敵国から来た弁護人(2)

東京裁判で元内大臣木戸幸一の弁護を担当したローガンの苦闘する姿を描いたドキュメンタリー物語

 

これまでのあらすじ

 ニューヨークの法律事務所で国際法務の仕事に追われていたローガンは、同僚の日系アメリカ人のヤマオカの強い勧めに従って東京裁判弁護団に加わり、元内大臣木戸幸一被告の弁護を引き受けた。

 

1.3 木戸と初対面
 5月28日、ローガンは穂積と共に初めて巣鴨プリズンに木戸を訪れた。巣鴨プリズンは東京西巣鴨(現在の東京都豊島区池袋)の東京拘置所をGHQが接収し、戦争犯罪容疑者の収容施設として使っていた。

  木戸は、前年(1945年)の12月6日に自分に対して逮捕令状が出されたことを知り、その日の日記に、「予て期したること、淡々たる気持ちを以て迎う」と書いて、指定された場所に出頭した。奇しくも、その日は彼の結婚記念日だった。それ以来半年近く、彼はそこに収容されていた。

 

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               木戸幸一

 会見場に現れた木戸は、丸い眼鏡をかけ、鼻髭をたくわえていた。小柄な体格ながら、背筋をぴんと伸ばした姿に、天皇の側近らしい威厳があった。長い収容生活からくる暗い影が見え隠れするものの、裁判を闘い抜く闘志を失っていなかった。

 木戸は多くを語らなかったが、天皇のために無罪を勝ち取りたい気持ちを力強く述べ、そのための協力をローガンに求めた。木戸が囚われの身でありながら、自分自身のことより天皇の身を案じていることに、ローガンは心を打たれた。

 ローガンはこのところずっと気になっていたことを率直に述べた。

「木戸さん、私はあなたの弁護を引き受けましたが、天皇の弁護まで引き受けたわけではありません。現に、天皇は起訴されているわけではありません。私はまだあなたと天皇の関係を十分理解していませんが、この裁判におけるあなたと天皇の間には潜在的に相反する利害があるように感じています。あなたの弁護人として、あなたの弁護に全力を尽くすのが私の使命であり、その過程で他の人と利害が対立する場面や相反する状況に遭遇した場合には、その人に不利になっても、あなたの利益を優先する義務が私にはあります。たとえその人が天皇であっても同じです。この裁判における私の役目はただ一つです。あなたを守ることです」

 すると、木戸は、きっとなって、すぐに強い口調で言った。

「私は常に陛下の御心のままに行動してきたつもりです。陛下と私の間に利害の対立などあるはずがないと思っています」

 これに対してローガンはさらに何か言おうとしたが、一瞬口ごもり、ひと呼吸おいて言った。

「それをお聞きして安心しました」

その日、木戸は日記に次のように書いている。

1946年5月28(火) 晴れ
 3時半、運動が終わった直後に呼び出しがあり。穂積氏、ローガン氏を同伴して来られた。ローガン氏はニューヨークの大きな弁護士事務所に属して居られ、過去10数年法廷における被告弁護に当られ、敏腕の評ある人なりとのことなり。年齢44歳にして、物柔き落付きたる人柄なり。

 木戸が受けた印象のとおり、ローガンは態度も話し方も穏やかであり、気配りにもたけていた。面長の顔の前頭部が年齢以上に禿げあがっていたが、それが一層理知的で柔和な印象を与えた。仕事に取り組む姿勢は緻密で、徹底していた。彼は生後間もなく、生まれ故郷のスコットランドから両親と共にアメリカに移住したアメリカ移民一世であり、苦労して弁護士資格を取得した経歴の持ち主だった。その点で、同僚のヤマオカと相通ずるものがあった。

 

1.4 苦悩するローガン
 ローガンは直ちに木戸の弁護の準備にとりかかった。

 手始めに、日本の統治の仕組みとその中における内大臣の役割を知る必要があると考え、ヤマオカから貰った大日本帝国憲法(いわゆる明治憲法)の英語訳を読み始めた。読み進むにつれてローガンの驚きは増していった。ローガンが特に目を引かれたのは憲法の次の規定だった。

第1条  日本国は万世一系天皇これを統治する。
第3条  天皇神聖にして侵すべからず
第4条  天皇は国の元首にして統治権を総覧し、この憲法の条項に依り之を行う。
第5条  天皇帝国議会の協賛を以て立法権を行う。
第6条  天皇は法律を裁可しその公布及び執行を命ずる。
第11条  天皇は陸海軍を統帥する。
第13条  天皇は戦を宣し、和を議し、及び諸般の条約を締結する。
第57条  司法権天皇の名に於いて法律に依り裁判所之を行う。

 憲法のこれらの規定を文字通り解釈すると、世襲天皇が元首として日本国の立法、行政、司法の三権の全部を統括し、陸海軍を統帥し、宣戦布告から講和に至るまでの権限を一手に持っていたことになる。しかもその権限は、立法権について帝国議会の協賛を得ること以外に、なんらの制限も設けられていないのだ。加えて、欧米の先進国では、憲法は国の最高権力者の権限の濫用や横暴を防ぐために権力者の権限を縛る条項を設けているのが普通であるが、日本の明治憲法にはそのような規定がないばかりか、逆に「天皇神聖にして侵すべからず」と明記し、万能の神に等しい位置づけをしているのだ。

 戦時中、天皇のためなら死を恐れることなく突撃してくる凶暴な日本兵アメリカ人の恐怖の的だったが、その背後にこのような天皇の神格化があったことをローガンは初めて知った。天皇が神なら、木戸はさしずめ神の使徒だったのか。もしそうだとすれば、自分は神の使徒を弁護することになるのか。ローガンは唖然とした。

 実際に、「天皇は神のような存在である」という日本人は多かった。しかし、「天皇は君臨すれども統治せず」だったという日本人も少なくなかった。ではそれは具体的にどういう意味かとローガンが問うと、その返事は千差万別だった。その中で特にローガンの印象に残ったのは、ある老獪な日本人政治学者の次のような話だった。

 憲法が規定するとおりに天皇が表立って国を統治すれば、必ず天皇に不満を持ち、その失政の責任を追及する者が現れる。そして、天皇は現実政治の荒波に揉まれ、その権威が傷つき、地に落ちる危険がある。万世一系天皇を永遠に元首としていただく日本では、天皇の権威が傷つくことは絶対に避けなければならない。だから、天皇はあくまでも神の如き超世俗的な絶対的権威を持ち続ける必要がある。そのため、現実の国の統治は天皇の権威と名のもとに世俗の者たちが行うことにしている。もし国の統治に誤りがあれば、その責任はそれを行った世俗の者たちが負い、天皇に責任が及ぶことはない。これが日本の天皇制の真髄である。

 ローガンはこの老学者の説明がどこまで正しいかを判断できる知識を持っていなかったが、このことが妙に頭に残っていた。仮に老学者の説明が正しいとしても、国の最高指導者の戦争責任が問われている今、憲法上国の統治権のすべてを独占していながら、軍閥の暴走を防ぐための有効な手立てをとらなかった天皇は不作為の責任を問われないのか。では、天皇の身代わりに起訴されていると言われる側近の木戸の責任はどうなるのか。その判断の法的基準は何か・・・。その基準はどこに規定されているのか・・・。ローガンの頭の中を次々と疑問が駆け巡った。

 ローガンが不思議に思うもう1つは、戦争責任を問われて起訴されている28人の日本の元指導者たちが、今でも天皇を敬い、天皇の身代わりに裁かれることに公然と不満を述べる者がいないことだった。それだけではない。彼らはみな、天皇が被告としてはもちろん、証人としても、この裁判所の法廷に引き出されることを何より怖れ、身を挺してそれを防ぐことを堅く誓っているというのだ。なんという不思議な統治システムであるかと、ローガンはただ驚くばかりだった。

 不可解なことに、憲法のどこにも、総理大臣に関する規定も、内閣に関する規定も、内大臣に関する規定も、まったく見当たらないのだ。わずかに第55条に、「国務各大臣は天皇を輔弼(ほひつ)し其の責に任す」と規定されているだけだった。もし「天皇は君臨すれども統治せず」が事実ならば、天皇に代わって誰がどのようにして国を統治すべきかについて憲法が定めていなければならないはずだが、この最も基本的なことが憲法のどこにも規定されていないことがローガンを苛立たせた。

 次に、ローガンは起訴状を読んで木戸の容疑を確認することにした。起訴状は28人の被告全員に対してまとめて1通だけ作成されていた。そのため、起訴状は付属書を含めると膨大であり、個々の被告の容疑の全体を知るには起訴状の中から当該被告について触れられている部分を1つずつ拾い上げ、それらを統合して再構築する必要があるが、その作業は容易でなかった。

 さらに日本人の多くが驚いのは、起訴状が1928年(昭和3年)(張作霖事件勃発の年)1月1日から1945年(昭和20年)9月2日(降伏文書調印の日)までの17年半余りの長い期間中に被告たちが行ったとされる犯罪行為(訴因)を裁判の対象にしていたことだった。これはまるで日本の昭和史全体を裁判の俎上に載せているに等しい。日本人の多くは、真珠湾攻撃で始まった太平洋戦争だけが裁判の対象にされると思っていたのだが。

 起訴状は対象とする犯罪を次の3つの類に大別したうえで、全部で55の訴因を記述している。

第1類 平和に対する罪(訴因第1から第36)
第2類 殺人(訴因第37から第52)
第3類 通例の戦争犯罪及び人道に対する罪(訴因第53から第55)

 これらの罪のうち、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は、東京裁判に先立ってドイツで行われているナチ関連被告に対するニュルンベルグ裁判のために制定された裁判所憲章において採用されたものを、そのまま東京裁判用の裁判所憲章に取り入れたものだった。詳しくは後で述べるが、これらの罪は戦後に制定された裁判所憲章においてはじめて処罰の対象とされたものであり、その点で裁判所憲章はいわゆる「事後法」ではないかという重大な疑義があった。加えて、「平和に対する罪」も「人道に対する罪」も、明確に定義されていないためその意味が不明瞭であり、具体的に被告のいかなる行為がそれらの罪に当たるかが極めて曖昧だった。

 さらに起訴状は、上記期間において「全被告は他の諸多の人々と共に・・・一個の計画又は共同謀議の立案又は実行に指導者、教唆者又は共犯者として参画した」と述べているが、その内容も漠然としていて具体性に欠けていた。行動を共にしたとされている「他の諸多の人々」が誰を指しているか、「計画または共同謀議」とは具体的にどのようなものかもまったく特定されていなかった。

 17年半の長い年月の間に日本が世界中で行った戦争に対する28人の被告の責任を一網打尽に起訴して裁くためには、このような書き方をせざるをえない事情は理解できないわけではないが、被告と弁護人にとっては、いつ、どこで、誰と誰が、何をしたことが、どのような犯罪に当たるとして起訴されているかがまったく明らかにされていないのに等しく、これでは反論のしようもないと言わざるをえなかった。

 55の訴因の1つ1つが独立した犯罪を構成し、訴因ごとに当該訴因につき訴追されている被告の氏名が記載されていた。木戸は、これら55の訴因のうち54の訴因について訴追されており、訴追されていないのは訴因第18の「中華民国に対する侵略戦争の開始」のみであった。それが訴追対象から除かれたのは、その時期(1931年)に木戸は内大臣府秘書官長であり内閣の一員でなかったので、中国に対する侵略の決定に加わる立場になかったためと思われる。

 軍歴がまったくない木戸がこれほど多くの戦争犯罪について訴追されているのは不可解だが、世間で噂されているように、元首であった天皇の身代わりとして木戸が訴追されていることを疑わせた。その真偽は別として、ローガンとしては、木戸が訴追されている54の訴因の1つ1つについて、記載された事実の存否、それに対する木戸の関与の有無、関与があった場合の関与の具体的事実等を詳しく調査する必要があった。

 結局、憲法も起訴状もローガンの準備作業の有力な手がかりとなるものを与えてくれなかった。それだけでなく、ローガンの前には、数多くの難題が待ち受けていた。

 第1の難題は、木戸が全被告中最多の54の訴因について訴追されていたため、木戸の容疑が実に1928年から1945年までの17年半の長い年月における日本国内外のさまざまな政治、外交、取決め、交渉や戦闘行為に及んでいたことであった。しかし、ローガンはそれまで日本の歴史や政治に格別関心を持っていなかったので、ゼロから日本の歴史を勉強する必要があった。ところが、彼は日本語をまったく解さなかったから、英語で書かれたものに頼らざるを得なかったが、彼が利用できる英語の文献や資料は驚くほど少なかった。

 第2に、木戸は「内大臣が無罪なれば天皇も無罪、内大臣が有罪なれば天皇も有罪」との考えに基づいて、天皇のために自身の無罪を獲得することを自分の使命と考え、ローガンにすべての訴因について無罪を獲得することを求めていた。それは木戸一人の願いであるだけでなく、多くの日本人の思いでもあったから、その重圧はローガンに計り知れないストレスを与えた。ローガンが来日した翌日にヤマオカが言った「木戸の弁護人を引き受ければ天皇を無罪にする責任まで負うことになる」という意味が今になってひしひしと伝わってきた。

 第3に、そのなかでもローガンを悩ませたのは、木戸が終戦までの約5年間その任にあった「内大臣」の地位、職責、権限、責任等を的確に知るすべがなかったことだった。すでに触れたが、内大臣の任命や職責は当時の憲法にまったく規定されておらず、わずかに内大臣府管制(明治40年皇室令第4号)の第2条に「内大臣は親任とす。常侍輔弼し内大臣府を統括す」と規定されているだけだった。日本の長い宮廷史の中で生まれて変遷を経てきた宮廷組織における内大臣の役割は、日本人にとっても謎の多い存在だった。その実態は時々の天皇を取り巻く人々の勢力関係や時代環境に加えて、個々の天皇の個性など多くの要因によって変化してきたというから、外国人であるローガンにはまるで雲を掴むようなものだった。

 第4の難題は、膨大な木戸日記が検察側に提出され、検事団がそれを捜査や立証活動の重要な手引きとして活用していることだった。当然のことながら、木戸を弁護するためにはローガンもその内容を十分把握しておく必要があった。そのためには膨大な木戸日記を英語に翻訳してもらう必要があったが、その作業は困難を極めた。

 幸いなことに、このころ木戸の次男の孝彦が弁護士の資格をとって父の補佐弁護人になり、全力を挙げてローガンを助けてくれたことだった。孝彦は、木戸日記をはじめ、木戸が拘置所の中で書き綴った見解書やメモ、ローガンが要求するその他多くの資料の収集と解説、日々増え続ける膨大な量の書類の翻訳など、父とローガンのために献身的に働いてくれた。それによってローガンがどれほど助けられたことか!

 孝彦は、当時ローガンが直面していたこれらの問題について、「東京裁判木戸幸一」(「木戸幸一日記:東京裁判期」489頁以下)の中で次のように書いている。

父の容疑の中心である内大臣という職務が極めて理解しがたいものであること、天皇との関係が真に微妙であること、最も多くの訴因に対し訴追されていること、そして、「木戸日記」という大部の文書を既に検察側に提出していること、という特殊な状況下において、問題は如何にしてこれらの複雑かつ難解な状況をローガン氏に理解させるかにあった。(中略)既に述べたごとく、父の立場の特殊性と、内大臣の無罪は天皇の無罪に通じるとの米国流の法理のもとに、裁判対策としては徹底して個人弁護に終始する方針をとったため、弁護人としての私は、他の被告の弁護人の方々とは離れ、専らローガン氏に密着し同氏の理解を深めることに努力した。

 ローガンは、孝彦の助けを得ながら、日本の歴史や制度をゼロから勉強した。検事たちの虎の巻とされた木戸日記も翻訳文を繰り返し読んで、当時の木戸の日々の行動と心情と彼を取り巻くその時々の政治状況などを理解しようと努めた。木戸日記の中で理解できない部分があれば、その都度木戸に尋ねて彼の真意を確認した。木戸日記はローガンにとっても日本の昭和史を学ぶ恰好の教材になった。

 木戸自身も、内大臣の職務についてローガンの理解を助けるために次のような説明をメモに書いてローガンに渡した。
  

 内大臣の職務の解釈は我国法制の中で最も判り難いものの一つであるが、わかりやすく説明すれば、通俗的ではあるけれども、「天皇の御相談相手」ということだと思う。その起源は国家の制度機構上の必要によって設けられたものでなく、当時人事上の必要より設けられたのではないかと思う。明治18年我国において始めて近代的内閣制度が創設されるに当って、それまで永く太政大臣内閣総理大臣に該当す)だった三条実美公を据える地位に困って、内大臣の地位が設けられたと伝えられている。
 また、我国の憲法には内閣更迭の際の後継首相の奏請については規定がなく、これは一つの欠陥と言えば言えるが、明治時代より天皇が元老に御諮りになるということで支障なく行われてきたところ、漸次元老が死亡せられて遂に西園寺公1人となられ、同公は齢90になんなんとするに及んで自ら辞退する意思を表明されるに至り、ここに差当りの便法として湯浅内大臣の時代より内大臣に御下問と言う方法をとるに至った。この役割を為すに至って内大臣が国務を分担するに至ったと解するは事実に反する。

 

 このように、内大臣を務めた木戸本人がその地位と職務を説明するのに苦慮するほど、きわめて曖昧なものだった。ただし、内大臣の職責に関する木戸の説明は、内大臣としての法的責任を追及されている身として、自身の職責をできるだけ曖昧で小さく見せたいという彼の保身の気持ちの影響を受けている可能性があったから、ローガンとしては木戸の説明をそのまま受け入れることはためらわれた。

 このほかにも、木戸はローガンの多数の質問に対してその都度懇切に書面で返事を書いたうえに、裁判の過程で彼が随時気づいたことを書面にまとめてローガンと穂積弁護人に渡して彼らの弁護活動の参考に供した。
このような関係者の協力を得て、当初まるで空を掴むように思えたローガンの作業は少しずつ前進していった。

 だが、最大の障害は言葉の壁だった。ローガンと共に木戸の弁護を担当する穂積弁護人も木戸孝彦も当時の日本人としては英語の理解力は随分高かったが、彼らの助けを得ても外国人には神秘的ともいえる日本の政治システムを理解することは容易でなかった。互いに理解できないことによる苛立ちが、チーム内の人間関係を危機に追い詰めることも稀ではなかった。日本人たちは、どうせアメリカ人に日本のことがわかるわけがないという投げやりの気持ちになる一方、アメリカ人はどうして納得できるまで根気よく説明してくれないかと苛立ちがつのるのだった。

 このような状況の中でローガンを支えていたのは、弁護士としての意地とプライドだった。それは、ひとたび仕事を受任したからには依頼者のために全力を尽くさなければならないというアメリカの弁護士倫理の下で厳しく鍛えられた弁護士魂とでもいうべきものだった。依頼者が自国民であろうと、母国と戦った敵国のリーダーであろうと、やるべきことに違いはなかった。

             

-次に投稿予定の「 敵国から来た弁護人(3)」に続く-