敵国から来た弁護人(5)

東京裁判で元内大臣木戸幸一の弁護を担当したローガンの苦闘する姿を描いたドキュメンタリー物語

 

 

これまでのあらすじ

 遅れて来日したローガンらの参加で弁護団の体制は一応整い、1946年6月4日から法廷で検事側の立証が始まった。緻密に練り上げられた壮大な立証計画のもとに時系列的に進められた検事立証は、日本の昭和史の隠された秘密を次々と暴露し、その都度日本国民は衝撃を受けた。人的にも物的にも数で劣る弁護団は、準備不足もあって、対応に困窮する場面が続いた。

 

  2.8 太平洋戦争の審理開始で裁判は山場に

 1946年の秋が深まるころ、検察の立証は第7部(戦争の準備)と第8部(太平洋戦争)に進み、日本軍による真珠湾攻撃で火ぶたを切った太平洋戦争が裁判の俎上にのぼり、この裁判の最大の山場を迎えた。

 太平洋戦争について検察が特に力を入れたのは次の2点であった。1つは起訴状記載の「平和に対する罪」は侵略戦争を企て実行することを意味するとし、その観点から太平洋戦争が日本による「侵略戦争」であったこと、2つ目は日本軍による真珠湾に対する奇襲攻撃が国際法に違反する「騙し討ち」であったこと。この2点だった。

 木戸にとっても、ローガンにとっても、太平洋戦争は極めて重要だった。木戸は太平洋戦争を始めた「好戦的」な陸軍大将の東条英機を首相に推挙した責任や、陸海軍の統帥権を有する天皇に対する内大臣としての輔弼責任を追及されていたからだ。ローガンにとっても、弁護側の総括的弁論の役割分担に関する弁護士間の協議において彼が太平洋戦争に関する弁論の準備を行うことを引き受けていたため、木戸の弁護人としての立場に加えて個人的にも重い責任を負っていた領域であった。

 11月1日の法廷で、キーナン主席検事は「われわれはいよいよ日英米関係の段階に到達しました」と高らかに宣言し、アメリカから来たヒギンス検事に太平洋戦争に関する冒頭陳述を朗読するように指示した。ヒギンスは、あらかじめ用意した陳述書を朗読しながら、太平洋戦争に至るまでの日米関係の推移を述べ、その事実を証明するための立証計画を具体的に説明した。

 太平洋戦争関連で検察側が用意した証人や書証は多数にのぼったが、それらには歴代のアメリカの駐日大使や国務長官などの宣誓口述書が含まれていた。さらに、多数の日本軍関係者を尋問して作成した「真珠湾作戦」と題する文書などを書証として提出した。それらは日本が交渉による解決を目指していると装いながら、戦争の準備を隠密裏に進めていたことを事細かく暴き出すものだった。

   審理が進むにつれて、日本側の重要な国際通信や電話の多くがアメリカによって傍受・盗聴され解読されていたことが明るみに出て、日本国民は憮然とした。日本の政治・外交・軍事に係る重要な機密事項や日々の動きがアメリカに筒抜けになっていたのだ。

 検察側は知らないはずの日本の機密情報を次々と証拠として法廷に提出して被告や弁護人を驚かした。東京裁判で検察が提出した証拠の中には、それまで一般の日本人が知らなかった事実に関するものが少なからず含まれていた。検察は日本人関係者を次々と取り調べることによってやすやすと必要な証拠を手に入れていたのだ。

 一方、日本の官庁と軍は、終戦の直前と直後に、証拠隠滅のため大量の文書を焼却していたが、その目論見は外れて、証拠隠滅の効果がなかったばかりか、反対に自分に有利な証拠も失う結果になり、逆効果に終わった。

 検察側が登場させた証人の中で特に注目されたのは、太平洋戦争開戦前後の日米関係を最もよく知る人物と言われるバランタイン国務省顧問であった。彼が事前に作成した宣誓口述書を朗読しながら証言した内容は概略次のようなものであった。

 日米関係は日本が満州を侵略して満州国を建設し、傀儡(かいらい)政権を樹立したころから、日米関係は次第にぎくしゃくし始め、支那事変を経て、日本が中国への侵略を拡大するにつれて両国の間の緊張は増して行った。1941年4月から日米の民間レベルで緊張緩和のための交渉が開始し、その後日本側は野村駐米大使、アメリカ側はハル国務長官の間で「日米了解」の締結に向けた本格的な外交交渉に発展した。しかし、1941年7月、日本陸軍が南部印度支那に進駐したことにアメリカは強く反発し、日本の在米資産の凍結と対日石油輸出停止の措置をとった。その結果、日米の対立は決定的になった。
 事態を打開するために、翌8月日本側より、近衛首相とルーズベルト大統領による首脳会談の開催を申し入れたが、アメリカ側がその前提として要求する条件の予備交渉において両国は合意に達せず、首脳会談は実現しなかった。それに絶望した近衛首相が総辞職し、その後任に東条英機が首相に就任した。その後も日米交渉は続けられたが、日本は交渉を続けるふりをしながら、その裏で戦争の準備を着々と進め、その年の12月1日、御前会議と閣議を開き、米英に対する開戦を決定し、その日を12月8日と定めた。

 

2.9 開戦直前に来た米国大統領から天皇宛親書
 日本が米英に対する開戦を決行することにしていた1941年12月8日の前日に、アメリカ大統領ルーズベルトから天皇陛下に宛てられた戦争回避を訴える親書がアメリカの駐日大使グルーに届き、7日深夜から8日の未明にかけてこの親書を巡って日米間で外交上大きな動きがあった。

 ヒギンス検事の冒頭陳述とそのあとに証人として出廷したバランタイン国務省顧問の証言を総合すると、この親書に関する検察側の主張は概略次のようなものだった。

 ワシントン時間で12月6日の午後9時、アメリカ大統領ルーズベルトは、事態の悲劇的展開を避けることを願う天皇宛の親書をアメリカの駐日大使グルーに向けて「最大至急電報」で送信した。その一時間前の6日午後8時(ワシントン時間)、アメリカの国務長官ハルはグルー大使に対して注意を喚起するために、天皇宛の大統領の親書が送信されるとの予告電報を送信した。その予告電報において、グルー大使に対して自ら天皇に拝謁して親書を直接手渡すようグルーに指示が与えられていた。さらに、6日午後7時40分(ワシントン時間)に、大統領から天皇宛の「メッセージ」が送られる旨の新聞発表がワシントンでなされた。
 この天皇宛の大統領の親書を含むグルー大使向けの電報は発信から1時間後の7日正午12時(日本時間)に東京に着いた。しかし、それがグルー大使に届けられたのは10時間半後の7日午後10時30分(日本時間)であった。この配達に10時間半もの時間がかかったのは、何者かが東京中央郵便局に対して故意に配達を遅らせるように命令したためであった。
さらに、この電報がグルー大使に配達される前に、その内容が日本政府と軍によって解読され関係者に伝えられていた。
 グルー大使は天皇宛の親書を受け取ると、その翻訳が完了するのを待たずに、直ちに東郷外相に電話して至急面会したい旨を伝えた。15分後にグルーは東郷を訪問し至急天皇との拝謁を求めたが、東郷は深夜であることを理由に拝謁を断った。そこでグルーは、天皇宛の大統領親書を東郷に読み聞かせたうえで、その写しを東郷に手渡した。東郷は自分がすみやかに天皇の面前にそれを差し出すことをグルーに約束した。

 検察は大統領親電の配達が故意に遅らされた事実を証明するために、元逓信省で検閲を担当していた白尾干城を証人として出廷させた。白尾証人は親書の配達を遅らせるように軍部から指示を受けたことを証言した。
さらに検察は大統領の親書を証拠として提出した。親書の冒頭と末尾部分は以下のとおりであった。

 約1世紀前、米国大統領は日本国天皇に書を致し、米国国民の日本国国民に対する友好を申し出たるところ、右は受諾され、爾徳と指導者の英知によって繁栄し、人類に対し偉大なる貢献を為せり。陛下に対し余が国務に関し親書を呈するは両国にとり特に重大なる場合においてのみなるが、現に醸成されつつあると思われる深刻かつ広範な非常事態に鑑み、ここに1書を呈すべきものと感ずる次第なり。(中略)
 余が陛下に書を致すは、この明確なる危局に際し、陛下におかれても、余と同様に暗雲を1掃する方法に関し考慮せられんことを希望するがためなり。余は陛下と共に日米両国民のみならず、隣接諸国の住民のため、両国民間の伝統的友誼を回復し、世界におけるこの上の死滅を防止する責務を有することを確信するものなり。

 この大統領親書に対して日本側がとった行動は、このあとの被告・弁護側の反証段階において、木戸、東郷、東条などの被告に対する検察の反対尋問で厳しく追及されることになるのだが、天皇を常時補佐すべき立場にあった木戸がこの親書にどのように関わっていたかは、この裁判における彼の責任の帰趨に重大な影響を与えかねなかった。
  
2.10 お粗末だった日本の宣戦布告
 大統領親書について東郷外相が天皇に謁見していた1941年12月8日の午前3時半(日本時間)ごろ、日本陸軍が極秘裏にイギリス領マレーのコタバルに侵攻を開始し、その数時間後に日本海軍がハワイの真珠湾に奇襲攻撃を始めた。

 これらの戦闘行為の開始前に、日本国からアメリカとイギリスに対して国際法が要求する開戦宣言(宣戦布告)がなされなかったとして東京裁判で被告たちは厳しく追及された。日本のこの違法な奇襲攻撃にアメリカ国民は激怒し、「リメンバー・パールハーバー」の合言葉のもとに日本に対するに復讐心を燃やし戦意を高揚させたと伝えられている。

 バランタイン証人はこの点について次のように証言している。

 米国ワシントン時間で12月7日(日曜日)正午12時(日本時間では8日午前1時)ごろ、ワシントンにおいて、米国の国務長官ハルは野村駐米大使の電話による要求に応じて、午後1 時に野村大使及び来栖特命大使を迎える約束をした。約束の午後1時を過ぎて間もなく、野村と来栖から約束を午後1時45分に遅らせてほしいと電話で申出を受けた。それよりさらに20分遅い午後2時5分に両氏は国務省に到着し、午後2時20分にハル長官と会見した。野村大使は、東京からの電報の解読、翻訳、タイプに予想以上の時間がかかったため遅れたと弁明したあと、ハル長官に文書を手渡した。その時刻はハワイ時間で7日朝7時15分に始まった真珠湾攻撃より25分後だった。
 このとき野村大使がハル長官に手渡した文書は、その内容からみて、ハーグ開戦条約で要求されている開戦宣言とは言えないものであったが、日本の戦闘行為開始後に手渡されたので、いずれにしても日本は開戦条約に違反している。
 1方東京において、日本時間で8日の早朝、グルー駐日大使は外務省より直ちに来るようにとの電話で呼び起され、7時30分(日本時間)に外務省に到着した。すると、東郷外相はグルーに、その日の早朝午前3時(日本時間)に天皇に会ってルーズベルト大統領の親書の内容を天皇に伝えたと話したうえで、その日の午前4時(日本時間)ごろワシントンで野村駐米大使がハル国務長官に渡したとされる文書の写しを手渡した。
 このとき、東郷外相はこの文書はルーズベルト大統領から天皇に宛てた親書に対する返事でもあるとグルーに説明したが、それは明らかに事実に反する。なぜなら、この文書は大統領の親書がワシントンから日本に向けて発信される前に、日本からワシントンの日本大使館に送られていたものだから、大統領の親書に対する返事ではありえないことは明白である。 

 このような事実を踏まえて、検察側は、開戦前後の一連の日本の行動は国際法に違反するうえ、極めて詐欺的であり、日本による真珠湾攻撃は「騙し討ち」であると激しい言葉で日本を非難した。そして、検察はワシントンで野村駐米大使からハル国務長官に手渡された文書を証拠として提出した。その文書は7項目から成る長文だったが、第6項までは日米間で太平洋地域の平和のための交渉が続けられた経緯を長々と述べ、最後に次の第七項で締めくくられていた。

7、 惟うに合衆国政府の意図は英帝国其の他と策動して東亜に於ける帝国の新秩序建設に依る平和確立の努力を妨害せんとするのみならず、日支両国を相闘わしめ以て英米の利益を擁護せんとするものなることは今次交渉を通し明瞭と為りたる所なり。斯くて日米国交を調整し合衆国政府と相携えて太平洋の平和を維持確立せんとする帝国政府の希望は遂に失われたり。仍て帝国政府は茲に合衆国政府の態度に鑑み今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認めるの外なき旨を合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり。

 日本政府はこの第7項が開戦宣言の主旨を含んでいると主張してきた。しかし、日米両国が批准している開戦条約の第1条は、開戦宣言について次のとおり規定している

 締約国は、理由を付したる開戦宣言の形式、または条件付開戦宣言を含む最後通牒の形式を有する、明瞭かつ事前の通告なくして、其の相互間に戦争を開始すべからざることを承認す。

 バランタイン証人は、「野村大使がハル国務長官に手渡したこの文書は開戦宣言でもなく、最後通牒でもなく、外交関係断交の意思宣言でもなかった」と非難した。そして彼は、真珠湾攻撃の開始前に日本はなんらの通告もしなかったうえに、攻撃開始後に日本が手渡した文書は開戦宣言の要件を満たしていなかったから、いずれの点でも日本は国際法に違反していると主張した。

 また、日本軍は真珠湾攻撃開始より数時間前に、イギリス領マレーのコタバルやその他の地域でも上陸を開始していたが、イギリスに対して如何なる通告もしていないことも、同様に国際法違反であると主張している。

 バランタイン証人に対して、多くの弁護人が反対尋問を試みた。最初に立ったブレィクニ―弁護人は2日間にわたりバランタインを追及した。その中で、ルーズベルト大統領は日本の通信を傍受・解読して日本の艦隊がハワイの真珠湾に向かっていることに気づいており、日本軍が攻撃を開始することを事前に察知していた可能性があることをバランタインに認めさせた。それが事実だとすると、ルーズベルトはなぜ直ちに米軍に日本軍の攻撃への対抗措置をとるように命令しなかったのかという疑問が生ずる。日本に「騙し討ち」をさせてアメリカ国民の戦意高揚を狙ったルーズベルトの陰謀だという説があるのはそのためであろう。

 

 2.11 検察側の立証終わる
 季節は冬になった。最大の山場の太平洋戦争部門の立証が終わると、検察側の立証は俘虜の虐待などの通常の戦争法規違反に関する立証を残すだけになった。「マニラの大虐殺」や「バターン死の行進」など日本軍による虐殺や俘虜の取扱が国際法に違反していたとする検察の主張とそれらを裏付ける証拠が提出された。
年が明けて1947年(昭和22年)1月24日、ようやく検察側の立証は終わった。いよいよ弁護側の反論・反証の段階に進むことになるが、裁判長はその開始を1カ月後の2月24日に指定した。

 検察側の立証が終わったこの段階で、ローガンは自分が担当する木戸被告に関する総括的な情勢分析を行い、弁護人側の反証に進むにあたって問題点を整理した。

 まず、木戸の弁護を受任した直後に懸念した天皇の責任が木戸に押し付けられるのではないかとの点については、そのおそれは限定的であると判断した。天皇制の維持を日本の占領統治に必要だとするマッカーサーの考えを受けて、検察側が法廷で天皇の責任に触れることを明らかに避けていたからだった。検察の矛先は、むしろ日本を支配した軍国主義という正体不明の怪物に向けられ、天皇個人に向けられることはなかった。これはローガンにとって大きな救いであった。

 しかし、木戸固有の責任については、状況は極めて厳しいと考えざるを得なかった。木戸が内大臣に就任する前については、3つの大臣在任中に内閣の一員として閣議決定された事項のうち日本の戦闘行為に関するものは、彼の所管事項外であっても、検察は彼が閣議決定に参加した事実をもって「共同謀議」に加わったとして彼に責任があると主張していた。内大臣時代については、検察は内大臣の職責を広くかつ厳格に解釈したうえで、木戸にそれらの職責の多くの事項について不履行責任や戦争加担の責任があるとしており、これらの点を中心に強力な反論・反証を行うことが必要であると判断した。

 

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