。

         

     ー 次の投稿(2)につづく ー

(本稿は長文のため、10回程度に分割して投稿させていただきます。ご不便をおかけしますが、なにとぞご辛抱の上、最後までお付き合いくださるようお願いいたします)