敵国から来た弁護人(6)

東京裁判で元内大臣木戸幸一の弁護を担当したローガンの苦闘する姿を描いたドキュメンタリー物語 

これまでのあらすじ

  検事側の立証が進み、木戸にとってもローガンにとっても大きな山場の太平洋戦争段階を迎えた。この段階で検察が特に力を入れたのは2点。1つは太平洋戦争が日本による「侵略戦争」であったこと、2つ目は日本軍による真珠湾奇襲攻撃が国際法に違反する「騙し討ち」だったこと。検察側は多くの証人と物的証拠によって激しく被告たちの責任を追及した。この後まもなく検察側の立証は一応終わり、いよいよ弁護側の反攻が始まる時が来た。

 

 第3章 弁護側の反撃

3.1 弁護団の立証計画とローガンの冒頭陳述 

 検察側の立証に対抗する弁護側の反証は、裁判開始後間もなく開かれた弁護人会議で、全被告共通の一般事項と個々の被告に関する個別事項に分け、前者については全弁護人が分担して行い、後者については各被告の弁護人が個別に対応するとの基本方針が確認されていた。また、共通事項に関する反証はまず全体的な総論をやり、次いで検察側が区分した各段階ごとの各論を行い、個人別の反証をそれらの後で行うことも合意されていた。

 最初の共通事項の総論に係る冒頭陳述については、清瀬一郎が総論A(総括)を、高柳賢三が総論B(国際法)を、続いてローガンが総論C(自衛戦争論)を担当することになった。

 この段階になると被告間の利害の対立が鮮明になり、共通事項に関する冒頭陳述の内容について弁護人間の同意が得られない事態がでてきた。たとえば、最初に清瀬が行う予定の総括的冒頭陳述の草案は、彼自身の持論である国家弁護の立場が強調され、個々の被告の立場を十分反映していなかった。そのため、他の被告と弁護人から異論が続出し、何回も書き直しがなされた。それでもなお日本の戦争行為を正当化する論調が残っているとして、もともと戦争に反対だったという被告は清瀬案に同意できないと主張した。

 そこでローガンは、冒頭陳述がすべての被告を満足させることは不可能であるから、同調できない被告はその全部または1部に参加しないことが許されるべきだと主張し、その結果、清瀬の冒頭陳述に異議を唱えて不参加を選択した被告は、平沼、重光、広田、土肥原の4名にのぼった。このような経緯を経て行われた清瀬の冒頭陳述に対する内外の評価は分かれた。

 次に予定されていた高柳弁護人の冒頭陳述は法的問題を幅広く論ずるものだったが、裁判長は冒頭陳述はこれから提出する証拠による立証計画を述べるものであるうえ、高柳の論点はすでに却下済みの管轄問題を含んでいるとして、全部を却下し朗読を禁止した。

 その結果、ローガンの冒頭陳述が清瀬のそれに続いて行われることになり、2月25日にローガン自身によって朗読された。それは、ローガン独自の「自衛戦争論」に基づく弁護側の立証計画を披歴したものだった。その主な論点は、被告間に共同謀議はなかったこと、日本に対する世界の列強国による経済封鎖や包囲網が構築された結果、資源の乏しく狭い国土に高密度の人口を抱える日本は存立の危機に追い込まれ、自存・自衛のために決起せざるを得ない状態に追い込まれたことなどを骨子とするものだった。この狙いは、そもそも「自衛戦争」は侵略戦争に該当せず、「平和に対する罪」に当たらないというものだった。

 ローガンの出番はこの後も続き、検察側が区分した段階ごとの冒頭陳述のうち太平洋戦争段階に対応する弁護側の冒頭陳述も彼が行った。その内容は上記総論C(自衛戦争論)における太平洋戦争に関する主張を更に敷衍するものだったが、欧米側が早々に1938年に対日戦争計画を作成してその準備を着々と進めていたのに対して、その間日本は交渉による解決を目指し、戦争の準備は直前まで行っておらず、最初の導火線に誰が点火したかは明らかだと主張している。

 これらの論点はローガンが来日後の勉強で到達したものだったが、短期間でこれだけの主張をまとめたことに多くの日本人は驚いた。しかもその内容が太平洋戦争開戦の非は連合国側にあるというものだっただけに、驚きは一層大きかった。

 しかし、この立証計画に基づいて弁護側が提出した証拠の多くは、「起訴事実と関係がない」などの理由で裁判長によって次々に却下された。

 弁護側の共通事項の反証の過程で、原爆投下問題が再び法廷で議論される場面があった。当裁判所の開廷直後に原爆投下問題を取り上げたブレィクニ―弁護人がこの段階で「原子爆弾決定」と題する雑誌記事を証拠として提出しようとしたときに、英国代表のコミンズ・カー検事が「連合国側がどんな武器を使用したかは本審理に何らの関連性もない」として異議を唱えた。これに対して、ブレィクニ―は「ヘーグ条約で一定種類の武器の使用が禁止されており、連合国側が同条約に違反したことに対して、日本は報復の権利がある」と反論した。すると、「そうだとしても、日本の報復の権利は原爆投下後(から終戦まで)のわずか3週間にすぎない」と述べて裁判長が割って入ったが、ブレィクニ―は「わずか3週間の出来事でも被告の誰かを無罪にできるかもしれない。私の記憶では、その3週間に関する相当多数の証拠が検察側から提出されている」と再反論した。ブレィクニ―の反論はいずれも的を射たものだったが、裁判長は休憩後、「大多数の判事の決定により、本法廷は本件証拠を却下する」と述べてこの論争を打ち切った。

 

3.2 ローガンの一時帰国問題
   そのころローガンは個人的な問題に直面していた。彼がニューヨークを発ったときは、裁判は半年ぐらいで終わるだろうと言われていたが、それを越えてすでに1年近く経過していた。だが、裁判はいつ終わるか見通しも立たない状態だった。

 妻からは夫の帰国を待ちわびる手紙が相次いでローガンに届いていた。妻は双子の子供を抱え、夫の長期不在による窮状を訴えていた。

 また、彼が所属しているニューヨークの法律事務所からは、彼が担当していた仕事に関する問い合わせは減っていたが、それは事務所内における彼の居場所が失われつつあることを感じさせた。このあたりで一度帰国して、家族と職場における自分の存在をきちんと示しておく必要があると思った。

 栽判の現状からみて、いま彼が一時帰国しても大きな不都合は生じないだろうと考えられた。ただ、彼の帰国希望日が木戸の個人反証の日程とぶつかる可能性があるので、木戸の個人反証を全員の個人反証の最初に繰り上げて行えば、その問題が解消するので、そのことを木戸に打診した。ところが、木戸は珍しく反対した。その理由を木戸は日記に次のように書いている。

1947年4月25日(金)晴
 ローガン氏帰米につき個人フェーズに於いて順序を変えて余を一番最初に持って来ると言うことについては種々不利な点があると思う。而し小さい利害の問題は兎も角として、次の如き理由により小生は反対せざるを得ない。即ち若し順序を変えて余を最初に裁くと言うことになると、其の理由が米人弁護人の都合と言うことは世間一般には判らないので、裁判所が東条氏より余を重視して最初に持って来たと言う印象を世間一般に与えると思う。このことは余の訴因が東条氏より多いと言う事実と結びついて、このような観察の生ずることは必至と余には思われる。このことは折角好転しつつある余に対する世間の空気を再び悪化させることになり、余にとって極めて不利なるはもとより、陛下の御責任と言うこと迄再び世間の話題となる虞れもある。我国の世論がこのようになれば、これは陛下を引きこまんとする諸国に再び策動の余地を与えることにもなるので、この点は余としては慎重に考慮の結果、どうしても譲れない点である。而し一方小生は是非ローガン氏によって弁護して貰いたいのであるから、その辺御含みの上十分御折衝の上、何とか妥協点を御見出し下さる様願度。

 さすがに木戸の読みは鋭かった。ローガンはいさぎよく自分の帰国希望を取り下げ、木戸の個人反証の準備に集中することにした。

 

3.3 ローガン、木戸邸に泊まり込む
 木戸の個人反証において、ローガンが特に重視したのは木戸日記の活用だった。膨大な木戸日記を繰り返し読んで、当時木戸が何を考え、何をしたかを事細かに調べた。木戸日記を読めば読むほど、木戸日記を木戸の個人反証の中心に据えて彼の弁護を組み立てることが最善であると考えるに至った。

 この作業は木戸の次男孝彦の緊密な協力なくしては不可能であった。作業を容易にするために、孝彦はローガンが木戸の逗子別邸に泊まり込んで孝彦と共同作業を行うことを提案した。それはローガンにとっても願ってもないことだった。このようにして木戸邸での二人の共同作業が始まり、それは1か月を超えて続いた。

 もともと木戸の自宅は東京の赤坂にあったが、米軍の空襲で1945年4月に焼失したため、一家は一時京王線聖蹟桜ヶ丘の借家に身を寄せていた。しかし、戦後一家の主人の逮捕で収入の道を断たれたため、木戸の家族は借家を引き払い、逗子の別邸を日常生活の本拠にしていたので、ローガンと孝彦の仕事場もそこに設けられた。ローガンが木戸邸に泊まり込んでいたときの様子は、木戸日記に次のように書かれている。

1947年7月11日(金)晴
  9時頃法廷に行く。孝彦が来てローガン氏が逗子へ来てからの状況等を聞いた。中々勉強して居る様子で、結構だと思う。昼の休みに鶴子(木戸の妻)が面会に来た。ローガン氏の滞在は鶴子には中々気苦労の種だが、居心地よくやって居るとのことで先ず安心した。

 木戸が心配したように、思いがけず異国から大切な客人を迎えた木戸の妻にとって、気の休まる暇もない日々が続いた。そのころ、日本は未曽有の食糧不足に喘いでいた。その年のメ―デイには、「米よこせ」デモが皇居に乱入するなどの騒ぎがあったほど国民は飢えに苦しんでいた。そのような状況の中で、一家の主人を欠いた木戸家の台所を一人で支える妻の気苦労は想像を絶するものがあった。木戸の妻は元陸軍参謀総長児玉源太郎の末娘として裕福な家庭で育った身であったが、この時の苦労は計り知れないものだった。

 木戸は、当時の日本人男性としては珍しいほど、妻に対する気遣いの気持ちをもち、巣鴨プリズンに収容されている間も、度々妻に便りをしたためていた。妻は、家族のため、国のため、陛下のために、裁きを受ける身になった夫の身を案じながら必死に堪えていた。

 同居するローガンにも、彼らの苦境と気持が痛いほどわかった。それだけに、心苦しさは同じだった。夫や父を救おうとする家族の悲壮な思いがローガンにもひしひしと伝わり、ローガンの気持ちも家族のそれと一つになっていった。

 

3.4 被告の個人反証始まる
 1947年9月10日、一般事項に関する弁護人の反証が終わり、いよいよ被告ごとの個人反証が始まった。それは、被告と弁護人にとって、この裁判における最も重要なステージであった。各被告とその弁護人は、それに備えてできる限りの準備をしてきた。

 被告の経歴や訴追されている訴因等によって、当然被告ごとに弁護方針は異なった。これまでは国家弁護の旗印のもとに、ある程度共通の弁護方針が維持されてきたが、ここにきて各陣営は被告個人の弁護を最優先にした。その結果、法廷で被告同士がなりふり構わず互いに相手を誹謗する場面が現れるようになった。

 被告の証言に対しては、他の被告の弁護人と検察に反対尋問を行う権利が与えられるので、被告が証言台に立つことは反対尋問に晒されることによってかえって不利になる可能性もある。そのため被告によっては、証言台に立つことを避ける者もいた。広田被告のように、裁判を通じて一切弁明をしない方針を貫いた者もいた。結局、土肥原、畑、平沼、広田、星野、木村、佐藤、重光らの被告が証人席に着かなかった。

 検察側の立証と同様に、証人席に座る被告は事前に宣誓口述書を作成してそれを法廷で弁護人が朗読することで主尋問に替え、そのあとで他の被告の弁護人と検察に反対尋問の機会が与えられた。宣誓口述書を提出する被告はアルファベット順に被告席に座ることになっていたので、トップバッターは荒木、続いて橋本、板垣、賀屋の順で証人席に座り、そのあとに木戸の出番が来る。その時期は10月ごろとみられていた。

 ローガンが木戸の個人反証の準備で多忙を極めていた時期に、彼の妻が子供を連れて来日した。先に述べたように、ローガンが一時帰国を断念したので、しびれを切らせて妻の方から押しかけて来たのだった。片時も手を離すことが許されない重要な仕事が継続していたとはいえ、これほど長い間夫が家族から離れて暮らすことは、アメリカの夫婦のあり方としては弁解の余地がなかった。ローガンは裁判が終わるまで一時的に東京で家族が一緒に暮らすことを妻に提案したこともあったが、小学校に通う双子の子供を抱えての一時的な外国暮らしは無理だとして、妻は反対した。

 ローガンは多忙な時間をさいて妻を木戸のもとに連れて行き、挨拶させた。妻にとって初めての来日だったが、妻を日本の名所旧跡などに連れて行く時間的余裕はなく、不満げな妻が帰国するのを黙って見送った。東京裁判は、アメリカ人弁護人とその家族にも大きな負担と犠牲を強いていた。

 

3.5 木戸、証人席に着く

   被告たちの個人反証が順次進むのに合わせて、ローガンと木戸の間で木戸の宣誓口述書の仕上げ作業が急ピッチで進められた。

 先に述べたように、いずれの被告にとっても、個人反証がこの裁判の帰趨を決める最も重要な機会であった。とりわけ木戸は、木戸日記を検察側に提出したときから、国家弁護を主とする他の被告と袂(たもと)を断ち、一人我が道を行く覚悟をして、個人反証に栽判の命運をかけていた。

 木戸の口述書は、木戸が拘置所の中で書いた日本語の原稿をもとに、ローガンが英語で書きおろし、それを日本語に訳させたうえで、穂積と孝彦がそれに修正を加え、でき上がったものを巣鴨の木戸に持っていって見てもらい、それを木戸がまた直すという気の遠くなるような作業を全員が納得するまで何回も繰り返してまとめあげたものだった。このようにして作成された木戸の口述書はローガンが最終的にチェックしてできあがった英語版を原本とした。それは裁判官たちが専ら英語版を読むことから、英語版を重視したためであった。他の多くの被告の口述書は被告本人が書いた日本語版を原本とし、英語版はそれを英訳したものであったため、法廷で朗読される英文の口述書はぎこちなく、耳障りが良くなかった。その点でも木戸の口述書は異彩を放っていた。

 それと並行して、木戸の弁護のための第三者証人の選択、法廷への出頭の依頼、それらの証人の宣誓口述書の打合せや作成を行う必要があった。これらの作業には孝彦との緊密な連携が必要であったため、先に述べたように、ローガンは木戸の別邸に泊まり込んで孝彦と机を並べて作業を行った。その作業は時として深夜に及ぶこともあった。

 10月14日、いよいよ木戸の個人反証が始まった。木戸は被告席から証人席に向かってゆっくり進み裁判官席に向かって一礼して座った。重要証人の登場で法廷に緊張が走った。

 すかさずキーナン主席検事が立ち上がり、木戸の宣誓口述書があまりにも長いことに異議を申し立てた。だが、「この証人の重要性にかんがみ、弁護人の裁量に一任する」と述べて、異議を取り下げた。キーナンが一度は異議を述べたように、木戸の口述書は日本語版で実に372頁という膨大なものだった。それはすべての被告の口述書の中で最大だった。

 ローガンは予め用意した木戸の宣誓口述書を木戸に示して、それが木戸自身の口述書であること、その内容が正しいことを木戸に確認を求めたうえで、ゆっくり朗読を始めた。ローガンの朗読は10月14日に始まり、16日の午後まで続き、実に延べ3日を要した。

 木戸の口述書は次のような言葉で始まっていた。

 私、木戸幸一は、宣誓の上、以下の通り陳述致します。
 昭和21年5月16日に、私は当法廷に提出された起訴状中の私の名前が載っている54項目の訴因に対して「無罪」を申立てました。私は此所に右申立を再び確認し、且私の無罪なることを示す為に、証人台に立つ機会を利用し、起訴状中の前記項目の全部且各々に対して私が無罪であると言う事を疑いもなく実証し得ると信ずる諸事実を提示致そうと思います。(中略)
 私が昭和20年12月16日に逮捕せられた時に、私は全く自分の意思でサケット中佐に私が日記を持って居ることを告げました。私には隠したり、恐れたりすることは何1つありませんでした。
 私の生涯は軍国主義者と闘うことに捧げられて来ました。私は日記を持って居ること告げたばかりでなく、私に返して貰うと言う確言を得て、日記をサケット中佐に渡すようにさせました。
 この日記の各々の記事は、若干のものが翌日書いたものである以外は、其の記事の当日に私が書いたものであります。私は努めて日記を客観的に書きました。私が見、聞き、言い、為した事について正確と真実とを保つ以外に、何の考えをもって書いたものではありません。若干の部分で私の考えを述べて居ます。忙しさの為に時には出来事を記録することや完全に記録することが出来ないこともありました。(以下略)

 冒頭でこのように述べたあと、口述書は木戸日記の内容を随所に引用しながら、時系列的に検察のこれまでの主張に1つ1つ反論し、木戸に対する容疑が事実無根であると述べている。日記は木戸自身が見たこと、聞いたこと、言ったこと、行ったことなどをその日のうちにありのまま書き綴ったものであるから、その信憑性が高いという確信があった。実際に、日記を書く時点では、何年かあとに自分の身に降りかかるかもしれない災難を予期してそれに都合のいいことを書くことは不可能であるから、その点でも信憑性が極めて高いことは裁判官にも十分わかるはずだからであった。

 それらの反論のうち、特に重要な論点について、口述書は次のように述べている。  

 昭和16年10月、第3次近衛内閣の総辞職に伴い後継首相として東条英機を推挙したのは、東条が対米英開戦を強硬に主張する陸軍を抑えることができる唯一の人物であると考えたからである。実際に、彼は首相就任後にそれ以前の御前会議での対米英蘭戦争の準備を10月末までに完成すべしとの決定をいったん取り消した。(中略)

 昭和16年12月8日未明に到着したルーズベルト大統領から天皇宛の親書に関して、その直後に東郷外相から電話があり、その取扱いについて助言を求められた。自分は東条首相と相談することを薦めたうえで、天皇は深夜に拝謁を願ってもお厭にならないと信ずると告げた。その後、東郷が宮中に参内したとの報を受けて自分も午前2時40分に参内し、数分間東郷と言葉を交わした。しかし、その際にもその前の電話会話中も東郷は大統領の親書の中身を自分に話さなったので、自分は知らなかった。(「中略)

 真珠湾攻撃が行われたことは、その朝宮中から帰宅した後の8日の午前6時過ぎに、侍従武官の1人が電話してくれて初めて知った。日本艦隊が真珠湾に向けて日本本土を離れたときに、真珠湾攻撃を行う目的であることを自分は何も知らなかった。この攻撃計画は極秘の軍事機密とされていたため、自分は前もってその計画を知りえなかった。(中略)

 自分は終始太平洋戦争に反対し続けた。一度もこれを積極的に支持したことはない。しかし、不幸にして11月26日の米側回答(いわゆる「ハル・ノ―ト」)により、事態を救うべき道を全く失うに至り、開戦となった。悩んだ末、結局私は自分のとるべき路は一つしかないと決心。それは陛下に対して忠誠を尽くし、平和の恢復に努力することであった。そして、戦争の終結にあたって存分の活動をなし、それによって日本本土が戦場となることを防ぎ、幾10万もの生命を救いえたことはせめてもの慰めであった。(以下略)

 この木戸の口述書に対しては、他の被告や関係者からさまざまな評価が寄せられたが、中には「自分の責任をすべて他人に押し付けて、自分だけいい子になろうとしている」と手厳しく批判する者もいた。

 

3.6 次々行われた木戸への反対尋問
 ローガンが木戸の口述書を読み終えたあと、10人の弁護人によって木戸に対する直接尋問と反対尋問がなされた。木戸からもっと有利な証言を引き出そうと考える弁護人は直接尋問を、逆に木戸の供述内容を否定または弱めようとする弁護人は反対尋問を行うことが許されていた。

   木戸に対する直接尋問はファーネス(重光担当)、岡本(南)、ラザラス(畑)、ロバーツ(岡)、ブルックス(小磯)、佐久間(白鳥)、宇佐美(平沼)の7人の弁護人によって行われ、反対尋問はカニンガム(大島)、清瀬(東条)、山田(板垣)の三弁護人が行った。木戸日記をベースにした木戸の口述書は他の被告の罪状に大きな影響を与えるため、それらの被告の弁護人は待ち構えていたように立ち上がって木戸を追及した。特に軍人被告の弁護人たちは、木戸が主張する「私の生涯は軍国主義者と闘うことに捧げられて来ました」の部分について様々な角度から反撃を加えようとした。

 その中で特に注目を集めたのは清瀬の反対尋問であった。軍人出身の東条の弁護人清瀬は木戸が言う「軍国主義者」とそれ以外の者の区別の根拠が曖昧であることを突いて、木戸の証言の信憑性を突き崩そうとして鋭い質問を連発して木戸をたじろがせる場面があった。だが、清瀬の質問の目的を理解できない裁判長がたびたび介入して、清瀬の尋問は中途半端に終わった。

 最後に、キーナン主席検事が木戸の反対尋問に立ちあがった。当初イギリス代表のコミンズ・カー検事が反対尋問をやると伝えられていたのに、キーナンが登場したことで法廷はざわついた。ローガンは、かねてより木戸の証言に対する検察側の反対尋問がこの裁判の最大の山場になると考えていた。キーナンの反対尋問に木戸がどこまで耐えられるか。ローガンは反対尋問を受ける木戸以上に緊張してこの場面を迎えた。

 一方、キーナンは事前にマッカーサーから特別の指示を受けていた。木戸の口述書が天皇の戦争責任を明確に否定していないばかりか、むしろ天皇に責任があると解釈できる余地があるという意見がアメリカ国内にあったため、検察の反対尋問によって木戸の口から「天皇に責任なし」とか、「責任は自分にある」という明確な証言を引き出せ、というのがマッカーサーの指示だった。それによって、くすぶり続ける天皇の戦争責任問題に「けり」をつけたいとマッカーサーと米国政府首脳は願っていた。キーナンはこの役目を自分以外の者に任せるわけにいかないと考えて自分からその役目を買って出たのだった。

 キーナンの反対尋問は10月17日(金)午後2時40分に始まり、土曜・日曜の休日をはさんで、10月23日(木)午後2時15分までまる5日間も続いた。これは反対尋問としては異例の長さであった。

 キーナンは、はじめに木戸の経歴を時系列的に確認しながら、その時々における木戸と天皇の関わりを尋ねた。それらの質問に答えながら木戸は、憲法天皇は最高権力者であったが、実際の日本の政治は首相以下の国務大臣によって構成される内閣によって行われていたこと、天皇は宮中にいて重要事項について報告を受けたり相談にのることはあっても、自ら指示や命令を出すことは稀であったことなどを説明した。クーデターが発生し内閣の主要人物が襲われた場合でも、天皇が身の危険に晒されたことはなかったことも話した。それは天皇が現実政治の渦中にいなかったことを強く示唆するものだったからだ。このような質疑応答を経ながら、木戸(A)は巧みにキーナン(Q)を誘導し、実際の天皇は象徴的な存在にすぎなかったことを理解させようとした。そしてさらなる質問に答えて、

 A「陛下としては、いろいろ御注意とか御戒告とかは遊ばすが、ひとたび政府が決して参ったものはこれを御拒否にならないというのが明治以来の日本の天皇の御態度です。これが日本憲法の実際の運用の上から成立してきたところのいわば慣習法です」

    ここでキーナンは、太平洋戦争の開戦決定がどのように行われたかという最もデリケートな質問をぶつけた。

 Q「では学術論をさけて具体的例を言えば、一度内閣が開戦を決意した場合には、陛下はこれを阻止することは出来ないといわれるのですか」

 木戸は待っていたとばかりに答えた。

 A「さようであります」

 ここまでの木戸の対応は大成功だった。キーナンが欲しがる証言を与えながら、天皇の戦争責任を否定し、自分自身の責任を否定することにも成功した。

 その後キーナンの反対尋問は5日目に入り、木戸の開戦責任を左右する大問題に切り込んできた。1941年10月に近衛首相が辞任した際に、その後継首相として木戸が東条陸相天皇に推挙したことをキーナンは取り上げた。首相に就任した東条が太平洋戦争の開戦を決定したことから、木戸にも開戦の罪について応分の責任があるという観点からキーナンは反対尋問を続けた。

 キーナンは当時日本が戦争か平和かのギリギリの選択を迫られていたことを指摘したうえで、好戦的人物として知られていた東条ではなく、及川海軍大臣を後継首相に推挙することができたのではないかと木戸に迫った。これに対して木戸は、及川の起用には海軍内部に強い反対があったとし、開戦を迫る陸軍を抑える力を持つ東条を推挙すべきと考えたと反論した。キーナンはその後も木戸が東条を首相に推挙した意図について質問を続けたが、木戸はなんとか逃げ切った。

 キーナンはそこで話題を変えて、太平洋戦争の開戦前後の木戸の行動について木戸に質問を始めた。まずキーナンは、昭和16年12月8日の未明にグルー大使がルーズベルト大統領より天皇宛の親書をもって東郷外務大臣の所へ来たことを電話で東郷から報告を受けたときに大統領の親書の内容を聞いたのではないかと尋ねた。ここからの緊迫した1問1答を、少し長くなるが、速記録から引用しよう。 

 Q「その電報の内容がどういうものであるかということを、知ろうとしませんでしたか」

 A「東郷外務大臣が宮中に参内したと聞きましたので、私も参内し彼に話しかけようとしているときに、陛下がすでにお出ましになったと侍従が申してまいりました。それで東郷はすぐに拝承のために立ち上がってまいりました。その日はそれで会う機会を失いましたので、内容を聴く機会を失ったのであります」

 Q「再びあなたにお尋ねしますが、外務大臣に向かって、この電報の中に何があるかということを、聴いてみようと試みなかったのですか」

 A「話はしてみました。しようとしておったところでした」

 Q「外務大臣は、その電報がどういうものであるかということを、あなたに言いましたか」

 A「それを言いかけているときに、立ち上がって(陛下がいる部屋に)行かれたのであります」

 Q「それでは、なぜあなたは参内したのですか」

 A「私はそういう緊急な問題でありますから、陛下から何か御下問があってはいかぬと思って参ったのであります」

 Q「この日本の歴史上の重大な瞬間において、あなたはその場に同席したいと思わなかったのですか」

 A「普通は同席を許されておりません」

 Q「しかし、これはまったく特別の場合だったのではありませんか」

 A「特別の場合と言えばそうでありますが、特に私はお許しを願いませんでした」

 Q「どうして要求しなかったのですか」

 A「外務大臣が扱うべき仕事でありまして、特に陪聴(ばいちょう)する必要もなかったのであります」

 Q「あなたは、その電報の内容が外務大臣が取り扱うのが妥当であるところのことを含んでいると言うことについて、確かでありましたか。しかしその電報の内容を知らなかったとするならば、それは確かに外務大臣のみが取り扱うべきことであるということについて、確信をもてなかったのではありませんか」

 A「いずれにいたしましても、それまで私は国務大臣が所管事務を奏上いたしますについて、ともに拝謁したという例はないのであります。その時もそういう手続きはとらなかったのであります」

 Q「それでは、日本の近代の歴史の上に、そういうふうな前例がなかったのですか」

 A「私の知っている限りではありません」

 Q「しかし日本の天皇に対して深夜2時30分から3時までの間に拝謁を願うなどということは、非常に何か重大なことであったに違いないということについて、あなたは知らなかったのですか。知っていたのではないですか」

 A「それはきわめて重要なことでありますから、私も参内していつでも御用のできるように準備をしておったのであります」

 Q「しかしその前に、すでにあなたは、深夜中に天皇との拝謁の手はずが整えられ得ることを答えて居ります。それは非常に異例なことであったのではありませんか」

 A「異例なことであります」

 Q「あなたは、しかしこの電報が何か両国間の平和を保持するところの非常に強いそうして最後の努力である、この電報がそういうものであるのではないか、そういうことに関連しているものではないか、ということについて強い疑惑の念をもたなかったのですか」

 A「どういうものであるかについては、関心をもちました」

 Q「ただ今の私の問いに対する答えには十分なっておりません。いやまったく答えになって居らないと言いたいくらいです。どうか私の質問に答えてください」

 A「もう一度言ってください。私は答えたつもりですが…」

 Q「その当時、今にも戦争が起こるという状態を防止しようとして異常なる努力がなされつつあったということについて、お考えになったことはありませんか。そうしてあなたは、平和の代表者として指導者として、こういうふうな平和をもたらすところの努力に対して、手助けになろうということについて、関心をもっておりませんでしたか」

 A「それは関心をもっておりました」

 キーナンは木戸の答えに満足せず、同じような質問を繰り返して執拗に追及したが、木戸はキーナンの狙いに乗ることなく冷静さを保った。

 Q「なぜあなたは東郷が御前から引き下がってくるのを待って、そうしてその時に彼に話をして、どういうことについて奏上したかということをはっきりしようとし、もしあなた自身が手助けになるならば、手を貸そうとしなかったのですか」

 A「その時は東郷が御前を下がってすでに退出してしまったのを私は知りませんでした。私は自分の部屋におりましたものですから知らなかったのです。それで私はしばらく待って、何かお召しがあるかと思いましたが、お召しもありませんでしたので、私は侍従に連絡したら、陛下はすでに入御されたとのことでしたので、帰ってまいりました」

 Q「しかしあなたは家に帰ってから東郷に電話をして、一体どういうものであるかということをはっきりさせるために電話をかけるぐらいの好奇心はなかったのですか」

 A「私は事実かけなかったのであります」

 Q「私はそれではお聴きしますが、あなたはわざと電話をかけなかったか、それともただ電話をかけることが頭に浮かばなかったというのですか」

 A「頭に浮かばなかったのです」

 Q「あなたはあなたが宮城に、すなわち12月8日の午前2時40分から3時30分までおりましたときに、ハワイでどういうことが行われていたかということを知っていましたか」

 A「知っておりませんでした」

 Q「その朝、東京時間で約3時30分にハワイ真珠湾攻撃が行われたことを今は知っていますか」

 A「今は知っております」

 Q「それでは、ちょうどあなたが宮廷にいたころ、あるいはちょっとそれから2、3分後に、こういうことがハワイで起こったというのは、これは単なる偶然の一致ということなんですね。私が聴こうとしているのは、こういうただいま申しましたハワイ攻撃がどういうふうに行われたかということを知るために小さな会合が宮城で行われておったということが事実であるということをあなたに示唆しておるのであります」

 A「それは私は全然存じません」

 Q「以上であります」

 延べ5日間に及んだキーナン主席検事の反対尋問は、彼の「以上であります」という最後の言葉でようやく終わった。

 キーナンは、木戸は大統領の親書の内容を事前に知っていたはずだとみており、天皇に対して大統領の申出に前向きの回答をするように進言すべきだったのに、それをしなかったのは、「軍国主義者との闘いに一生を捧げた」という木戸の主張が嘘であることを認めさせようと執拗に迫ったが、木戸は巧みにキーナンの追及をかわした。

 ローガンは心の中で「よし、よし、よし・・・」と何回も叫んだ。「勝った」とまではいかなくとも、「大きな失点はなかった」と思った。そしてその瞬間、彼の肩からすっと力が抜けた。ローガンがこの裁判の最大の山場だと思っていた木戸に対する検察側の反対尋問を木戸がなんとか乗り切ったのだ。

 木戸への反対尋問が終わったあと、キーナンは同僚に「木戸は頭がいい奴だ」とぼやいて、自分の反対尋問で十分な成果を上げられなかったことを相手のせいにしたと伝えられている。

 ローガンは、木戸の証言がすべて終わったあと、木戸の弁護のために用意していた牧野伸顕(元内大臣)、鈴木貫太郎(元首相)、米内光政(元首相)、岡田啓介(元首相)、阿部信行(元首相)らの証人の宣誓口述書の提出を取りやめると法廷で宣言した。これまで裁判長は被告側の証人申請を厳しく制限していたことに加えて、検察側の厳しい反対尋問が予想されることを考えて、木戸自身の証言をもって木戸の弁護を打ち切った方が得策であろうと判断したからだった。このローガンの宣言に対して法廷にどよめきの声があがった。

 

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